219 呼吸感覚
朝練を始める前、起き抜けのジンのところにアクアがやってきていた。
シュウト:
「おはようございます」
アクア:
「おはよう。ちょっといい?」
ジン:
「ああ。どうせダメって言っても無駄だろ」
アクア:
「当然よ。私にもトレーニングをお願いできるかしら?」
ジン:
「は? パワーアップしたばっかりじゃねぇか」
アクア:
「それはそれよ」
彼女はセイレーンの歌声を真似ることで、大きくパワーアップしたばかり。なのにまた訓練が必要だという。そのどん欲さは見習わなくてはならないものだろう。
ふわりとトラブルメイカーの人が参戦。穏やかな微笑みの下には、きっと凶悪さを湛えているに違いない。←偏見
英命:
「もしや、水中での援護歌があまり上手く行っていないのでは?」
ジン:
「……マジ?」
アクア:
「そうよ、悪い?」
ジン:
「いや、いいけど、いいんだけど、アクアの名前で、水の中は苦手でしたとかってのはマズくないか?」ヒクヒクヒクヒク
顔ひきつりまくりで、笑うのをめっちゃ我慢している!
アクア:
「分かってるなら付き合いなさいよ。沽券に関わるのよ」
もう面白かった。2人とも基本クソ真面目なのに、絶妙にゆるゆるなのだ。でもどうすればいいのか、どうするつもりなのかはまったく分からない。
ジン:
「パワーアップだのの前に、原因だのを突き止めろよ。何か思い当たることはないのか?」
アクア:
「水の中は音の伝わり方が全く違うのよ。タンプリングダウンで音圧を一定にすることもできないし」
英命:
「なるほど、音速の違いが影響してそうですね」
シュウト:
「音速、ですか?」
英命:
「ええ。真っ黒な雷雲が近づいて来ている時、ピカッと光ってから、落雷の音が聞こえるまでに何秒かかったかで、距離が分かると教わりませんでしたか?」
ジン:
「毎秒340mとかだろ? 10秒だったら3.4キロ先とかって」
英命:
「それだけ距離が離れているよ、と安心させるためのものだったのでしょう。……とはいえ、雷の速度からすれば、10キロ程度は誤差の範囲でしかありませんが(苦笑)」
まったく安心できないと暴露してしまう辺り、やはり黒い。←偏見
アクア:
「雷の話がしたかったの?」
シュウト:
「えっと、音速の話でした。水の中だと何か変わるんですか? なんとなく遅くなりそうなイメージなんですけど。伝達速度とか」
英命:
「逆ですね。速くなったはずです。正確な数字までは出てきませんが」
ジン:
「具体的な数字が要るな。呼ぶか。……石丸てんてー! おーい、いーしーまーるぅー! おいでませー!!」
念話より大声の方が早いって話だろう。キャンプ地点はそこまで広くもない。時を置かず、ひょっこりと姿をみせてくれた。
石丸:
「……お呼びっスか?」ひょこ
ジン:
「ワリィ、水中の音速って毎秒どのくらいか知ってる?」
石丸:
「液体の成分や状態でも変化するっス。縦波と横波でもまったく速度が変化するっス」
シュウト:
「……縦の波なんてあるんですか?」
英命:
「気体と液体であれば、縦の波だけだったと思いますが、氷や地面のような個体であれば、縦波と横波が発生します。地震でいう縦揺れ・横揺れと同じものですね」
ジン:
「めんどくさっ! とりあえず、どのくらい?(苦笑)」
石丸:
「水の場合、毎秒1500メートル、海水の場合、毎秒1513メートルっス」
ジン:
「え!? そんな速いのか。はー、なるほろ。だから潜水艦のパッシブソナーで使えんだなぁ~」
シュウト:
「水と海水だと、ほとんど変わらないんですね」
この誤差が大きいか小さいかは視点によって変化するのだろう。アクアのように音を共鳴させようと思ったら、無視できる大きさではなくなってくるかもしれない。
