115 夜明けの黄金 / 2つの絶対
早朝の盗剣士:
「ふわぁ~あ、ねっむー」
――早朝といえど、朝日もまだの時刻だった。アキバの朝は早い。多くの人々が寝ている時刻であっても、銀葉の大樹の前には、さまざまな理由で出かけていく〈冒険者〉がいた。
ひとりの〈盗剣士〉が大きなあくびをしていた。待ち合わせの相手を待っている。当然のように男だった。もしかしたら寝坊しているのかもしれないと思っていた。そろそろ念話を掛けてみようか?などと考えているところであった。
星奈:
「おはようございます」
早朝の盗剣士:
「え、あ、はぁ」
――とっさのことで挨拶の言葉は出てこなかった。頭3つ分は背の低い、猫人族の女の子に話しかけられていた。幼女である。話しかけられた理由が分からない。人間違いでなければ、何か落とし物をしたのか?などと考えているあたり、本人的にも寂しさを自ら助長させていた。盗剣士は、下手に挨拶でもしようものなら、幼女に挨拶した『事案』が発生してしまうかも?などと頭の隅でチラっと思っていた。生きにくい世の中になったものだと心底から嘆く。
星奈:
「温かいお味噌汁はいかがですか?」
早朝の盗剣士:
「味噌汁? くれるの?」
星奈:
「えっと、金貨1枚です!」
――なんだ、セールスか、勧誘か、と思う盗剣士。そう巧い話などあるはずがない。自分に優しくしてくれる相手などいないのだと、分かっていたつもりだった。だが、はかない夢を、希望をおもってしまった。いけない、これではまるで幼女趣味があるみたいじゃないか! このままでは事案が、事案が発生してしまう!……ここまでが本人にとって1セットのようである。
早朝の盗剣士:
「じゃあ、もらおうかな?」
――ほんの気まぐれだった。相棒も来ないし、金貨1枚なら別にいいか、と考えていた。幼女の優しさが骨身に染みて、木枯らしビュンビュンである。けして幼女に興味があるのではない。温かい味噌汁で体をあたためないと、こんな朝早くからではやっていられないのである。言い訳しないと体に悪い年齢に、彼は達していた。
ぐにっ
――星奈は、ためらうことなく盗剣士の手を握り、ひっぱった。レベル相応の筋力。どんなに外見がちいさくても、大人しそうでも、モリモリマッチョの黒人お兄さんぐらいの筋力は当たり前にあった。可愛さが台無しだった。騙されてはいけない、と考える盗剣士であった。
星奈:
「お客様を、おつれしましたー!」
咲空:
「いらっしゃいませ!……初めてのお客さまです!」わきゃわきゃ
ニキータ:
「どうぞ?」にこっ
――『なぜだろう。ほんの数十メートル先に天国があったらしいぞ』と考えている盗剣士。夜明けもまだの早朝に、なんでこんなところに屋台みたいな店があるのだろう? いつ出来た? などと戸惑っていると、美人お姉さんに案内されて、大きな鍋の前に立っている。
ユフィリア:
「どうぞ?」
――鍋からよそわれた味噌汁が差し出される。ほかほかの湯気が立っていた。湯気の向こうには、割烹着を着て、後ろに髪をまとめているのだが、『だから』なのか、『それでも』なのか、ともかく途轍もない美少女がいた。盗剣士が緊張しないで済ますのは不可能だった。
早朝の盗剣士:
「あっ、お金を……」
――モテない男子特有のスーパーしどろもどろ状態。フィーバー突入である。しばらくかかって、金貨を美人お姉さんに渡すことに成功した。コンビニのレジでこんなモタついていたら後ろに並んでいるお客さんに大ヒンシュクものである。今は自分しかいないが、味噌汁のお椀をまたせている。待っていてくれた奇跡の美少女から、お味噌汁を受け取った。ちょっと手が触れてドキっとしてしまったが、怒られたり、嫌そうな顔はされなかった。数ヶ月分のラッキーをここで使い果たしたな、と思う盗剣士だった。しかし、一方で『これで金貨1枚だなんて、絶対に騙されてんだろ』とも思っていた。この後でこわいおにーさんが出てきて、奥の方に連れて行かれ、身ぐるみはがされたり、ボコられたりの、何か想像もつかないような悲惨な目に遭うのだろうと半ば本気で考えている。でも、可愛かったし、綺麗だったから多少は仕方がないかも?と思った。殺されても、死にはしない。〈冒険者〉で良かった。男って悲しい生き物よね?と、内心で神に同意を求める。
ジン:
「おーい、静ぁ。これやっぱダメだろ」
