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婚約破棄はこちらから  作者: 月雅


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第9話「契約ではなく」

わたしの名前で、出す。


執務室の机上に、契約監査院からの通達が広げられていた。羊皮紙の端が朝の光を受けて白く浮き上がっている。「辺境伯夫人セレスティナ・クレイドに対する虚偽申告の疑い」。レーヴェン侯爵家が提出した逆申立の文面を、セレスティナは三度読み返していた。


紙の繊維の匂いが鼻腔に触れるたび、指先が冷えていく。


アルヴィンが対面に立っていた。通達を読み終えた後、窓辺には向かわなかった。机を挟んで、セレスティナの正面に。


「逆申立の内容は、あなたの過去の婚約解消が虚偽の正当事由に基づくものだったという主張です。証拠は添付されていません」


アルヴィンの声は簡潔だった。だが通達を読み上げた時、唇が一度閉じられてから再び開いたことに、セレスティナは気づいていた。


「証拠がなくとも、申立が受理されれば監査院は調査を行います。調査期間は三十日。その間、わたしの——辺境伯夫人としての公的活動に制約が生じる可能性があります」


声は平坦だった。制度の説明をしているだけだ。前の人生で何度も窓口で行ったことと同じ。だが喉の奥に、通達の文字が棘のように引っかかっている。虚偽申告。十五回、正しい手続きを踏んだ。そのすべてを嘘だと言っている。


ニコが書庫から駆け込んできた。手に記録用紙を抱えている。


「辺境伯閣下、セレスティナ様。逆申立の受理日を確認しました。アルヴィン閣下がレーヴェン侯爵に法的回答を送付された時期と照らすと、侯爵家は回答を受け取った直後に申立を準備したと考えられます」


ニコの早口が、執務室の空気に速度を与えた。羽根ペンを握ったまま報告する姿勢に、以前の怯えはない。


「黙っていれば、虚偽申告の疑いがそのまま確定する構造ですね」


セレスティナが呟いた。指が通達の端をなぞる。逆申立を放置すれば、監査院の調査は侯爵家の主張のみに基づいて進む。辺境伯夫人の過去の婚約解消が虚偽——その結論が公的記録に残れば、条例改訂の法的根拠も、顧問としての信用も、すべてが崩れる。


「対抗手段があります」


自分の声が、思ったより低く響いた。


アルヴィンの灰色の目がこちらを見ている。否定も催促もない視線。待っている。


「契約監査院に正式な申立書を提出します。十五件すべての婚約契約に不正があったことを、証拠付きで」


ニコの羽根ペンが止まった。


「全件を、ですか」


「全件です。あなたの調査報告書を証拠資料として添付します」


アルヴィンに向けた言葉だった。彼は頷きもしなかった。ただ机の抽斗から報告書の写しを取り出し、セレスティナの手が届く位置に置いた。革の表紙が木に触れる音が、短く響いた。


全件を公開すれば、わたしの過去が公的記録として晒される。十五回の婚約と解消。相手の家名。不正の内容。社交界では「呪われた令嬢」として封じ込められてきたものが、監査院の記録として王都の書庫に並ぶ。


机の上の通達に視線を落とした。虚偽申告の疑い。この文面を書かせたのはレーヴェン侯爵だろう。息子の不正を隠蔽するために、わたしの正しさを嘘に変えようとしている。


「不正は不正です。それを記録に残すだけです」


声が短くなっていた。文が削れている自覚があった。だが崩れてはいない。


ニコが姿勢を正した。「申立書の書式と、監査院への送付手続きを準備します」。声が上ずっていたが、足はもう動いていた。書庫へ向かう足音が廊下に遠ざかる。


書庫。午後の光が高窓から差し込み、棚の背表紙を照らしている。


セレスティナは申立書の草稿を起案していた。羽根ペンが羊皮紙の上を走る。前の人生では、申立書を書く側ではなかった。窓口で受け取り、形式を確認し、不備があれば補正を依頼する側だった。今、初めて書く側に立っている。


申立人の欄に、自分の名前を記した。セレスティナ・クレイド。旧姓ヴァイル。


ペン先が紙に触れる感触が指先に伝わる。十五件の婚約契約の当事者として、申立権を持つ。それが法的根拠だった。


条文を引用し、各件の不正の概要を整理する。一件目、相続権の隠匿。三件目、税の二重取り。七件目、禁制品密輸の合法化。十五件目、関税免除条項の偽装。アルヴィンの報告書に記された証拠を、申立書の添付資料として一覧にまとめていく。