ジン:
「空中と比べて何倍? 5倍はいかないよな」
石丸:
「標準的な音速で計算すれば、4.41倍っス」
ジン:
「……だってさ。異世界だから多少はちがってるかもしんねーけど、その辺は自分でなんとかできんだろ?」
アクア:
「ええ。客観的な数字って大事ね。……ありがとう、助かったわ」
石丸:
「どういたしましてっス」
アクア:
「で?」
ジン:
「で、ってなんだよ?」
アクア:
「ノドを鍛えるトレーニングはないの?」
ジン:
「問題なら解決したんじゃねぇのかよ(苦笑)」
アクア:
「それはそれよ。4.41倍をねじ伏せるのに、あらゆるものを使わないといけないでしょう?」
ジン:
「前にも言ったように、俺がお前に教えられることなんてほとんどねーんだよ。俺、武術関係の人、お前、音楽関係の人。俺の師匠に相当する人なら発声だのも教えられっけど、そっちの情報は流れて来てないんだ。だいたい声帯って筋肉じゃなくて『ひだ』だろ?」
アクア:
「いいから何か捻り出しなさいよ」
ジン:
「人の話を聞けー! 射手座午後9時ドンビ・レイ!」
やっぱり強い女性だな、と思いました。
オスカー:
「おはよう」
ネイサン:
「盛り上がってるじゃないさ。今朝は何の話?」
シュウト:
「おはようございます。えっとー、ノドを鍛える方法について、ですね」
アクア:
「さ、なんでもいいから」
ジン:
「本当になんでもいいんだな? んじゃー、コップに少しの水を用意します。90ミリぐらい」
シュウト:
「あ。えっと、少々おまちください」
雑用係発動。お冷やの用意をして戻ってきた。みんなやってみるつもりらしく、マイコップが並んでいた。90ミリってどのくらいだろう? 缶コーヒーの半分ぐらい?……とか思いながら注いでいく。
ジン:
「アバウトでもぜんぜんいいけど、一応、このぐらいの量で1セット、10回分な。合計3セットが目安。では、1/10の量を口に含みます。だいたいでオッケー」
アクア:
「ん」
口に水が入ったので、みんなしゃべれない。僕もだ。
ジン:
「まだちょい説明するからな~。これを、ゴックンと大きく、いい音をさせつつ飲み込みます。はい、集中して~、気を散らさないように、集中して~。はい、ゴックン!」
ゴックン。……こんな大きな音をさせて飲み下すのは久しぶりかもしれない。
ジン:
「もう1か~い。リラックスして~、口に含んだら、集中して~。はい、飲み、切るっ!」
ゴッ、クン! ……まだよく分からないけど、ノドを鍛える効果はありそうな気がする。
ジン:
「こんな感じ。気を散らさないように注意しつつ、『飲み切る』のが大事だね」
ネイサン:
「これって高齢者が誤飲を避けるためのトレーニングにも使えそうな感じだよね。いや、悪い意味じゃなくて」
ジン:
「そりゃそうだ。だって、それが目的のヤツだし」
ネイサン:
「ん?」
シュウト:
「えっ、と?」
ポカーンとなるような展開に固まりそうになる。ノドを鍛えるって、そういう意味じゃない気がするのだけど。ここで肝心なのはアクアがどう思うかだろう。おそるおそる様子を伺うと、堪えきれない様子でクスクスと笑い始めたところだった。
アクア:
「プッ、ククククク……」
ジン:
「なんでもいいから捻り出せって言ったのお前だろ」
アクア:
「いえ、違うの(笑) 笑ったのは別のことよ。気に入ったから取り入れてみるわ。ありがとう」にっこり
ジン:
「ならいいけど。……それとお前のパワーアップの件、手が無い訳じゃない。でも最終手段だから、困ったら声をかけろ」
アクア:
「わかった」
ジン:
「俺は朝のお味噌汁の時間だから。またな」
都合の悪い話(誤飲用訓練)を蒸し返される前に、さっさと逃げたような気がしたけれど、いつも通りでもあるのだろう。
