157 失恋と成就 / 土聖の竜
ニキータ:
(これで失恋したってことよね……?)
朝、起きて、まずそんなことを考えた。
失恋という割に、悲壮感はない。どうしても好きだ、絶対にどうこう、という感覚が無かったためだろう。
早朝の味噌汁屋のために準備をする。着物をしゅるしゅると音をさせながら身にまとう。肌に布の触れる心地よさが麗しい。ふと思いつき、下着を脱いでしまうことにした。恥ずかしさもあるし、万一を考えてこれまで下着は身につけたまま着付けをしていた。
やってみると、生地に素肌がくるまれる感覚は独特だった。ハダカでおふとんの中にいるような、もしくはお風呂に浸かっているような、優しい解放感につつまれている。
ユフィリア:
「おはよう!」
ニキータ:
「おはよう、ユフィ」
ノックされて、ユフィリアが顔を見せる。彼女は準備万端だ。
ユフィリア:
「おはようございまーす」
ニキータ:
「おはようございます、レイシンさん」
レイシン:
「おはよう」にっこり
2階に降りていき、レイシンに朝の挨拶をすませる。
ニキータ:
「いつも悪いけど、お願いね?」
咲空&星奈:
「「はいっ!」」
咲空と星奈に頼んで、まだ寝ている子達を起こしに行ってもらう。私達では私室に入れないので、起こすのは彼女達の役目みたいになってしまっていた。ギルドマスターの葵が、特別にほぼ全ての部屋への入室権限を付与しているためである。
サイ:
「おはようございます」
ニキータ:
「おはよう。いつも早いわね、サイ」
サイ:
「いえ。……運ぶの、手伝います」
味噌汁の大鍋を運ぶのはだいたいサイの仕事になっていた。〈守護戦士〉の彼女は自分の役目だと決めている様子だ。
レイシン:
「まだ眠そうだね、お味噌汁で良ければ飲む?」
りえ:
「あ、いただきまーす!」
まり:
「私もお願いします」
開店前に自分たちもお味噌汁を飲むことも増えてきた。お出汁の風味でさっぱりと飲めることもあるし、11月がだんだんと寒くなってきたこともあるのだろう。おいしいお味噌汁が更に美味しい。気温もまた調味料のひとつだった。
ギルド前で開店準備を手早く進めていると、だんだんと人が集まって来る。私達もお客様に挨拶したいが、開店準備を先に済ませなければならない。最近はお客様同士の交流が増え、情報交換の場になって来ている。
開店準備が一段落した途端、りえがおしゃべりをしに行った。半ばサボリなのだが、自主的な接客係ということで黙認してある。
リコ:
「おにぎりの準備にもう少し。後はユフィ待ち」
ニキータ:
「了解」
横を通る合間に情報伝達してくるリコだった。彼女はテキパキと動けるため、もはや主戦力に食い込んでいる。
ニキータ:
(私は、ジンさん『そのもの』を手に入れたことになる……)
隙間時間ができると、ぼんやり考えてしまう。忙しくしていると消えてくれるのだが、する事がなくなるとつい思考がそちらに流れていく。
ジン本人を手に入れるより先に、ジンの意識構造を手に入れてしまった。そのことで、恋が終わったような冷めた予感が生れていた。
今ならば分かる。ジンの意識構造こそが『ジンそのもの』だ。たとえユフィリアが望んでも、今の私よりも『ジンを手に入れること』は難しいだろう。そう考えれば、意外と幸せな恋だったと言えなくもない。思わぬ形ではあったが、望みのものは手に入ったことになるのだから。
こんなものは虚しい言葉遊びでしかないのだろう。失恋といったワードで強引にゆがめて落ち込もうとしている。悲しいはずがない。もし悲しいのなら、ジンの意識構造など捨てて、元の自分の意識だけを使って生きていくべきなのだ。
しかし、そんな勿体ないことをするつもりは毛頭ない。体験してしまえば、それはありえないことだった。失恋などではなく、これは成就の1つの形だった。金銭的な価値に換えられない意味であり希望だ。
今、私はジンにかなり強い親近感を感じている。ジンの意識構造を再現させているのだから、当然なのかもしれない。親というよりもっと神様に近い。そうした憧れと、親友に感じる身近さを同時に感じている。
逆から考えれば、ジンにとって自分は『妹分』みたいなものになるのだろう。自分そっくりの、自分の劣化コピーが近くにいる。出来の悪いドッペルゲンガーだ。男とか女といった外面の肉体的な差異は、意識構造にフォーカスされている状態では問題にならない。自分ですらそうなのだから、ジンの方はもっと強烈だろう。
こちらはジンに避けられても気にならないが、ベタベタしたらちょっと可哀想かな?と思わなくもない。
ニキータ:
(……ユフィが可哀想かしら?)