ニコが清書用紙を持って戻ってきた。二人で並んで作業する。ニコが条文の引用元を確認し、セレスティナが申立書の論理構成を組む。紙を繰る音と、ペンが走る音と、時折ニコが「ここの引用元は第何条ですか」と尋ねる声だけが書庫に満ちていた。


法的文書を「読む」側から「書く」側へ。手と目が同じ動きをしている。だが向かっている方向が違う。条文の不備を指摘するのではなく、不正を記録として公的に残す。受動から能動へ、筆先が切り替わっている。


申立書の最終頁に署名した。セレスティナ・クレイド。ペン先を紙から離した時、指先がかすかに痺れていた。長時間書き続けた疲労ではない。もっと深い場所から来る震えだった。


執務室。夕暮れの光が窓から差し込み、壁の地図を橙色に染めている。


セレスティナは完成した申立書をアルヴィンの机上に置いた。報告書の写しが添付され、十五件の証拠資料が整然と綴じ込まれている。


アルヴィンが申立書に目を通した。頁をめくる手が丁寧で、一条ずつ確認している。セレスティナは机の対面に立ったまま待った。壁燭台の炎が揺れ、二人の影が石壁の上で重なりかけては離れる。


「法的に不備はありません」


アルヴィンが顔を上げた。灰色の目が申立書からセレスティナに移り、そこで止まった。


「この申立が受理されれば、十五件の不正が公式に記録されます。同時に、レーヴェン侯爵家の逆申立は証拠不十分として棄却される可能性が高い」


セレスティナは頷いた。それは制度上の事実だった。だがアルヴィンの声が、次の言葉を探すように途切れた。ペンを置いた手が、机の上で一度握られてから開かれる。


「セレスティナ嬢」


呼称はまだ変わっていない。だがその名を呼ぶ声の響きが、今までと違っていた。結論を先に述べる話し方が崩れている。


「私は——」


言葉が途切れた。アルヴィンが立ち上がった。椅子が石畳を擦る音。窓辺にも書棚にも向かわず、机の角を回ってセレスティナの側に立った。一歩分の距離。これまで保たれていた間合いが、狭まっている。


「俺は、あなたの隣に立ちたい」


一人称が変わっていた。


「契約ではなく」


声が低く、掠れていた。灰色の目が逸らされない。壁燭台の炎が揺れ、アルヴィンの横顔に陰影が刻まれている。握られていた拳が、今は開かれたまま体の横に下りている。


セレスティナの呼吸が一拍止まった。耳の奥で血流の音が聞こえる。視界の端で、机上の申立書の署名欄が白く光っていた。自分の名前。十五件の記録。そしてその隣に立つと言った人の声。


唇が動いた。声が出るまでに、長い間があった。


「……アルヴィン」


名前だった。初めて呼んだ。「クレイド辺境伯」でも「クレイド卿」でもなく。


アルヴィンの肩が微かに震えた。それは呼吸のせいではなかった。灰色の目の奥に、何かが滲んで消えた。


セレスティナは申立書を手に取った。署名欄の墨はもう乾いている。この書面を早馬で王都に送れば、片道七日から十日で監査院に届く。届いた瞬間から、十五件の不正が公的記録として動き始める。


「明朝の早馬で送付します」


声はまだ震えていたが、文は崩れなかった。アルヴィンが頷いた。一歩分の距離は、縮まったまま戻らなかった。


翌朝。領主館の玄関で、早馬の馬丁に申立書の封筒を手渡した。蹄の音が石畳を叩き、門を出ていく。


数週間が過ぎた。辺境領の季節が少しずつ動き、書庫の高窓から入る光の角度が変わった頃、再び早馬が到着した。


ニコが封蝋を確認して駆け込んできた時、セレスティナは執務室でアルヴィンと並んで条例改訂の最終案を確認していた。二人の茶器が机上に並んでいる。


「契約監査院からの公式書簡です。受理通知と——もう一通、別の通達が同封されています」


ニコの手から封筒を受け取った。封蝋を切る指先に、かすかな震えがあった。


一通目。申立書の受理通知。審査開始の日付が記されている。


二通目。ヴィクトル・レーヴェンによる逆申立が「証拠不十分により棄却」された旨の通達。


羊皮紙を持つ手に、紙の重みだけが残った。隣で、アルヴィンの指が机の縁から静かに離れた。

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