アクア:
「流石ね、ゴックンって。私からは絶対に出てこない発想だわ。 まさに異文化交流の醍醐味ね」クックック
オスカー:
「あれ、本当に取り入れるつもり?」
アクア:
「ええ。せっかくだもの。やらない手はないわ」ひらひら
アクアはアクアで、機嫌良さげに去っていった。残された僕らがなんだか置いて行かれた気分だ。
ネイサン:
「どういうこと?」
シュウト:
「異次元の発想、的な?」
オスカー:
「…………」
英命:
「飲み込みの力を高めることは、長期的な視野では声帯などのノドを守ることにつながるでしょう。飲み込む際に、喉頭蓋でフタをし、気管側に食べ物や飲み物が入ることを防ぐようにできています。特に誤飲は肺炎の原因にもなりますし」
オスカー:
「それも大事だけど、もっと直接的なメリットがある話じゃないかな? たとえば、普通ノドを鍛えようと思ったら、発声練習とか、実際に歌ったりするよね」
ネイサン:
「でもジンは飲み込みの訓練をさせた……?」
オスカー:
「ああ。普通なら意味がないと笑って切り捨ててる。でもアクアは違った」
英命:
「……そうですね。ノドには肺に向かう気管と、胃に向かう食道とがあります。総合的な意味でのノドという器官は、その両方の機能を備えていなければなりません」
シュウト:
「というか、アクアさんだと声周りしか使ってなさそうですよね(苦笑)」
オスカー:
「きっと、それだ」
ネイサン:
「なるほどね。全体がAとBでできてたとしたら、Aばっかり鍛えているって訳だ。ある程度、B側も鍛てやればAにもプラスに作用するのかもしれない」
僕は虚実の話を思い出していた。フェイントばっかり鍛えても、フェイントは上手く行かない。今回、ジンに計算はなさそうだった。無意識にそういうのを引き当ててしまうのが、逆にジンらしい気もする。
ふと、誰かに「すっごくノドが鳴ってた~」とか笑われたような記憶を思い出していた。これのせいで、普段ノドを鳴らさずに食べる習慣を身につけたのだろう。それが誤飲の遠因かもしれないと思うと、苦笑いが浮かんだ。少しばかり悲しい気がするのだった。
◆
ジン:
「今朝は、特別な訓練を施そうと思う」
レイド出発前の訓練。今朝も足ネバだろうと思っていたので、少し意外に思った。何の訓練だろう?
葵:
『なにやんのー?』
ジン:
「呼吸法の一部分を取り出して、『呼吸感覚』の訓練を行う。
そもそも呼吸法の体系は、『呼吸運動』が中心になっている。でも、そっちの訓練をしても実力に結びつくまでには長い時間を必要とする。今回のレイド中に成果が出ないと思われるので、バッサリと諦めることにした」
オスカー:
「大胆だね(苦笑)」
レオン:
「その呼吸感覚というのは?」
ジン:
「ひとつずつ説明していこう。では、今から『新説』という名の魔法を使うぞ。それなりの心持ちでいてくれ」
シュウト:
「つまり、また新しいのってことですか……?」
また新しいものへの挑戦がはじまりそうだった。
ともかく呼吸関係だと自分の領分だ。『呼吸法に関する特別な才能』が僕の根幹でもある。やる気が沸き上がってきた。がんばってモノにして、パワーアップしよう。
ジン:
「従来、呼吸は主に肺で行うものとされていたが、鼻の奥の空間、鼻腔でも酸素の取り込みが行われている、と考えられる」
スターク:
「はぁ。……そうなの?」
みんなピンと来ていない。これが新説の魔法ってことなのだろうか。
葵:
『そのビクウってので呼吸できんの?』
ジン:
「科学的・医学的な知識の裏付けはない。最新の知見とかなんかあるかもしれないけど、どっちにしろ俺は知らないので一緒だな」
英命:
「補足しておきます。日本語の場合、『びこう』が一般的な読みになりますね。『びくう』は医学的な名称から来ているようです。副鼻腔炎などの場合に、びくうが使われています」
葵:
『医学の裏付けがないのにびくうってどういう事だ? 詐欺かコラ?』
ジン:
「いや、びこう呼吸より、びくう呼吸の方が収まりがいいだろ?」
ユフィリア:
「うーん。びくうの方が空気っぽい気がする!」
ジン:
「だろ? そう思うだろ?」
裏付けがないというのは困った話だとは思う。しかし正直に言うと、僕はどっちだっていいと思ってしまっている。ジンの言うことを受け入れるだけだ。逆らったって無駄だし、きっと役に立つ話だろう。反論できるだけの知識もないのだから抵抗しても仕方がない。ぶっちゃけ、正しいかどうかにも対して興味がない。正直、パワーアップできればなんだっていい気がする。
アクア:
「一応、確認で質問するのだけど、裏付けがなくて大丈夫なの?」
ジン:
「問題ない。まぁ、俺の師匠に相当する人は、あんまり裏付けのないことは言えないと思うんだ。社会的な立場とかマズかったりしそうだし。けど、俺は特に失うものなんざないからな。今回のは俺のオリジナルだし、あの人に迷惑も掛かんない。従って、なーんも問題ない!」バッバーン
ネイサン:
「じゃあ、ジンのオリジナルってことだ?」
ジン:
「そう。だけど、どうせ俺の言ってることの方が正しいから」キッパリ
自信がありそうだった。一安心である。
ヴィルヘルム:
「続けてほしい」
ジン:
「誰でも1度は、鼻がつまって呼吸がくるしかったり、頭がぼーっとした経験があるだろう。しかし、肺呼吸で大半を賄っているのだとしたら、これはおかしな話だと思わないか?」
ウォルター:
「オレが反論役を受けもとう。それは口での呼吸量が、気付かぬ内に少なくなっていたからではないか? 鼻での呼吸がくせになっている、などして」
ジン:
「その可能性はある。しかし、口呼吸をいくら繰り返しても、鼻呼吸している時のクリアな感覚にはならないだろう。それはなぜか? ……俺は、肺から脳までは距離が遠すぎるのが原因だと考えている」
シュウト:
「遠いんですか?(困惑)」
ジン:
「肺でガス交換して、酸素を含んだ血液にする。それが心臓のポンプで送り出され、脳に到達する。そこまでの間にも消費されてしまうはずだろ? 組織や細胞はどこも生きてんだし。だったら心臓から脳までの間の組織がもっとも元気だということになってしまう」
ウォルター:
「……それだって、別に構わないんじゃないか?」
ジン:
「いや、不合理だ。脳に大量の酸素が必要だとしたら、あまりにも効率が悪い。人体が合理的だと仮定するのならば、もっと脳に近い部分に、酸素を供給するための仕組みが存在するはずだ」
ヴィルヘルム:
「なるほど、それが鼻腔ということか」
ジン:
「そして鼻腔が脳のための呼吸装置だとすれば、肺はもっとも重要な臓器のひとつ、心臓のためのもの、ということも見えてくるだろう」
オスカー:
「ポンプで送り出す前に、真っ先に心臓のためってことだね」
ウォルター:
「……一定の筋は通っているように思える。ここから先は証拠や証明が必要になりそうだが、どうだろう?」
特に反論はなさそうだったので、先に進めていくことに。
ジン:
「少しばかり補足していこう。まず、なぜ、鼻腔呼吸が発見されなかったかと考えてみると、それぞれの臓器に対して、その機能を調べる形式をとったからだと考えられる。その結果、鼻腔を臓器とは認識しなかったんだろう」
ヴィオラート:
「ただの穴、空洞だと思われたのかもしれませんね……」
英命:
「事実を確認しようと思ったら、心臓から脳へと至る動脈の酸素量と、鼻腔付近から脳へと流れる血流の酸素量の差を確認し、有意差が認められなければならないでしょうね」