なかなかボケていたのに気が付く。今頃そんなことを考えるだなんて、どうかしている。そうして、ようやく、恋愛じゃなくなっている事に気が付くに至った。ジンとベタベタしたいのは恋愛的な感覚から来るものではないから、ユフィリアは傷付かないだろうと思い込んでいた。なんて都合のいい発想だろう。
ユフィリアがジンに好意を寄せているかどうか、その本当のところは分からないが、この程度の配慮すら分からなくなっているらしい。
ニキータ:
(ユフィの優先度が1番じゃなくなっている……?)
思考に影響が出る、というのはこういうことかもしれない。
ユフィリアがビルから現れたため、そこで『夜明けの黄金味噌汁』の開店に意識を切り替えることにした。
◆
ジン:
「おーし、ゆるをやるぞ~」
シュウト:
「はい!」
午後はレイドボス戦なので、それまでは普段通りに鍛錬を続けることに。
ジン:
「ニキータ。自分の意識でやれ」
ニキータ:
「…………」むぅ
ジン:
「むくれてもダメなものはダメだ。言っとくが、分かるからな。誤魔化せると思うなよ」
ニキータ:
「わかりました」しゅん
もしかすると、昨日からずっとジンの状態で生活しているのだろうか?それって、どういうことになるのだろう?などと恐ろしくなる。
ニキータ:
「あぁ……」がっくり
ユフィリア:
「ニナ、大丈夫?」
ニキータ:
「……ダメ。大丈夫じゃない(涙)」
ジン:
「おい。自分の体なんだから、自分で責任を持てよ」
ニキータ:
「ここまで悲惨だと、手の施しようが……」
葵:
「あはははは(苦笑)」
ジン:
「他にも『悲惨な人』が参加してんだから、あんまり言ってやんなよ……」
エリオ:
「だ、誰のことでござろう?」
シュウト:
「……僕、かな?」
日本人というだけで不利だなと思う。悲しいけれど、それが現実だ。
アクア:
「無駄なオシャベリはそこまでよ。しゃべるぐらいなら歌いなさい!」
葵:
「お、超理論!」
ジン:
「その発想は無かった」
一通りゆるを行っていく。ひんやりとしている半地下のスペースが、どことなく熱気で包まれて感じるようになっていた。
ジン:
「では、中級者向けの寝ゆるを教えよう。安眠・快眠対策ゆるだな」
アクア:
「寝付きはいいほうなのだけど」
ユフィリア:
「毎晩、ぐっすり!」
葵:
「うーん、この健康レベルの高さと来たら……」
ジン:
「〈冒険者〉だから、まぁ、予想はできたけどな」
シュウト:
「あの、僕はあまりやることがないと寝られない方なので」
ジン:
「……シュウト。お前、いいヤツだな」
こんなことで誉められるのもどうか?という気がしないでもない。
アクア:
「それで、どうやるの?」
ジン:
「まず横になります。この時、膝を立てると背骨の形状的に腰を痛めにくくなります。背骨を床に優しく擦り付け、ゆすっていくところまでは一緒だな。モゾモゾ、クネクネとゆすって、ゆるめて行きます。はい、力を抜いて~」
さっそく、寝ゆるで背骨をゆるめていく。ジンは一緒にやると5分持たないで寝てしまうので、立ったままリードする役だ。
シュウト:
「モゾモゾ」
ユフィリア:
「クネクネ」
ジン:
「この時、どこの筋力を使ってゆすっている?というのがここでの問題なのだ。シュウト、どこの筋力を使っている?」
シュウト:
「えっと……?」
ユフィリア:
「どこ、だろ?」
さらにひたすらにモゾモゾ、クネクネとゆすっていく。
ジン:
「な? 意外と背骨周りの筋肉は使えてないだろ」
葵:
「そうだね」
シュウト:
「足とかの筋肉で動かしてました」
ジン:
「背骨周りの深層筋群を使って、『背骨から』動かしてみな? 最初は手足は床から離して」
シュウト:
「えっ、と……?」
寝転がったまま、手足を宙に持ち上げる。変な姿勢だけど、とりあえずその体勢のまま背骨を動かしていく。
しかし、なかなか、背骨が、動いて、こな、い!
