第6話「あなたは何を見て」
わたしの能力を見込んで、結婚を申し出たのですか。
その問いが喉の奥に形を成したのは、市場から戻ったニコの報告を聞いた翌朝だった。
朝食の席に、アルヴィンの姿はなかった。
マルタが湯気の立つ茶器を置きながら、「旦那様は早朝から執務室です」と告げた。煮込みの皿に手をつけないまま、セレスティナは食堂の窓から中庭を見ていた。井戸の傍に置かれた桶に朝露が溜まり、光を弾いている。
「呪われた令嬢が辺境伯に取り憑いた」。商人が市場で口にした言葉を、ニコが昨日伝えてきた。王都の社交界で流れている噂。商人ギルドの往来に乗って、三日から五日で辺境領に届く非公式の情報。
茶を一口含んだ。舌の上で薬草の苦みが広がり、喉を通る頃にはぬるくなっていた。
噂の出所は明白だった。外交委員会の通達と同じ方向から来ている。条例改訂に反応した誰かが、政治的な圧力と並行して風評を流した。
セレスティナは茶器を卓に戻し、食堂を出た。
執務室の扉を叩いた。
「入ってください」
アルヴィンの声が返る。扉を開けると、机上に書類が積まれていた。外交委員会への回答書の清書と、領内の条例改訂に関する進捗報告。窓から差し込む朝の光が、紙の束の断面を白く照らしている。
アルヴィンは椅子に座ったまま顔を上げた。灰色の目がセレスティナを捉え、次いで彼女が扉を閉める動作を見届けてから、ペンを置いた。
「ニコから報告を受けました。市場の噂について」
「はい」
セレスティナは机の手前に立った。椅子を勧められる前に、口を開いた。
事実を先に確認する。曖昧なまま信じることのほうが、ずっと怖い。前の人生で何百件もの相談を受けてきた窓口で、最初に教わったことだった。事実の確認を後回しにすれば、傷は何倍にも膨らむ。
「クレイド辺境伯。ひとつ、確認させてください」
声は平坦だった。感情を混ぜれば文が短くなる。短くなれば問いの形が崩れる。だから今は、前の人生の窓口に立っていた時と同じ呼吸で。
「わたしの法的な能力を見込んで、この結婚を申し出られたのですか」
部屋の空気が変わった。
アルヴィンの手が机の上で止まっていた。ペンを置いた位置から動いていない。灰色の目は逸らされることなく、セレスティナの顔をまっすぐに見ている。
沈黙が数秒続いた。窓の外で鳥が鳴き、中庭の井戸から水を汲み上げる音が遠く響いた。
アルヴィンは否定しなかった。
「最初の動機は、そうです」
声の温度が変わっていなかった。結論を先に述べ、理由を後に添える。いつもの話し方。だがその簡潔さが、今は刃物のように作用した。
「七件目の婚約破棄——禁制品密輸の件を調べる中で、あなたの法的判断の正確さを知りました。辺境領の法制度には専門家が必要だった。それが、結婚を申し出た理由のひとつです」
ひとつ、と言った。複数あることを示唆していた。だがセレスティナの耳には最初の一語しか届かなかった。
「最初の動機は、そうです」。
十五回目と同じだった。いや、十六回目。契約書に不正はなかった。解除条項があった。感情条項がなかった。すべてが整っていたのは、わたしを利用するために最適な条件を揃えたからだ。
指先が冷えていた。足の裏から体温が抜けていくような感覚がある。視界の端で、机上の書類の文字が滲んだ。
「書庫の鍵も、委嘱状も、会議での採用も。すべてそのための手順だったのですね」
声が短くなっていた。文が削れている。感情が言葉を圧縮している自覚があった。
アルヴィンが立ち上がった。椅子が石畳の上を引かれる音がした。窓辺に歩み寄り、外を向いた。背中がセレスティナの方に向けられる。
「否定はしません。最初の動機が打算だったことは事実です」
その背中を見ていた。この数週間、何度も見た背中だった。書庫の鍵を渡した朝。通達を読み上げた食卓。回答書に署名した執務室。その背中の向こうにあったものが、信頼だったのか計算だったのか。
「セレスティナ嬢」
名を呼ばれた。振り返らないまま。
「動機について、あなたに弁明する資格が私にあるとは思っていません」
その言葉を最後まで聞いた。聞いた上で、セレスティナは一歩後ろに下がった。靴の底が石畳を擦る音が、二人の間の距離を広げた。
「クレイド辺境伯」
呼称を戻した。「クレイド卿」と呼んでいた日々に、委嘱状に署名した朝に、「この回答で正しいですか」と問われた午後に積み重なっていたものを、意識して遠ざけた。