ヒルティー:
「調査するにしても、かなり高度な医療技術が必要だな……」
ジン:
「ここから少し別の話になるが、口の中の歯周病菌が心臓に悪さをしているという話がある。また、口の中の粘膜からビタミンCなんかを吸収できるって話もある。こうした情報から推論すると、口の粘膜からも呼吸できる可能性が見えてくる」
葵:
『おーい。鼻腔呼吸はどうなった?』
ジン:
「いや、これはどういう風に考えるべきかという問題なんだ。俺の予想だと、肺の中の粘膜と、口の粘膜、そして鼻腔の粘膜の組成はそこまで差がないんじゃなかろうか」
アクア:
「肺の内部と位置的にも内容的にも近い粘膜だから、鼻腔でも呼吸が可能ってことを言いたいのね?」
ジン:
「そうだ。地続きだと思ってる。肺呼吸で心臓を、鼻腔呼吸で脳を、そして皮膚呼吸で全身を補っているハズだ」
ギヴァ:
「そもそも全身の皮膚で呼吸しているのだから、粘膜だけ呼吸していないと決めつける訳にはいかんだろう」
ネイサン:
「口から肛門までの管は、表側、つまり表皮って話もあるぐらいだからねぇ」
なんとなく受け入れつつあるような流れだった。
マリー:
「この話が正しかった場合、それなりの数の人命を救うことになるかも」
レオン:
「新しい医療技術、医療器具や救命テクニックが開発される可能性はあるだろう。血流が前提になるが、鼻腔に対してアプローチすることで、酸欠による脳のダメージを緩和したり、後遺症を抑えたり、患者の意識が回復するまでの時間を短縮したり、といったことが叶ってしまうかもしれない」
ジン:
「そんなのどうだっていいさ。俺の金巡りが良くならなきゃ、なんの意味もねーよ」
そちらは現実世界に戻ってからの話だろうし、権利を主張できるとも思えないので、半ば諦めてしまっているっぽい。
スターク:
「それでさー、肝心なこと忘れてない? 鼻腔呼吸をどうやって利用すればいいのさ?」
ジン:
「忘れてねーよ。まず、お前ら〈スイス衛兵隊〉ってエリート集団な訳だろ? てことは、小さい頃から勉強できた連中ばっかじゃねぇのか?」
ネイサン:
「まぁ、これでも人並み以上には」
ジン:
「普通は、頭が良くなるにはどうすればいいか?というクエスチョンになるんだよ。でもお前らにとっては逆だ。運動できるようになるにはどうすればいいですか?に対する答えが、肺呼吸ってことだ」
オスカー:
「そういうことか!」
鼻腔呼吸で酸素を脳に送り込めば、脳の活動を十全に引き出せるのだろう。全身運動なら、肺呼吸を活用すればいいという話になる。納得だった。
ユフィリア:
「ジンさん!」
ジン:
「なんだ?」
ユフィリア:
「びくうで呼吸したら、あたまが良くなるの?」キラキラキラキラキラ
ジン:
「どうだろうなー? でも酸素足りない子にがんばれって言うのは残虐だと思うんだよ。初等教育は呼吸法を前提にするってアイデアがあってもいいんじゃねーかなー? てゆうか、俺ならそうする」
葵:
『呼吸の上手い・下手で、能力に制限が掛かってる可能性があるってことだもんな。なるほどにー』
ジン:
「さて、そろそろ練習していこうか」
練習の用意をすることに。ジンの話を聞くために集まっていた人たちが散らばっていく。
ジン:
「まず鼻腔呼吸からだ。鼻で息を吸い込んで、鼻腔から脳へと酸素が伝わっていく感じを味わうように、3回。吐いてから、すってー」
軽くアゴを上げながら、下から脳を押し上げるつもりで鼻呼吸。意識がはっきりする感じ。
ジン:
「次は肺呼吸を3回。これはまず口で呼吸していこう。はいてー、はい、すってー」
口から肺呼吸。腹式や胸式といった指示がないので、普通に吸い込んでいく。普通の深呼吸だ。