ジン:
「ニキータ、ズルすんな」
ニキータ:
「あの、最初に感覚を掴むところだけ……」
ジン:
「ず・る・を、す・る・な」
ニキータ:
「はい……」
後でいくらでも感覚はつかめるだろうし、今ぐらいは一緒に苦労してもいいような気がする。
ジン:
「いいぞ、あがけ! もっとあがけ! 背骨を変形させるんだ。いろいろ背骨を動かせ!縮ませたり、伸ばしたり、反らしたり、クネらせたりもするんだ!」
蛇に転職する気持ちで、脊椎運動を覚えようと必死になって動かしていく。背骨の真ん中付近がぐにっと動いたような感覚とともに、カッ!と熱を発していた。
シュウト:
「熱い!」
ユフィリア:
「私も!」
エリオ:
「拙者もでござる!」
ジン:
「いいぞ、その熱は深層筋が動いた証拠だ! もっと動かせ!」
追求の楽しさ。背骨だけで、背骨を動かしていく。一部分だった熱が、他にも数カ所、伝播していく。面白い!
ジン:
「そうだ。能動性を高めろ。能動性があって、受動性が使えるようになる。体を開発すれば、脳が活性化する。脳を開発することで、体を活性化させるんだ!」
しばらくして、終わった。まだ追求したりない。ゆるめるところまで行っていない。まだ動かしただけだ。まだまだ動かし足りない。体の奥深さの一端を味わえたような満足感もあった。
アクア:
「熱いわね。……ところで、これのドコが安眠対策なの?」
葵:
「ふぃ~っ。そういえば最初はそんな話だったね」
ジン:
「熱くなったろ? そうやって深層筋に火を入れると、内蔵の温度が高くなるんだ。深部体温ってヤツだな。それが冷える時に、グッと眠りに誘われるんだよ。寝る前にしばらくそれをやっておくとガツンと眠れるぞー。眠れない時にやってみ?」
ユフィリア:
「今晩やってみよっと」
シュウト:
「今晩は、帰ってこられるか分からないけどね」
エリオ:
「そうでござったな」
レイドボスとの戦闘が長時間に及ぶ可能性もある。準備はほぼ終わっているので、後は戦うだけになっている。
◆
ジン:
「さて、少し早い晩飯の前に、ニキータに剣舞でも教えようかと思ったんだが」
エリオ:
「剣舞……!」
シュウト:
「新技ですか?」
ジン:
「……んで、なんでお前らがいんの?」
ケイトリンの取り巻きのネナベの皆さんが上がり込んでいた。
葵:
「あたしが招き入れたからじゃね?」
シュウト:
「それは……、そうですよね」
特別な時を除いて、2階に入るにはギルドマスターの許可が必要になるのだ。彼女達はゲストとして招かれているハズだった。
ジン:
「何の用だ?」
トガ:
「行け、イッチー」
サブリナ:
「自分を信じろ!」
マシュー:
「がんばれ」
イッチーと呼ばれた背の低い男性(まぁ、中身は女性らしいんだけど)が、恐れを感じつつも、しずしずとジンの前に進み出た。それを言い表そうと思うと、どうしても悪魔か邪神に犠牲として捧げられつつある供物とかが近いような、そんな震えかたをしている。
イッチー:
「あ、あの!」
ジン:
「うん」
イッチー:
「ワイロです!」サッ
ジン:
「…………」
さすがにジンでも半笑いだった。
トガ:
「バカ、『差し入れ』だろ!」
イッチー:
「す、すみません! 差し入れです」
ジン:
「賄賂でいいよ。んで、何くれんの?」
サッと受け取ると、箱をぱかっと開いた。ユフィリアがひょいっと首を伸ばしてのぞき込む。
ジン:
「おっ!?」
ユフィリア:
「うわぁ、ケーキだぁ!」
白いケーキだった。シンプルな作りだが、美味しいそうだ。
ジン:
「どれ?」ぺろり
クリームに指を突っ込んで、ひと舐め。行儀が悪い。
ジン:
「な、『生の生クリーム』だと!?」
ユフィリア:
「えーっ、生じゃない生クリームなんてあるの?」
ジン:
「味が全く違うんだよ。ざっくり言うと、クリスマスみたいな時期に大量に作り置きされているものが生じゃない生クリームで、専門店でその日の分を作ってるのが生の生クリームだ。……ちなみにコンビニやスーパーに並んでいるものも、大抵が生じゃない生クリームだね」
ユフィリア:
「そうなんだー」すちゃ
……といいつつ、包丁を構えるユフィリアであった。
ジン:
「いや、おぜうさん、何してはるの?」まじまじと
ユフィリア:
「えっ? 切って食べるよね?」きょとん
ジン:
「…………」
ユフィリア:
「…………」
言外に『私も食べるよ?』と当然のごとく主張している。強気だった。
ジン:
「俺への賄賂なんだが、まぁ、いいか……」
ユフィリア:
「ジンさんだいすきっ!」エヘヘ
だいすきの大安売りである。まぁ、どちらにしても抵抗したって無駄に違いない。
ユフィリア:
「ニナのぶんもっ、と」
葵:
「あたしは食べる権利あるし、ダーリンも味見しないとだよね」
ジン:
「だからぁ、俺への賄賂だっつー、……うっ」
ジンの視線の先には、(こういう時だけ特に幼く見える)咲空と星奈の姿があった。
結局、ジンが1人で1/4を食べ、残りをユフィリア、ニキータ、レイシン、葵、咲空、星奈で分けることになった。妥当だろうと思う。僕もちょっと食べてみたかったが、余計なことを言うべきではないだろう。
星奈:
「ふぉぉおおお!」
咲空:
「美味しい!」
ユフィリア:
「うんっ、生の生クリームだねっ!」
ニキータ:
「そうね」
ユフィリアの口元に付いたクリームを指ですくい取ると、自分で食べているニキータだった。
ジン:
「どうだ、レイ?」
レイシン:
「いや、かなり美味しいと思うよ。……プロの人なのかな?」
ジュン:
「イッチーのお菓子作りはプロ並みなんだよね」
イッチー:
「一時期、パティシエになろうと勉強してたんですが、やってる内に、むしろ趣味の方がいいかなって。」
葵:
「このレベルでプロじゃないんか……」
絶賛が続いているし、かなりハイレベルだったようだ。それは少し食べてみたかったかもしれない。甘いものの善し悪しなんて自分に分かるとは思えないけれど。
ジン:
「……よし、賄賂は受け取った。要求があれば言ってみろ。ただし、ふざけたことをぬかしたら叩き出すから、そのつもりでな?」
あくまでも相手はPKプレイヤーだ。ジンの態度は話を聞く程度にしか軟化していない。
サブリナ:
「あの、お風呂を貸して欲しくって」
ユフィリア:
「お風呂? どうして?」
トガ:
「アキバにも公衆浴場ができたのは知ってるんだけど」
葵:
「男湯、女湯、どっちに入ればいいのか分からないんだよね?」
マシュー:
「そう」コクリ
性別の不一致は、こうした形で問題を引き起こすのだろう。
最高級の宿にでもとまれば、個室でお風呂を出すサービスをやっている可能性はあるかもしれない。だが普通の宿は良くても共同浴場だろう。それも僕らからしたら普通の家にある浴室がせいぜいのはずだ。まだまだお風呂は贅沢品なのだ。
星奈:
「お風呂、ですか」ギュイン
星奈はやる気だ。仕事の臭いをかぎ取るや、瞳に炎が灯る。
咲空:
「あの、どうしますか?」
ジン:
「……頼んでいいか?」
星奈:
「はい!」
咲空:
「わかりました」
咲空・星奈に賄賂が行き渡ったこともあり、彼女達を味方につけ、お風呂に入る権利をゲットした模様である。
ジン:
「悪くないな。風呂に入りたければ、食後のデザートを作れってか」
葵:
「さすがジンぷー、邪悪だぜ」
ジン:
「お前にゃ言われたくねーわ。……ケーキ作るように指示したくせに」
葵:
「バレたか」
それで合点が行った。葵が裏で仕組んでいたことのようだ。
ジン:
「そっちはそっちで巧くやってくれ」
葵:
「当然。言われるまでもない」
なんとなく、〈カトレヤ〉は平常運転だな、と思った。
◆
昼食を終え、明るい内にレイドボスの現れるゾーン前まで移動。暗くなるまで休憩を挟んで、決戦を挑むことに。
ジン:
「結局あのヤロウ、25までしか上げたくないとか」
レイシン:
「まぁ、まぁ」
葵のレベル上げも中途半端なままだが、そもそも長期戦だとすれば、25も27も大差がない。初見の敵相手に、葵のカレイドスコープ無しでどこまで対抗できるか?などと考えてしまう。
アクア:
「まさかとは思うけれど『どこまで対抗できるだろう?』とか思っていないでしょうね?」
シュウト:
「えっ?」ドキリ
エリオ:
「ぬっ」ビクッ
アクア:
「対抗するんじゃないわ。勝ちに行くのよ。勝って、幻想級を得て、帰って、気分良く眠るのよ。ベッドで戦いを思い出して、ちょっと興奮して眠れないかもしれない。……そういうイメージを持ちなさい」
タクト:
「なるほど、そういうものか」
歴戦の貫禄というのか、メンタルコンディションすら操って勝利への道を切り開こうとする『どん欲さ』のようなものがあった。アクアがいるのだから、勝率は決して低くない。
ジン:
「心の弱い連中は大変だな~。ゆるめばいいだけだろ」
ゆるみ度を高くすれば、ハイパフォーマンスが発揮できる。シンプルな結論でどこまでも正しい。だが、いろいろと考えたり、心配してしまう。……それは間違いなのだろうか?
シュウト:
「あの、ジンさんって平気なんですか?」
ジン:
「なにが?」
シュウト:
「状況をいろいろと想定しておかないと、咄嗟に対処できないかも?って考えると不安で、そういうのって無いんですか?」
ジン:
「……考えてあったら、素早く対処できるのか?」
シュウト:
「えっ?」
ジン:
「たとえば毒攻撃して来た場合、毒消しポーションとかもってなきゃ、対処できないだろ? その問題や対処法は『準備のレイヤー』であって、適切に対処できるかどうか?とは関係ないだろ」
シュウト:
「はぁ……」
ジン:
「敵の情報が多ければ多いほど、そういう対処の仕方、つまり事前準備を万全にできるようにはなるが、対処の問題や戦闘状況での瞬間的な判断は、『考えてどうこう』なるものじゃない。逆に十分に考えたつもりになっていると、予想外のものへの対処は遅れがちになる」
アクア:
「万全の対処なんて不必要なのよ。60点でいい。タイミングが良ければ30点の対処でも合格になる場合すらある」
ジン:
「だな。……毒消しポーションを持ってなきゃ、毒の範囲から逃げりゃいい。もしくは、その攻撃を使わせないように妨害するとかな。毒消しを持ってきてない!と慌ててる時間は無駄でしかない。ぶっちゃけ、ユフィがキュアしてくれればそれで済むわけだろ?」
ユフィリア:
「だよね♪」
ジン:
「悩むな、考えるなとは言わないが、自分の瞬間的な判断力を信じてみたらどうだ? 自分を信じろ、自信を持てってのは、一周回れば、案外、まっとうな方法論だぜ」
腑に落ちるというのか、スッと言葉が入ってきた。体での理解というのか、『それでいいんだ』と力が抜ける感覚を得た。
スターク:
「というか、シュウトのレベルで、まだそんなこと言ってるの?(苦笑)」
ウヅキ:
「…………」
アクア:
「あら、案外バカにした話じゃないわよ?」
レイシン:
「そうだねぇ」
ジン:
「構えと備えの違いだな。心構えを捨てる心構え。フリーの水準の心の働きという意味じゃ、むしろタイミングは今かもしれないな」
シュウト:
「構えと備えの違いは、前にも教わった記憶があります」
明らかに理解の水準が異なっている。分からなかったことが分かるようになっている。構えを捨てる『強さ』という意味は、超反射を経験したことで大きな意味を感じる。