――やっぱりである。怖いお兄さんの登場にビクつく盗剣士。
静:
「わかりましたよぅ。人使い荒いな~」
ジン:
「ちょっと書き足すだけだろ。……後で甘いもの買ってやっから」
静:
「ちょっ、子供扱いしないでください」
――看板らしきものに、何か文字を書き足すとかの相談をしていた『夜明けのみそ汁』という看板に、さらさらと書き足される。『夜明けの黄金みそ汁』に変化。『黄金』の字が大きく付け足される。
ユフィリア:
「どうぞ?」
早朝の盗剣士:
「えっ?」
ユフィリア:
「美味しいから、飲んでみて?」
早朝の盗剣士:
「あっ、はい。いただきます」
――もはや敬語の勢いであった。美人お姉さんこと、ニキータが盗剣士に割り箸を渡す。くっついている状態の割り箸ではないため、割り箸とは言い難いものだが、簡素で未使用な木の箸である。
出汁と味噌のなんともいえず良い香りがしていた。口に含めたひとくちで、眠っていた感覚が揺さぶられる。あわててもう一口。
早朝の盗剣士:
「うっ、まいっ!」
――それは味噌汁というより、お吸い物に近いものであった。味噌が足りなくても、出汁で飲ませる一杯。塩分が控えめなためか、ノドでブレーキがかからず、どんどん飲めてしまう。強いうま味なのに、どこまでも優しい味。なんの具だったか彼には分かっていない。箸で口の中に必死にかきこむ。
光が差し込み、夜が明けた。希望に満ちた新しい一日が始まった。
◆
――2日前。
葵:
「なんか、2週ぐらい先にお祭りをやるんだってね?」
ニキータ:
「聞きました。そうみたいですね」
ユフィリア:
「参加しよっ!」
シュウト:
「参加って?」
ユフィリア:
「お店みたいなのとか」
ジン:
「俺はメンドイことはパスの方向で……」
葵:
「逃げるな、ジンぷー!」
ニキータ:
「何のお店にしたいの?」
ユフィリア:
「お洋服も捨てがたいけど、やっぱり食べ物かなって」
ジン:
「メシ屋はプリテストが必須だな。エルムを呼べ」
シュウト:
「なにも決まってないのに、もう呼ぶんですか?」
ジン:
「来るまでに決めりゃいいだろ」
ユフィリア:
「お味噌汁屋さん!」
……といったやり取りがあり、完全に便利屋扱いのエルムがトモコを引き連れてやって来た。
トモコ:
「おっじゃまっ、しまーす」
エルム:
「昨日はありがとうございました。足手まといが報酬までいただいてしまい、申し訳ありません」
葵:
「かめへんかめへん」
ジン:
「正当な権利ってやつだろ。少な目なのは勘弁な?」
ドラゴンは1/24で計算、それ以外の敵は頭割である。実はジンの報酬も2/24だったりするので、大半はギルドに入ることになっている。
エルム:
「いえいえ、貰いすぎかと思いました。恐縮です。……それで、本日はどのような?」
ユフィリア:
「お味噌汁屋さん!」
エルム:
「……はい?」
お祭りまでの2週間、プリテストとしてお味噌汁屋さんをやりたいのだと説明するユフィリア。
エルム:
「なるほど。それは楽しそうですね」にこにこ
ジン:
「仕入れだの手配だの、一通り頼むわ」
エルム:
「わたくし共でできる範囲でしたら、喜んで」
ジン:
「うし。問題は形式だな。大まかなイメージで良いから、言ってみ?」
ユフィリア:
「えっとね、この間、あんまり眠れなくって朝まで起きてたのね。それで窓から外を眺めてたんだけど、夜明け前なのにたくさんの人たちが働いてたの。みんな、朝早くからがんばってるんだよね。……だから、朝から働いている人たちに、美味しいお味噌汁を飲んで欲しいなぁ、って」
『この間』とは、美人災害事件のことだろう。ユフィリアは今でも、緩やかな外出制限を自分に科していた。万一のことを考え、アキバの街中を安易に出歩かない様に気付けているのだ。早朝であるなら、この要件から大きく外れることもないのだろう。
葵:
「うむ」
ジン:
「……いい話だな」
エルム:
「確かにそうですね。私にも是非、お手伝いさせてください」
ユフィリア:
「ありがと! よろしくお願いします」ぺこり
『エルムを呼べ』の意味はほどなくして判明した。
ジン:
「早朝だと人が集まるにも限界があるだろう」
ユフィリア:
「んーと、50人ぐらい?」
ジン:
「初期費用を抜きに考えれば、味噌汁の材料費だけだし、がっちり儲かるはずなんだけどな」
エルム:
「接客などにかかる人件費はどうしますか?」
ジン:
「ちょうど無駄飯喰いが何人かいるから、連中にやらせるさ」
石丸:
「顧客を50人と仮定して、儲けを出すには幾らに設定すべきかということっスね」
ユフィリア:
「あのね、金貨1枚でやりたいの。みんな朝からがんばってるんだし、お金儲けしたい訳じゃないから……」
ジン:
「趣旨を考えれば、そういうことになるか」
トモコ:
「1人金貨1枚、計50枚じゃ儲けが出ない、どころか大損しません?」
葵:
「勉強代ってことでいいでしょ。このギルマスが許可しよう!」
石丸:
「200人か300人いれば、ペイできる可能性もあるっス」
エルム:
「容器と箸にコストが掛かりますから、難しいかもしれませんね。……どうにか儲けが出る方法を考えたいところですが。安易に損する方法を選ぶのは、様々な側面からみても良いことではありません」
ユフィリア:
「ごめんなさい。でも、金貨1枚でやらせて?」
ジン:
「いいさ。やりながら工夫しよう。百均でもありゃ、それこそ紙コップでも良かったんだがな。こっちの世界じゃどうにも、そんな業者はないしな」
石丸:
「木工職人がいれば、作成でコストを抑えられるっス」
エルム:
「マイ箸・マイカップ推奨ということにするべきでしょうね。カップは最初の何日か分だけ用意するべきかと。以後は追加発注の形が望ましいですし」
葵:
「となると、マイカップ持参者になんか特典とか?」
ジン:
「ああ。金のかからないものを考えよう」
エルム:
「それから味噌汁の計量のために『お玉のサイズ』を目安にするといいでしょう。1回ですくえるサイズに調整しておけば、時間短縮にもなりますし、マイカップでの不公平感を無くすことができます」
ジン:
「必要だな。予備を含めてお玉を3つ頼む。手作りで構わない」←割高の意
エルム:
「ありがとうございます」
レイシン:
「じゃあ、先に味噌汁の量を決めてくるから」
ジン:
「おう」
トモコ:
「従業員の衣装は? どういうイメージ?」
ユフィリア:
「どうしよう、お味噌汁だと着物かな?」
ニキータ:
「割烹着かしら?」
葵:
「メイド服も捨てがたいね。目的は秋のお祭りだもん。客引きのことも考慮にいれないと」
ジン:
「だな、じゃあ女子メンバー全員分の着物と、メイド服も頼もうか。生地は安いので」
エルム:
「そちらはロデ研に問い合わせた方が安くあがるかもしれません。必要なサイズをまとめていただけたら、こちらで手配しましょう」
ジン:
「ユフィが主役だ、お前だけ割烹着にするか?」
ユフィリア:
「うん!」
葵:
「机の配置とか、どっち向きに客を並ばせるか、行列の管理をどうするかってのもあるよ」
石丸:
「天候によっても変わるっス」
次々と議題が提起され、短時間でプリテストの土台が固まっていった。エルムを呼んだことで、アイデアを貰いつつ、発注も同時に済ませてしまっている。
こうして『朝の味噌汁屋さんプロジェクト』が開始される運びとなった。開店目標は明後日の早朝と慌ただしいが、この分だと、どうにかなってしまうのだろうと思う。
◆
ジン:
「じゃあ今日は、歩法について語ろうか」
シュウト:
「お願いします」
ジン:
「科学的厳密さで歩法を考えると、まず最初は『人体の移動』で、次ぐらいが『重心が移動すること』を意味したりする。順番だのはともかく、このあたりは当たり前に分類される内容だな」
石丸:
「『歩く』は辞書によれば、両足が同時に離れないような足の運び方となっているっス」
ジン:
「ふむ、辞書的には『足の運び』というのが面白い部分だな。物質的視点に縛られてもいるわけだ。物質的視点に縛られないのであれば、中心軸の移動とその方法という所へたどり着くだろうな」
葵:
「足だのの動かし方は、究極的にはどっちでもいいわけだ」
ジン:
「究極にはほど遠いにしても、究極的にはね。さて、そんな歩法の話なのだが、先に『立つ』を解説しないと、先に進めない。『立つ』から『歩ける』からだな。やたら難しく解説もできるけど、今日は中級解説レベルでいこう」
ユフィリア:
「簡単がいいなー」
ジン:
「簡単だって。簡単、便利」
ユフィリア:
「ジンさんって嘘吐きだもん」
ジン:
「フッ、騙されちゃえよ。悪いようにはしないって」
ユフィリア:
「なんか、えっちだよ?」