ジン:
「もっと呼吸感覚を探るように。鼻腔呼吸してる時に、肺に呼吸感覚はないだろ? 逆に肺呼吸してる時、鼻腔の呼吸感覚はなかったはず。もう一度、鼻腔呼吸を3回、鼻腔を意識して~。脳に酸素を送り込んで~」
鼻腔の天井らしき場所に気流が当たり、スーッとした心地よさがある。これが呼吸感覚だと思う。深く3度の呼吸を繰り返すと、脳にスーッが染み込んでいく感覚がわかった。
ジン:
「次、『鼻から』『肺呼吸』を3回。鼻腔呼吸とは空気の流れ方が変わるハズだ。肺を意識して~、深~く、ここちよ~く」
鼻から、肺へ向けて深呼吸。今さっきの鼻腔呼吸の呼吸感覚がまだ残っている。コントロールが甘いかな?とか思いつつ、肺を強めに意識する。
ジン:
「ちょっと難しいけど、鼻と口から同時に息を吸って、それぞれ鼻腔と肺の呼吸感覚を感じるように。これは5回やってみよう。息を吸うばっかりにならないように、吐き出さないと吸えないぞ。はい、はいて~、そして丁寧に、すって~」
長く、大きく息を吐きながら、両方を同時にすって、同時に呼吸感覚を高めていく。簡単だった。呼吸法だけは誰にも負けないという自負がある。
ジン:
「今のは鼻と口を五分五分でやったが、鼻を多め・口少な目と、その逆もある。
こうした呼吸感覚の訓練はそれだけでかなりの満足感を得られるものだし、やりこんでいく余地がたくさんある。たとえば肺は最低でも3分割してやる必要があるからだ。上、真ん中、下だな。気管がつながっている真ん中が一番簡単で、上と下はそれぞれ胸式呼吸、腹式呼吸といった『呼吸運動』の訓練が必要になってくる。鼻腔側も、鼻腔内を使い切るように訓練するのが望ましい。ここで大事なのは、ともかく呼吸感覚を得ることだな」
シュウト:
「あの、呼吸感覚って、なんなんですか?」
ジン:
「ん? お前には簡単すぎる内容だったろ?」
シュウト:
「それは、はい。難しくはありませんでした」
ジン:
「……逆か? 簡単だから気付いたのかもな」
呼吸感覚の訓練から感じる違和感。それはたぶん、なぜ、わざわざそんなものを訓練しなければならないのか?という当然さにあった。鼻腔呼吸なら分かる。しかし、肺呼吸の呼吸感覚なんて、普通に呼吸すれば出来ていて当然ではないのだろうか?
ジン:
「人間は、わざわざ意識しなくても、自動的に呼吸を繰り返している。いわゆる自発呼吸には2種類あるわけだ。無自覚な呼吸と、自覚的な呼吸。それぞれオートブレス、マニュアルブレスとしてもいいだろう。問題は、マニュアルブレスに特別な価値があるかどうか、だ」
葵:
『そりゃ、訓練するぐらいだから、あるんじゃないの?』
ジン:
「いや、疑わしい。前提は疑ってかかるべきだろう。たとえば花粉症の場合、寝ている間はアレルギー反応がなぜだか起こらない。起きて、呼吸を始めた途端、鼻水でぐじゅぐじゅになる。てことは、オートブレスの方が性能がいいかもしれない」
リディア:
「そう言われてみれば、そうかも!?」
ネイサン:
「……花粉症って、なに?」
英命:
「日本ではメジャーなアレルギー性鼻炎のことです。山から木材を切り出して使う訳ですが、資源としての木材がなくならないように、杉を大量に植林したのです。木材としてまっすぐで使い易い杉ばかりを植林してしまったため、杉花粉によるアレルギーを引き起こしてしまいました。今では早春は花粉症の季節なんですよ(苦笑)」
ネイサン:
「その時期は日本にいかないようにしよう」うんうん
バリー:
「あの時期はマスクマンが大量に出現するよね」
ネイサン:
「なにそれ!? 超見てみたい!」
さすがネイサンだ、節操がなさ過ぎる(苦笑)
アクア:
「歌を歌うには、大きく息を吸い込まなきゃ。マニュアルブレスにはそうした価値があるわ。でも今回は呼吸感覚の話なのでしょう?」
ジン:
「そうだ。鼻腔呼吸、肺呼吸という形で、呼吸場所を変化させること、大きく吸ったりの変化を付けられるのが、マニュアルブレスの基本的な価値になるだろう」
ラトリ:
「つまり、長ったらしい会議なんかで頭がぼんやりしてきたら、鼻腔呼吸でクリアにすればいいってことでしょ?」
ヒルティー:
「ああ、デスクワークもだろう」
オディア:
「戦闘で動き回るなら肺呼吸を中心にして、でも連携で頭を使わないといけないから、鼻腔呼吸もときどき入れた方が良い」
ジン:
「そうだ。お前らならこういうちょっとした知識を利用するのが上手いはずだ。それでいい」
ヴィルヘルム:
「いや、違うのではないか? それらはマニュアルブレスの価値ではあっても、呼吸感覚については触れていない」
ジン:
「その通り。……意、至る、気。意識が気を集める。意識的な呼吸は、気功呼吸のプリミティブな形なんだ。呼吸感覚は、それ自体が『気の呼吸法』ってことだ。気持ちよーく呼吸すること。呼吸感覚を成長させることは、気の呼吸法を高めることに通じている」
もっと気持ちよく呼吸できないだろうか?と想像が働き始める。誰よりも深く、気持ちよく呼吸できれば、気をもっと取り込めるかもしれない。
ジン:
「しかし、呼吸訓練はここまでにしておこう。リラックスが深くなり過ぎると、〈大規模戦闘〉に支障がでるからな。まったりしすぎると、やる気や闘志が出にくくなる。軽く足ネバをやったら出発するぞ」
足ネバをやるために、また散らばっていく〈スイス衛兵隊〉たち。しかし、ここでジンの爆弾が炸裂した。
ジン:
「それじゃ、スペルキャスターは肺、鼻腔、皮膚からマナ呼吸しながら足ネバな」
スターク:
「へっ? 呼吸訓練は終わりじゃなかったの?」
ジン:
「足ネバやっても、魔法使いは強くなれないって文句いっただろ」
スターク:
「ちょっ、誰がそんなことを?」
リア:
「えっとー、わたしかな?」テヘッ
ラトリ:
「いや、その前にマナ呼吸って何?」
ジン:
「気の呼吸の応用だ。周囲に存在するマナを呼吸すりゃいい」
スターク:
「いや、そんな簡単そうに言われても、困るんだけど?」
ジン:
「物理攻撃系の俺たちよりマナ操作力が高いんだから、そんなに難しくはねぇだろ。こんな感じだって」
目を閉じて呼吸を始めるや、ジンの周囲が輝き始めた。マナの光だ。あまりのことにみんな絶句していた。
リコ:
「それ、もう口伝なんじゃ……?」
ジン:
「魔法が使えないから、こっから先の応用が利かない。これだけだとただ光ってるだけだな」
葵:
『特技のMP消費量はシステムで規定されてるもんな。あー、じゃあ、〈天雷〉は?』
ジン:
「〈天雷〉ばっかりは、余計なことする余裕がない。繰り出すので精一杯。ブーストすら出来ないのに、呼吸なんざ気にしてられねぇよ」
簡単そうにやっている風に見えたけれど〈天雷〉の難易度もどうやら凄まじいようだ。〈消失〉だけが異常に難しい訳でもなさそうで、少し安心した。完全特技の難易度は、他人に要求できる水準を大きく超えているっぽい。
ラトリ:
「なんかコツとかないの?」
ジン:
「コツかどうかわからんが、呼吸する周辺空間まで自己を拡大することだな。肺の中の空気は、厳密には自分じゃないけど、もう自分みたいなものだろ? 皮膚呼吸にもその感覚を適用するんだ」
マリー:
「ふーん。身体性の拡大か」
ギャン:
「俺たちもやった方が良さそうだな」
シュウト:
「あ、できたかも……?」
話しているのを聞きながら始めていたのだが、なんとなくでやってみたら出来てしまった。さっきのジンと同じように、自分の手や体がマナの光に包まれている。やっぱりできるとそれなりに嬉しい。
