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婚約破棄はこちらから  作者: 月雅


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第8話「十五の証明」

調査記録の最終頁を、もう一度開いた。


書庫の朝の空気は冷たく、棚板の隙間から昨日滑り落ちた薄い綴りが、卓上で開かれたまま夜を越えていた。禁制品密輸事件の調査記録。最終頁の署名欄に並ぶ、アルヴィン・クレイドの名前。


セレスティナは綴りを手に取り、書庫を出た。


廊下の石壁を朝の光が薄く照らしている。執務室の扉の前で足を止めた。この扉の前を、ここ数日は通り過ぎるだけだった。足が止まったのは、感情が解けたからではない。事実の確認だけは止められない。前の人生でもそうだった。窓口に座っていた八年間、書類の矛盾を見つけたら必ず確認した。感情とは別の場所にある衝動が、今も指先を動かしている。


扉を二度叩いた。


「入ってください」


低い声が返った。扉を開けると、机上に書類が積まれていた。アルヴィンは椅子に座ったまま顔を上げた。灰色の目がセレスティナを捉え、次いで彼女の手にある薄い綴りに移った。


「クレイド辺境伯。書庫の公文書を整理していた際に、この記録を発見しました」


綴りを机の端に置いた。紙が木に触れる乾いた音が執務室に落ちる。


「禁制品密輸事件の調査記録です。七年前のもので、調査者の署名にあなたのお名前があります」


アルヴィンの視線が綴りの上で止まった。否定も驚きもなかった。指が机の縁を一度だけ叩き、それから綴りを手に取ることなく、セレスティナの目を見た。


「この記録は辺境領の公務として行った調査のものです。それは事実です」


簡潔だった。結論が先に来る、いつもの話し方。だがそこで言葉が途切れた。アルヴィンが立ち上がり、窓辺ではなく、執務室の奥にある書棚に向かった。普段は施錠されている下段の抽斗に手を伸ばし、鍵を回す金属音が鳴った。


取り出されたのは、革装の書類束だった。厚い。条例集一冊分はある。背表紙はなく、表紙に手書きで文字が記されている。


アルヴィンが書類束を両手で持ったまま、机に戻らなかった。執務室の中央で立ち止まり、セレスティナとの間に二歩分の距離を残している。


「これを、あなたに渡します」


声の温度が変わっていた。いつもの平坦さではなく、低い場所から押し出すような響き。


「二年前から調査を続けていました。あなたの十五件の婚約——そのすべてに不正があったという裏付けを取るために」


書類束が差し出された。セレスティナの手が伸びかけて止まった。指先が宙で震えている。


「……すべて」


「十五件。一件目の相続権隠匿から、十五件目の関税免除偽装まで」


アルヴィンの手が書類束を支えたまま動かない。その指の関節が白くなっていることに、セレスティナは気づいた。


受け取った。革の表紙から古い紙と膠の匂いが掌に伝わる。重い。条例集よりも、外交委員会の管轄規程よりも。


最初の頁を開いた。


「一件目。グライフ伯爵家次男との婚約契約。附則に相続権移転条項を確認。条文の主語入れ替えによる資産流出構造を裏付ける証拠として、ヴァイル子爵家の資産目録の写しおよびグライフ家の相続登録簿を照合——」


文字が滲んだ。


紙の上の墨が滲んだのではない。視界が歪んでいた。頁の端を押さえる指が震え、呼吸が浅くなっている。一件目。十五歳の冬。社交界に出て最初の婚約。あの時、笑いもせずに席を立った伯爵家の次男。翌日には噂だけが残った、あの一件の裏付けが、ここにある。


頁をめくった。二件目。三件目——税の二重取り。附則に紛れ込ませた割増税率の証拠。四件目。五件目。六件目。七件目——禁制品密輸。条文の迂回路の構造分析と、関係者の聴取記録の写し。


「利用したかった。それは否定しません」


アルヴィンの声が聞こえた。窓の外で鳥が鳴いている。中庭の井戸から水を汲み上げる鎖の音が、朝の空気を規則的に揺らしている。


「あなたの能力を辺境領の法制度に活かすために、結婚を申し出た。最初の動機が打算だったことは、あの日お伝えした通りです」


頁をめくる手が止まらなかった。八件目。九件目。十件目。証拠の一つ一つが、丁寧に裏付けられている。公的記録の写し、関係者への聞き取りの記録、条文の構造分析。一人で。二年かけて。


「ですが、利用したいだけなら二年もかかりません。法的能力を確認するだけなら、七件目の調査で十分だった」


アルヴィンの声が、背後ではなく横から聞こえた。いつの間にか距離が一歩縮まっている。だがそれ以上は近づかなかった。


「十五件すべてを調べたのは——あなたが正しかったことを、証拠として残すためです」


十一件目。十二件目。十三件目。十四件目。十五件目——関税免除条項の偽装。ヴィクトル・レーヴェンの名前が記された頁。不正の構造分析。証拠資料の一覧。


最後の頁に手が届いた。調査者の署名欄。アルヴィン・クレイド。日付は、セレスティナが辺境領に来る半年前だった。


報告書を閉じることができなかった。革の表紙の角が掌に食い込んでいる。喉の奥が詰まり、吐息が震えた。


涙が落ちた。


報告書の表紙に、一滴。それを拭う前に二滴目が落ちた。視界の端で、アルヴィンの手が伸びかけて引かれるのが見えた。


声が出た。前の人生でも、この人生でも、誰にも聞かせたことのない声だった。


「十五回——正しいことを言いました。十五回とも、手続きは正しかった。でも誰も、正しかったとは」


文が途切れた。短くなる。感情が言葉を圧し潰している。


報告書を胸に引き寄せた。革と紙と膠の匂いが鼻腔を満たす。重さが腕に、胸に伝わっている。紙の束。ただの紙の束。だがその中に、七年分の孤独に対する回答が詰まっている。


打算から始まった。それは事実だ。だが打算だけでは、十五件すべての証拠を二年かけて集める人間は存在しない。


アルヴィンが何も言わずに立っている。窓からの光が彼の横顔を照らし、灰色の目が報告書を抱えるセレスティナの手元を見ていた。その視線には結論を求める鋭さがなかった。待っている。答えを急かさずに。


セレスティナは報告書の表紙を掌で拭った。涙の跡が革に薄く残っている。


呼吸を一つ整えた。声はまだ震えていたが、文は崩れなかった。


「この報告書を、正式な証拠資料として扱う許可をいただけますか」


アルヴィンの目がわずかに見開かれた。


「……どのように」


「条例改訂の根拠資料としてではなく、契約監査院への申立書に添付する証拠として」


アルヴィンは答えなかった。だが顎の力が緩み、唇の端がかすかに動いた。それが何を意味する表情なのか、セレスティナにはまだ名前をつけられなかった。


数日が過ぎた。報告書の内容を精査し、条文との照合作業を進める日々の中で、辺境領に新たな早馬が到着した。


ニコが書庫の扉を開けたのは、午後の光が棚の背表紙を金色に染め始めた頃だった。


「セレスティナ様。王都からの公式通達です。契約監査院の封蝋で——」


その手に握られた羊皮紙の表面に、セレスティナの名前が宛先として記されていた。


「レーヴェン侯爵家より、契約監査院に逆申立が提出されています。内容は——辺境伯夫人の過去の婚約破棄に関する虚偽申告の疑い、です」


ニコの声が上ずっていた。セレスティナの手が、膝の上に置いた報告書の表紙を強く押さえた。革の角が、再び掌に食い込んだ。

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