シュウト:
(ただ、ゆるめばいい――)
細胞がYESを叫んでいる。そんな気がした。遠い遠い回り道の果てに、ようやく正解に戻ってきたような、そんな気配がした。
目的地に到着したが、ゾーンの入り口が開くまでしばらく時間がある。休憩しつつ、時間をつぶすことに。
ジン:
「簡単なゆるでもやんべ~」
全員で手首プラプラ体操をひたすらやり込む。最後の足掻きには最適だろう。ひたすらパタパタ、くるくる、スリスリ、気持ちよーく、気持ちよ~く、とやり続け、気が付くと緊張すら忘れてしまっていた。
掌の内側の、中手骨辺りが甘く痺れる感覚に変わってきたころ、残照も消え、ひっそりとゾーンへの入り口が開いていた。
使える限りのバフを使用。ゾーンに入ってから使うべきもの以外の、ほぼすべての魔法を掛け終わる。
ジン:
「準備はいいか?」
最終確認に頷き合うのを見届けて、僕がすべきちっぽけな役割を全うする。
シュウト:
「行きます!」
みんな:
「「オーッ!」」
◆
飛び込んでみると、そこは暗い通路のような場所だった。先の方に光が見えている。ゾーン内部は夜や暗闇ではなさそうだ。ジンに続いてまっすぐに進むと、すり鉢状の空間が広がっていた。明かりの魔法を使わなくても十分な視認性がある。太陽などの光源がなくても光度のある、ゲーム的な空間だった。
葵:
『闘技場っぽいね』
アクア:
「古代の劇場のイメージかしら?」
戦闘用と思われる中心部スペースには十分な広さが確保されている。人工的な形状だが、人工物は何もない。
ゲーム時代のように、無音からレイドボス用の戦闘曲に切り替わったりしないので、いつ出てくるのかよく分からない。
ジン:
「来るぞ~」
ニキータ:
「セットアップ!」
真上からだった。
天井の無いゾーンの空から、そのまま落下する勢いで着地。轟音と地響きに襲われ、しばし身動きが取れなくなる。その間に情報を取得。
〈陸尾竜ヴァーグネル〉。レベルは104。鱗の色からすると緑竜の系統になるのかもしれない。ともかく巨体だった。岩石が折り重なったような印象。動きは素早くなさそうに見えるが、油断はできない。
名前の由来になっている尾、その先端には丸い巨大な岩石?鉱石?のようなものが付いている。振り回してきたら膨大な威力を秘めたハンマーヘッドになりそうだ。
ヴァーグネルの瞳に宿る知性のようなものが、僕らに反応して消えた。まるで理性なき野獣に堕ちたかのような濁った色へ。――戦いが、始まる。
衝撃波すらともなう苛烈な咆哮。もはや音として認識できず、すべてを吹き飛ばす暴風に近い。〈冒険者〉の魂を打ち砕く鉄槌そのもの。畏怖の咆哮である。
ジン:
「〈アンカーハウル〉!!」
同時に全身から魔力の光を放ちつつ、『カウンターシャウト』を発動。バッドステータス類をまとめて無効化してしまうジンだった。人間だって負けてはいない。
続けざまに、『轟』とのし掛かってくる圧力。アクアの『タンブリングダウン』。空が崩れ落ちた。
アクア:
「競いましょう、ヴァーグネル! 貴方か、私か、どちらのステージがより素晴らしいかを!」
堂々たる宣戦布告だった。その姿にダメだと分かっていても、つい笑ってしまいそうになる。アクアは大真面目だ。そこにはどこか滑稽さがあった。レイドボス。あの巨大なドラゴンと競い合いをしようというのが、もうあり得ないことだったし、向こうはステージを作り上げようなんて思ってもいないはずなのだ。
でも、そんなこととは関係なしに張り合おうとすることの頼もしさみたいなものもあるのだ。正面から敵を打ち負かそうとする意志は、あまりにも強く、高潔で、アクアの人となり、その魂を表現していた。