「法制度顧問の業務は継続します。委嘱状に基づく職責ですので」
アルヴィンの背中が微かに揺れた。それが呼吸なのか、それ以外の何かなのか、セレスティナには判別できなかった。
「……わかりました」
返答は短かった。セレスティナは一礼し、執務室を出た。
扉を閉める手が震えていた。廊下の石壁が冷たい。薄暗い通路に壁燭台の灯りが揺れ、自分の影が長く伸びている。
歩き出した。書庫へ向かう足取りは乱れていなかった。仕事を止める理由はない。不正を指摘する能力があり、委嘱状がある。動機が打算であっても、条例の不備は不備のまま残っている。直すべきものは変わらない。
ただ、胸の内側で何かが固く閉じた。鍵をかけたのではない。凍ったのだ。溶かし方を知らないまま。
書庫の扉を開けた。
紙と埃の匂いが鼻腔を満たす。東側の棚に手を伸ばし、条例集を引き出した。いつもの作業。改訂案の進捗確認と、次の条文の検証。
ニコが隣の机にいた。清書の途中らしく、羽根ペンの音が規則的に紙を走っている。セレスティナが入室しても、視線を上げただけで何も言わなかった。昨日の市場の噂を伝えた時の青ざめた顔が、今朝は別の種類の緊張に変わっている。
条例集の頁を繰った。文字を追う。主語、述語、適用範囲。前の人生で身についた読み方が、感情の凍結とは無関係に機能している。頭は動く。手も動く。ただ、条文の行間に見えていたはずのものが——アルヴィンの付箋、走り書きの注釈、一人で抱えた五年間の重み——今は文字としか映らなかった。
「セレスティナ様」
ニコが声をかけた。遠慮がちに、しかし以前より落ち着いた声で。
「改訂案の第七条ですが、水利権の裁定基準の雛形、昨日の続きを清書してよろしいですか」
「お願いします」
短く答えた。ニコは一瞬口を開きかけ、閉じた。何かを聞きたそうにしていたが、書記官見習いとしての判断がそれを押し留めたのだろう。羽根ペンの音が再開した。
午後の光が書庫の高窓から斜めに差し込み、棚の背表紙を金色に縁取っている。条例集の頁を繰る音と、ニコのペンの音だけが、静かに重なり続けた。
夕刻。領主館の廊下。
マルタが夕食の支度を告げに来た。セレスティナは書庫から出て、廊下を歩いた。執務室の前を通り過ぎる時、扉の隙間から灯りが漏れていた。机に向かうアルヴィンの横顔が一瞬だけ見えた。拳が膝の上で握られていた。
足を止めなかった。そのまま食堂へ向かった。
食卓にはアルヴィンの姿がなかった。マルタが「旦那様は執務室でお召し上がりになるそうです」と告げた。一人分の皿が並ぶ食卓は、着いた初日よりも広く感じた。
パンをちぎった。口に運んだが、味が分からなかった。噛む動作だけが顎の筋肉に伝わり、飲み込む感触だけが喉を通り過ぎた。
マルタが対面の椅子に腰を下ろした。使用人が主人と同じ卓につくのは王都の作法では考えられないが、この辺境領では、この館では、それが日常らしかった。
「奥方様」
マルタの声は穏やかだった。目尻の皺が深くなり、手元では畳んだ布巾を繰り返し撫でている。
「旦那様のことを、お怒りですか」
セレスティナはパンを皿に戻した。
「怒ってはいません」
嘘ではなかった。怒りという名前がつく感情ではなかった。もっと静かで、もっと深い場所にある、名前のない疲労。十五回繰り返してきたものの、十六回目の形。
「マルタさん。わたしは仕事を続けます。委嘱状がある限り」
マルタは布巾を畳む手を止めた。セレスティナの顔を見つめ、それからゆっくりと頷いた。何かを言いかけた唇が閉じられ、代わりに茶を注ぎ足す動作だけが返された。
食事を終え、廊下に出た。寝室へ向かう途中、窓の外に馬蹄の音が聞こえた。
足を止めた。この時刻に早馬が来ることは、辺境領では稀だ。
階下から、ニコの走る足音が響いた。玄関の扉が開く軋みが壁越しに伝わる。しばらくの間があり、それからニコの声が階段の下から上がってきた。
「辺境伯閣下。王都から書簡です。私的書簡——レーヴェン侯爵家の封蝋です」
執務室の扉が開く音がした。アルヴィンの足音が廊下に出る。ニコから書簡を受け取る衣擦れ。封蝋を切る小さな音。
セレスティナは廊下の角に立ったまま動けなかった。レーヴェン侯爵。十五件目の婚約相手、ヴィクトル・レーヴェンの父。外交委員会の実質的な運営者。噂の出所と、通達の発信元と、同じ家名。
階下の執務室から、引き出しを閉める乾いた音が響いた。