ジン:
「それで何か問題でも?」
ニキータ:
「……それはともかく、立つとは?」
ジン:
「はい。簡単に解説すると、軸には『2つの絶対』があります。地球絶対垂直軸、略して垂軸がひとつ」
シュウト:
「地球?」
ユフィリア:
「絶対?」
葵:
「ふむ。もう一つは?」
ジン:
「体の絶対の軸、身体絶対軸。略して体軸だ。床に横になっても、体の上下方向に伸びる軸のことだな」
シュウト:
「えっと、床に横になった場合、地球絶対垂直軸はどうなっちゃうんですか?」
ジン:
「体の重心を貫いて、そのまま垂直に立ってるに決まってるだろ。絶対といったら絶対だ」
ユフィリア:
「分かりやすいけど、分かんないね」
ジン:
「科学的厳密な意味で『立つ』という現象は、垂軸と体軸がぴったり一致することを言うんだよ。それを『垂体一致』と呼びます」
ユフィリア:
「おお! なんかわかんないけど凄い!」
ジン:
「……無意識に『凄いこと』が分かるんだろうなぁ」
レイシン:
「それが凄いよね」
ユフィリア:
「そうなの?」
ジン:
「そうなの。普通は当たり前としか思わないから」
シュウト
「はい。当たり前かなって思いました」
ジン:
「ちなみに、まともに『垂体一致』で立てる人はほとんどいません。レイもダメ、アクアもできてない。ちょっと探して、さっちんもダメだった。知り合い全員、誰もできちゃいない。アキバにゃ確実に1人もいないだろうな」
シュウト:
「は、はい?」
葵:
「ちょっ、マジ?」
ジン:
「二つの絶対軸が一致する瞬間ぐらいなら、みんな幾らでもあるだろうけど、そのレベルではまともに『立っている』とは言えないんだよ。
そもそも、軸ってのは意識だ。垂軸を垂直に形成するだけでも難しいんだよ。スポーツなんかの天才……とある分野で大衆から『神』と呼ばれるぐらいの天才ってのは、専用の練習をしなくても、無意識に垂体一致を潜在的に構造化できる連中のことをいうんだ。必然的にべろんべろんに体が柔らかいのも同じだな」
葵:
「つまり、バスケで言えば、エア・ジョーダンのクラスか」
ジン:
「そ。」
ニキータ:
「今の、『無意識』に『垂体一致』を『潜在的』に『構造化』ってどういう意味ですか?」
ジン:
「無意識に構造化できるのが真の天才。潜在的に構造化っていうのは、つまり具体的に運動してる状態だと、ほぼ常に『垂体不一致』だからだ。これを『垂体分化』といいます。運動している最中に垂体一致で綺麗に突っ立っていられる状況はそう多くないからなんだ。そんなんだから『潜在的に垂体一致』と言ったわけ」
シュウト:
「なるほど」
葵:
「そりゃそうだわ」
ニキータ:
「だいたい、わかったと思います」
ジン:
「基準の状態が垂体不一致で、運動状態でさらに不一致が大きくなるって考えてみ。寂しくなるだろ?」
シュウト:
「でも、僕らはそういう状態ってことですよね?」
ジン:
「そうだ。……そんでもって、人間ってヤツは人の話を聞かない生き物なんだわ。垂体一致が重要っぽいことを言うと、無理矢理に一致させようとし始める。わざわざ垂軸・体軸を両方とも『絶対だ』って言ってるのに、体軸を崩して、垂軸に合わせようとするんだよ」
ニキータ:
「ダメなんですか?」
ユフィリア:
「ん~?」
シュウト:
「でも、垂軸は動かないから、体軸を動かして合わせるしかないですよね?」
ジン:
「垂軸も動くぞ。ただ、常に垂直なだけだ。東京にいても、フランスにいても、ブラジルにいても垂直なんだ。北海道でも、大阪でも、沖縄でも垂直だな」
シュウト:
「はぁ、それは分かりますが」
ジン:
「100m動いても垂直だし、10m、1m、10センチ、1センチ、5ミリ、1ミリ、0.5ミリ、0.1ミリ動いても、垂直なものは垂直なんだよ。……分かったか?」
シュウト:
「あ、あっ、ああ!」
葵:
「自分が2センチ動いたのに、2センチ前の位置に残ったりはしないわけだ」
ユフィリア:
「そっか。動くけど、垂直なんだね」
ジン:
「人間は、自分が理解できる形でテキトーに歪めて解釈するのが得意な生き物だ。でも体軸は絶対だと言ったら絶対だ。理想論では、垂軸に対して体軸が相対化し、体軸に対して垂軸が相対化すればいいように思えるが、それを感覚的に理解できるぐらいなら誰も苦労なぞしない。両方とも絶対軸と考えるべきだ」