〈炎爪の指揮棒〉の力を解き放つアクア。それはビートホーフェンから手に入れた幻想級装備だ。アクアの指先に魔法の光が灯る。指揮者のように腕を振り動かすと、微弱な光の軌跡が描き出され、周囲の空間に波のように広がり、僕らの体に吸い込まれていった。同様に〈コーラス〉の能力によるものだろう、ニキータの体からも、光の波紋が幾重にも放たれている。超級の永続式援護歌が、際限なく強化されていく。押さえ気味のサウンドに皮膚の下の細胞が反応し、力が蓄えられていく。跳ね飛んで回りたい衝動を自覚する。
ファーストアタックは、やはりというか、ジンのものだった。
鎧を身につけた〈守護戦士〉とは信じられない速度で突撃し、いつものように〈竜破斬〉を叩き込む。絶対的な安心感。レイドボスだろうと、やることは変わらないと、その背中が教えてくれる。
初撃が決まった直後、風の鋭さで切り込み、斬り抜けたのはウヅキだった。今度はメラリ、と闘志が沸き上がる。頼もしい味方でありながらも、彼女はどこまでも競争相手だった。……負けてなるものか。
葵:
『打ち合わせ通り、いきなりいくぜっ!』
ジンの『アーマーブレイク』による防御減少8秒間を攻撃に専念する。嵐のごとき集中砲火。良いリズムでレイドを開始することができたようだ。ここからはヴァーグネルの攻撃パターンを見ながら、細かい位置調整をしつつ、こちらの戦術を構築していく。
特にヴァーグネルは土の属性でもあって、毒系の攻撃を使ってくることが想定される。その他にも、事前に予想された『ゾーンを駆使した戦闘』がどのような形になるか?といったことなど、よく観察しながら戦いを進めて行かなければならない。
スターク:
「……そろそろかな?」
時間的に最初の必殺攻撃が来そうな頃合いだ。初見ではどんな事態もありうる。各人の警戒レベルが自然と高まっていく。
と、ヴァーグネルが唐突に姿を消していた。まるでゾーンに隙間でもあったかのように、あの巨体がさっと身を翻し、どこかへと隠れてしまっていた。
エリオ:
「こうきたでござるか……!」
ゾーンの全景が変化していた。先ほどまでとは違う、草原の中に立っている自分たちを発見する。
ニキータ:
「add6、いえ、8、12、……まだ増えます!」
ジン:
「追加っつーか、本体は消えたままだな~」
ミニマップを得たニキータの情報共有は、段違いに速度を増していた。周囲には不透明な影、シャドウのようなモンスターが次々とポップし続けている。50体は軽く越えているだろう。
これこそ、ジンが事前に予想した通りの展開だった。本体が消えるとまでは思っていなかったが、前回のビートホーフェンのようにレイドモブ無しの『単体』で戦うのとは真逆の、増援が発生する展開。強いて名付けるなら、総出演総攻撃といったところか。
石丸:
「敵の数は84体。大半はノーマルランクっスが、一部は強力なものが混じっているっス」
さっと周囲を見渡した石丸から報告があがる。見ただけで数を把握する能力のようだ。
葵:
『第1は強化個体を担当。第2、第3で雑魚を殲滅!』
全員:
「了解!」
ジン:
「タクト。見せ場だ、暴れてこい」
タクト:
「……、やってみるっ!!」
周辺の雑魚を始末しながら、強化個体へ向かう。レイシンはアタッカー兼サブタンクの役割なので、僕がニキータと肩を並べて火力に貢献することになった。
ジンを擁する第1パーティーがこの程度で苦戦するはずもなく、あっさりと強化個体2体を撃破。大型だったが、どのぐらい強かったのかすらよく分からなかった。外で戦っている〈竜牙戦士〉よりはさすがにHPがかなり高かったぐらいだ。
そのままの流れで数の多い雑魚の殲滅へ移行。問題は、ヴァーグネルが戻ってこないことだ。もし、必殺攻撃がこうした追加モンスターだとすると、かなりの長期戦を覚悟しなければならない。そうした時の問題は、MP管理と特技の使用タイミングだと考えられる。