視線を感じて顔を上げると、みんなが黙り込んでいた。これは迂闊だった。ちょっと顰蹙を買ってしまったかもしれない。
タクト:
「嘘だろ?」
葵:
『やるじゃん、シュウくん』
レイシン:
「さすがだね~(笑)」
ジン:
「まぁ、唯一の取り柄だしな。いや、イケメンってのもあったか。……いいぞシュウト。そのまま圧縮魔力の実験をするぞ」
朝の穏やかな足ネバ・タイムは、こうして圧縮魔力の実験に変化してしまった。
ジン:
「呼吸だけして、マナを逃がすな。もっと圧縮しろ! オラァ! まだいける! もっといけるっつってんだろ!」
シュウト:
(ひぃ~(涙))
スパルタ式教育の賜物で、ひとまず形になったと思う。
マナとか魔力とかの実体の無いものが相手なので、正直にいって感覚が掴めたとかいうことはなかった。マナを逃がさないように息を吸い続ける苦しさみたいなのを、どうにか緩和できた程度だ。
ジン:
「まぁ、こんなもんか……」
レイシン:
「この短時間でどうにかしちゃうのが凄いよね」
ジン:
「いや、呼吸能力は高いが、マナ操作力がやはり足りない。MP量からして俺たちタンクより〈暗殺者〉の方がマナ運用に秀でていると予想はしていたんだが、ここいらが限界かもな」
シュウト:
「すみません」
ジン:
「いや、問題はマナを圧縮した状態で戦闘しなきゃ使えないってことだろう。そっちはマナ運用より呼吸能力の問題が大きそうだしな」
英命:
「足を止めて詠唱するスペルキャスター向きの技術でしょうね」
ジン:
「だな。……まぁ、あっちはズタボロみたいだが」
葵:
『圧縮以前に、マナ呼吸がロクにできてないかんね(苦笑) ……シュウくんは後で特技の威力を測定しよっか』
シュウト:
「はい!」
ジン:
「10パー程度の威力上昇はありそうなラインだよな」
結果、アクア、レオン、マリー、ベアトリクスのオーバーライド組がマナ呼吸をものにしていた。特にマリーは鼻腔呼吸でフィーバー状態。マッドサイエンティストっぷりが加速しそうで不安だ(苦笑)
カトレヤ組は、ジンと僕、ニキータ、それからなんとユフィリアも成功させていた。
ユフィリア:
「がんばりました! あたまよくなれるかなー?」
ニキータ:
「なれるわ。大丈夫」
ジン:
「やるなぁ。てことは『春の女神』のエネルギー操作・制御か」
葵:
『だね。「氷の女王」でマナを逃がさないようにしたら、圧縮魔力も使えそうな気がすんね』
シュウト:
「それ、ちょっと強すぎませんか……?」
英命:
「『春の女神と氷の女王』が魔法力によるものだとすれば、むしろマナの扱いは得意でもおかしくなさそうですが」
タクト:
「確かに」
やはり才能では向こうが上か。呼吸能力では優っていても、マナ制御では大きく負けているっぽい。
ヴィオラート:
「ジン様~♪」
ジン:
「おう、どうした」
ヴィオラート:
「見てください。私も上手にできたんですよ?」
マナ呼吸を実演するヴィオラートだった。美少女が光り輝いているのはやっぱりヤバい。
レイシン:
「おー、すごいすごい」
ジン:
「偉いな。見事なもんだ」ナデナデ
ヴィオラート:
「えへへー、えへへー!」
花が咲いたような満面の笑みだった。マナの輝きが広がっていく。美少女の笑顔って凄い……!
葵:
『フフ。褒められたい一心でがんばったみたいだけど、それだけじゃなさそうだね』
ジン:
「目覚める途中だろうな」
葵:
『もうちょっと構ってやるんだろ?』
ジン:
「その方が面白いしな」
ユフィリアの春の女神と氷の女王みたいな異能を、ヴィオラートも発現させるかもしれない。そもそも同クラスの美人だし、ありえなくもない話だろう。
僕も負けていられないな、と思った。