ニキータ:
「あの、両方とも絶対軸だとしたら、喧嘩してしまって一致しないような気がするんですが?」
ジン:
「そうだよ、そのイメージでいい。一致しないから一致させようと妥協し、体軸を犠牲にしようとする。それじゃいつまで経っても、運動の内容は良くなって行かない。じゃあ、どうするか? ……実は、答えはもう教えてあるんだな。これまでの練習の中でやってきている」
シュウト:
「ええっと……?」
ニキータ:
「……?」
ユフィリア:
「んーと、支持線のこと?」
ジン:
「正解。二つとも絶対なら、もう一つ別の、操作のための軸を作ればいい。それが支持線だな」
葵:
「支持線ってなんだっけ?」
シュウト:
「足裏に作る力点を、線状にしたものです」
ジン:
「普段から練習している内容が、実は高度な内容だったと分かるのはとても良いことだ。……今の話は、ロボットのオートバランサーをどう設計すべきか?みたいな内容と関係してくる。客観視して捉え返すにはロボットは良い題材だな。
……さて、このぐらい軸の話をしておけば準備はいいだろう」
レイシン:
「歩法の話?」
葵:
「ようやくか」
ジン:
「まず分類するぞ。実は複雑なんだが、人間にとっての基本形は3つある。普段やっているのが傾倒運動。体軸を傾けて前に進むものだな」
葵:
「とりあえず残りふたつもドゾ」
ジン:
「ひとつは、自由軸落下。いわゆる垂直落下から運動エネルギーを取り出して前に進むタイプ。なんとなく中国武術の真髄的なイメージのアレだな」
シュウト:
「ひょっとして、『垂水転換』ですか?」
ジン:
「その通り。すでに練習は始まっているのだよ。じゃあ、最後のひとつは?」
石丸:
「平行移動っスね」
ジン:
「……となるわけだ。ちなみに、魚や蛇、トカゲなんかはクネクネ移動型で、猫系の四つ足動物はシャクトリムシ型の延長上の動きになる。前後に縮めて、伸ばすを繰り返してる。特殊事例だとエリマキトカゲの軸回転シャカシャカ走りみたいなものもある。相撲なんかでエリマキトカゲの動きを使ったりすることもあるな」
人差し指と親指を曲げて足に見立て、手首をシェイクさせる感じで短く何度も回転・逆回転させ、エリマキトカゲっぽい動きをやってみせた。
葵:
「ああ、だから『基本の話』っていってんだ?」
ジン:
「そう。とある局面で人間に可能な動きってのは、想像より複雑で、多彩で豊かなんだ。対面に敵がいて掴んだりできるなら、やれることが何倍かになったりもする。
この世界なら移動系の特技や、移動補助のさまざまな要素が加わってどんどん複雑になっていくけど、ともかく基本をしっかり身につけるのが肝心だ」
シュウト:
「……傾倒運動は普段やっているものだとしたら、自由軸落下ですか?」
ジン:
「目的はそうなんだが、遠回りしないとどうにもならなくてな。平行移動の方が先になる。下体の動きを制限する強固なロックが2つあって、マジでどうにもならない」
葵:
「ちな、それどういうの?」
ジン:
「股関節と足の付け根をがっちり固めている閉側芯と、足の側面をガチガチに固めている拘束外腿だ。最低でもこのダブルロックを解錠した『不完全二足状態』にしてからじゃないと話にならない。この辺の詳しい説明をするとたぶん泣くからやめといてやんよ」
シュウト:
「今から泣きそうです」
葵:
「いやいや、不完全二足ってなんぞ?」
ジン:
「拘束しているから、完全二足歩行ができるんじゃよ。逆にいえば人間の動きがクッソトロいのは、完全二足歩行のせいだ」
ニキータ:
「今のダブルロックは、両方とも二足歩行を支えるために、敢えて固めている要素に聞こえますね」
ユフィリア:
「不完全になっちゃうと、どうなるの?」
ジン:
「ピーキーでシビアなコントロールが要求されるようになる。つまり、すぐにコケる。フリーライドは、ほとんどズッコケライドと言っても言い過ぎじゃないぐらいコケ易いものなのだ」
ユフィリア:
「でも、ジンさんがコケるの見たことないよ?」
ジン:
「中心軸でコントロールしてるからな。それと本当の最速で動く時はフローティング・スタンスの転倒防止を利用してる。俺が使うと、超便利な特技だからな、アレ」
葵:
「……いやぁ、先に進まないね」
ジン:
「俺はお前のせいだと思うんだがな。人類の歩みは遅々として進まないものなのかもしれないがね」