通常のレイドチームであれば、MP管理は限界まで切り詰めても足りなくなるに違いない。今のような大量にポップする雑魚の殲滅にMPを使っていては、幾らあっても足りなくなる。逆に考えれば、雑魚戦はMPを回復させるチャンスになっているはずだ。
しかし、この点に関して僕たちは問題にはなりにくい。アクアのMP供給力はズバ抜けているし、リディアが使用MPを均すことができるため、全体のリソースバランスを取ることも容易い。たとえば、前回のレイドボス、ビートホーフェンから出た装備、〈闇霞のケープ〉と〈炎爪の指揮棒〉はMP回復支援用の意味合いが強い。
そうなると再使用規制の長い『切り札』を使うタイミングに注意を払えば良いことになりそうだ。5分のアサシネイトは逆に使い易くなるものの、1日1回といった特技の使用タイミングの判断は難しくなる。全体の流れや終わりが見えにくいので余計に間違いが致命的なものになりかねない。
葵:
『アイテムの消費ペースがムズいな』
同じようなことを考えていたらしい。押すべきところは押し、引くべきところは引く、といった戦術眼と自制心を試されるレイドになりそうだった。ノリと勢いだけではたぶん破綻してしまう。これもまた、レイドの本質をよく現していると思う。
◇
タクト:
(通用する……!)
大量に出現したシャドウモンスターと戦いながら、自分が通用していることに戸惑いを覚えていた。拳速が大きく上がっているため、敵と同時に攻撃できれば、こちらが先に命中する感じがある。面白いほどあっさりと倒せてしまう。鍛錬の成果と言いたいところだが、第1の要因はやはり超威力の永続式援護歌だろう。掛け値無しの超威力だ。その他にも〈キーンエッジ〉のようなバフの支援を受けていることが大きい。
リコ:
「かまごろう! 〈デスサイズ〉!」
リコの召喚した〈死神蟷螂〉が両手の鎌を振るい、敵の数を減らしていく。2人で磨いてきたコンビネーションは健在だ。
タクト:
「オォォおおお!」
敵を仕留めた時にランダム発動する〈ビートアップ〉を目安に、〈ブレスコントロール〉でHPの回復を行う。ガムシャラになって前に出過ぎてHPが足りていない、なんてことがよく起こる。回復や他のすべてをリコ任せにしていた反省から、自分の状態を把握しておく癖を付けるところから始めなければならないと思っていた。
燃え上がる気炎を吸い込むことで、熱量によって全身の細胞が活性化するような心地よさがあった。
第1パーティーがシャドウモンスターの殲滅に加わると、負担が大きく減っていた。小気味よく、畳みかけるように敵の数を間引いていく。
エリオ:
「もう少しでござるよ!」
タクト:
「はい!」
近くに来ていたシュウトの背後の敵に〈ライトニングストレート〉を放つ。同時に、シュウトは自分の後ろにいた敵を仕留めていた。あまり好ましい感情を持っていないであろうシュウトの不機嫌そうな顔に、こちらも苦笑めいたものが浮かんでしまう。
ジン:
「やっとお出ましか」
シャドウモンスターを全滅させたため、陸尾竜ヴァーグネルが再びゾーンに姿を現す。HPゲージからすると、消えていた間に回復はしていないようだが、それでも削った量は最初の攻撃で与えた1~2%に過ぎず、まだ序盤戦もいいところだった。途方もない長丁場の予感に、ため息が漏れそうになる。
葵:
『ボスがいる間にダメージを与えなきゃだけど、無理に突っ込むと反撃されるかもだかんね! 急ぎつつ、慎重にね!』
シュウト:
「了解!」
ジンを先頭に突撃する物理アタッカー達。スペルキャスターがそれぞれに呪文の詠唱を始める。リコが回復支援の幻獣に従者を切り替えるのを見る。レイドに不慣れの自分を持て余し、今はどうするべきか?とのろのろと考えていた。