シュウト:
「哲学的ですね」
ニキータ:
「歩法だけに?」
ユフィリア:
「ほほーう」
レイシン:
「はっはっは」
ジン:
「じゃ、平行移動の件だったな。平行に移動するには……」
葵:
「普通に歩けばいいんじゃないの?」
ジン:
「だから、さっき体軸の話をさんざんしたんスけどね。普通に歩いた場合、重心は平行移動するかもしれんけど、体軸は傾くだろ。平行移動ってのは、科学的厳密に言えば、垂直の軸を設定しないと概念的に不可能な動作、自然界には存在しない『極めて不自然な動き』なんだよ。言い換えれば、垂体一致の移動バージョンだ。運動の根幹レベルを規定する難問なんだよ」
葵:
「無理じゃん、不可能じゃん」
ジン:
「諦めるな! 諦めたら、そこでゲームセットだぞ!」
葵:
「垂体一致を完全にしてから、平行移動の練習するべきじゃん」
ジン:
「ベイビーステップなんてテニスだけで十分です。英語だって、ある程度単語おぼえたら、いきなりしゃべった方が上手く行ったりするもんだろ。平行移動、専門概念では進垂線、の練習こそが、垂体一致の練習なんだよ」
シュウト:
「平行移動、えっと進垂線?って、どういうものなんですか?」
ジン:
「日舞とか能楽なんかでは究極・至高、憧れの動きとされているものだな。幽玄の動き、至妙の美ってやつね。日舞の名取りクラスでもなかなかできない。そもそも武術系では概念がないせいか、あんまりやろうとしてないからだけど、ダンス・舞踊系の身体操作の方がずっとマシって言われてんね」
葵:
「いや、だからそれ、不可能じゃね?」
ジン:
「『魔法の技術』なんだからしょうがないだろ。同じ水準の実力者同士が対決したら、これが使える側が勝つ。両方とも使えるなら、これの精度が高い側が圧倒的に有利、ってぐらいに重要なんだよ。できないとかじゃなくて、やるんだ。
……さっきの答え、進垂線による平行移動を何に使うかというと、そもそも運動全般のレベルを決定する因子になるんだよ」
ユフィリア:
「どういうこと?」
ジン:
「走る・歩くの両方とも、着地が存在するだろ? ロボットの動きと比較すると分かり易いんだけど、カカトからつま先までの区間で進垂線の動きをどのくらいちゃんと使えるかが問題なんだ。
ロボットは自分を支えながら歩こうとする。人間は、ある意味で倒れながら、それを回避する形で足を出した結果、歩いている。それと歩くには脚の乗り換えが必要だ。右足から左足へいちいち乗り換えなきゃならない。人間はそれが自然にできるから歩けるんだ。中心軸が利用できるから、でもある」
葵:
「それは普通の人の歩き方の説明だよね? そこで進垂線ができるとどうなるん?」
レイシン:
「乗り換える軸そのものが、滑るんだよね」
ユフィリア:
「滑る?」
ジン:
「カカトで着地して、ギッコン、つま先で蹴ると、バッタンする。さらに詳しく見ていくと、右足を前に振り出して、着地させる。この時、重心より前に着地しちゃうとブレーキになるから、足は真下を踏まないといけない。これは逆に上体から見ると、重心落下点へ『乗っていく動き』になっている。ふみふみだな。前に倒れつつ、予定調和的に、転倒を回避するんだ。
着地した足はそのまま体を支えるものになり、同時に踏み換え・替え脚が起こる。これもポイントだな。
右足は一瞬後に推進力を生み出さなきゃならないんだが、峰越えの理屈から、重心よりも後ろにつま先がこなきゃならないだろ? 逆に左足は踏み換えのタイミングで地面から離れて、前に進んでくる。足を前に振り出そうとしていて、この振り出しの動きを利用して、峰越えするわけ。これがギッコン、バッタンだ。
ここで進垂線が使えるということは、体軸の慣性運動に近くて、カカトで着地したらそのまま拇指球付近まで、軸が滑りながら移動することを意味している。進垂線っぽい動きが上手いほど、運動が得意だってことになるんだ」
ユフィリア:
「うーんと、わかんない」
シュウト:
「僕も、ちょっと」
葵:
「だから、言ってることが普通に聞こえるんだってば」
レイシン:
「例えばなんだけど、踏み込みから蹴りを放つとするでしょ?」
シュウト:
「はい」
レイシン:
「踏み込んだ足が軸足になって、回し蹴りを出すんだけど、その時に軸がスッと前に滑ると、体重が乗った良い蹴りになるんだよ」
ニキータ:
「なるほど」
葵:
「それは分かるんだけど、みんなやってんじゃないの?」
ジン:
「『軸乗り』を、正しく『足底面の軸移動』と関係させて説明してるケースは中々ないんだけど、まぁ、現象的に見れば普通の範囲だな。運動内容を確実に向上させる重要な技術だが、それだけでは『魔法』にはならない。何故かと言えば、垂体一致による平行移動になってないからだ。
そもそも進垂線は、雪上や氷上といった滑りやすい環境でしか見られないものだ。人間は、ほぼ『平行には移動できない』からだ」
葵:
「ん? んんん? ……待て待て、ラジコンの上に乗るとか、脚にキャタピラくっつけキュラキュラしたらどうよ? キュラキュラ」
ジン:
「お前はキュラキュラ言いたいだけちゃうんか? 戦隊モノの奇抜な巨大ロボとか、ロボティクスノーツ的なロボでそれをやったらどうなる?」
葵:
「後ろに倒れる、かな?」
ジン:
「んで、それを回避するには?」
葵:
「閉側芯と拘束外腿をガチガチに固めて、動かないようにする!」
ジン:
「とまぁ、そういう冗談はともかく」
葵:
「冗談で流された!?」
ジン:
「要するに、持ってない感覚だから理解できないんだよ。
物質視点では、体の変形なくして移動はままならない。体が動いた時点で平行移動は成立しない。現在の科学では、だからこの段階で強制終了だ。
体を前後に4分割した、前から3番目に体軸、『第3軸』を形成し、キッチリと定位させることがひとつ。上半身で第3軸を定位しつつ、下半身では分割した地4番から地1番までを自在に移動させる必要がある。この際、平行を保たないと体軸は傾いてしまうんだ。3軸定位も崩れるし、たかだか足裏20センチの範囲でまともに運動できないことが分かるだろう。垂軸も絶対だし、体軸も絶対なのに、そうはなかなかできない」
ユフィリア:
「いつもやってる『前~、後ろ~』っていうのと、どう違うの?」
ジン:
「アレは傾いてるんだよ。傾倒運動だ」
シュウト:
「きっちりと平行移動、進垂線ができるようになったらどうなりますか?」
ジン:
「動き出しが素晴らしいものに変わる。峰越えだけ考えたって、威力や精度が大きく変わってくる。平行移動を阻害する内部矛盾、内的抵抗が大きく減って、身体深奥部のフリー化が進めば上手くなるよ。
また、他人が持っていない運動構造は感知されにくいから、実力の『実』に大きく影響する練習になる」
葵:
「いいぜ、やってやんよ。まずどうすんの?」
ジン:
「クックック。自分の体が、自分の味方なんかじゃないことを、思い知るがいい」ギラリ
◆
ジン:
「女子は全員集まったか?」
ニキータ:
「ユフィ以外は、全員です」
夕方、ロデ研に頼んだ着物を取りに行ってきた。夕食前だったが、急遽、女子全員を集めるように言われていた。
ジン:
「アイツは役割があるからいいんだ。……って、ウヅキのこと忘れてないか?」
ニキータ:
「す、すみません」
星奈:
「呼んできます!」
ジン:
「いや、いい。アイツは免除にするから。……着物の注文も忘れてたし」
ニキータ:
「あははは(苦笑)」
りえ:
「……あの、今から何をするんですか?」
葵:
「フッ。今日から着物を着てもらいます!」
まり:
「着物……?」
赤音:
「和服美人、つまり、大和撫子」くわっ
赤音が無表情のまま、何か力説して見えた。よく分からない子である。実は年下なのかもよく分かっていない。まりやりえ、静たちよりは年輩ではあるらしいのだが。
静:
「えっ、どうしてジンさんここにいるんすか?」
ジン:
「着替える前にゃ出ていくから心配すんな。お前のぺったんこなんか、みたいと思ってねーよ」
静:
「む、これでも脱いだら凄いっすよぉ?」
りえ:
「まーまー、無理すんなって。ウチラには、まりっていう秘密兵器があんだから」
まり:
「ちょっと、勝手に秘密兵器にしないでよ」
ジン:
「まりはデカそうだなぁ。ニキータとどっちが上かな? アイツはマジで脱ぐと凄いぞ」
ゴクリ。と唾を飲む音が聞こえた気がした。胸元に注目され、顔が赤くなる。
静:
「むむむっ。隠しても隠し切れない大ボリュームががが!」
りえ:
「ひょえ~っ。後でちょっと揉み比べさせてください!お願いします」
ニキータ:
「ダメよ。……変に煽らないでください」
ジン:
「フッ、攻撃の矛先を逸らすのは防御の基本ってね」
葵:
「さて、じゃあ始めようか。あたしは着付けもできるんだけど、このナリだから上手く手伝えないんだよね」
葵はヒューマンの低身長の限界近くの身長しかないため、難しいかもしれない。
ジン:
「他に誰か着付けできるヤツいないか?」
ニキータ:
「何度か着たことがあるので、お手伝いぐらいなら」
ジン:
「他には?」
静:
「あー、あたしできますよ?」
まり:
「静? 凄いじゃん!」
りえ:
「マジか。女スキル持ってるなぁ」
静:
「ちょっと家の事情でねー。……えっと、補正パッドは流石にないですよね? だったらタオルでも代用できますから」
葵:
「おっ、こりゃ慣れてるな」
ジン:
「だな。しかし、タオルなぞは使わせない。……おーい、モデルさんどーぞー」
ユフィリア:
「じゃじゃーん」
バスローブ姿のユフィリアが登場した。着物なので、まさか下着なしでは?と思ったりもしたが、たぶん水着は着ているのだろう。
さっとバスローブを脱ぐと、ワンピース型の水着を身につけていた。ビキニのようなセパレートタイプではないので、下着っぽさがなく、ジンの欲っするようなイヤラしさはあまりない。
静:
「細っ!」
りえ:
「足、ながっ!」
まり:
「胴、みじかっ!」
サイ:
「モデル体型……」
咲空:
「キレイです」
星奈:
「うんうん」
赤音:
「まけ、た」がっくり
モデルをするユフィリアに、みんなの前で着付けさせようという話らしい。
ジン:
「さて、ここからが本題だ。一般的な着物のイメージってのは、締め付けが厳しくて、つらいってのが相場だろ? 静が口にしたように、補正パッドなんかを使うためでもある。しかし、だ。江戸時代に補正パッドがあったと思うか?」
静:
「でも、日本人も体形が変わってきてるから……」
ジン:
「ユフィならそうかもしれない。が、お前らそんなに日本人ばなれしてんのか?」
静:
「あぐっ」
りえ:
「あああ、いっちゃいけないことを!」
まり:
「十分、日本人だよね」
ジン:
「じゃあ、どうやって着付けするかって話になるんだわ。ユフィ、息を吸って、ハラを膨らませろ。ポコーって」
ユフィリア:
「ポコー」
ジン:
「もう一回、息吐いて、吸って、ポコー」
ユフィリア:
「ポコー」
ジン:
「そのまま維持。……静、着付けだ」
静:
「ま、マジですか?」
手早く着付けをする静。慌ててそれを手伝う。最後に帯を巻くときに、少し強めにするように指示された。
静:
「できました!」
ジン:
「いいか、おなかをポコーってさせて、内側からハラで、帯を押して押さえるんだ。気を抜くと帯が落ちるから気を付けろ」
ユフィリア:
「ぽこー」
りえ:
「い、いつまでやるんですか?」
ジン:
「今日は特別に短時間で、寝る前までだ。これから秋祭りまでの2週間、和服と洋服を交互にやる。それと、明日から夜明け前に起きて仕事だ。そのつもりでなー」
静:
「仕事って、何をやるんですか?」
ユフィリア:
「おみそしるやさん」ぽこー
着替えの前にジンは退室。騒ぎながらどうにか着付けをすませる。葵と自分とで、楽をさせないように監視していた。
自分で着てみると、常にお腹に力を入れていなければならず、そこそこ大変そうなのだが、締め付けられる苦しさはさほどでも無く、意外とイケそうな感じだった。
葵:
「おっしゃ! 晩飯まで待機!」
着物のお腹をぱーん!と叩いた葵が、終了宣言をした。
まり:
「どうしてあの二人、着物もあんな似合うんだろう?」
静:
「だよね。足とか長くて日本人離れしてんのに」
りえ:
「チートだよ。チートツールを使っているに違いない」
サイ:
「……みんな余裕あるね」
赤音:
「ふふふ。大和撫子、七変化」
夕食の時間に女子が着物姿なので、男子をかなりびっくりさせることになった。慣れない着物(というよりお腹のポコー)に苦しめられていたのだが、食事を沢山たべると、力を少し抜くことができるのが分かり、静たちが大騒ぎしていた。
その後は着物でグロッキーとなり、みんなでかなり早く寝ることになっていた。おかげで翌朝からのお味噌汁屋さんの準備時間には、きちんと目を覚ますことができたのだった。
ちなみに翌日の洋服は、お腹を引っ込める練習だったりしたため、今度はペコーで苦しめられることになるのだった。