第4話「信じるための証」
わたしの判断で、この人を助けられるだろうか。
領主館の応接間に、初老の男性が座っていた。農地を借りている領民で、隣接する区画との境界をめぐる争いを抱えているという。マルタが茶を運び入れ、静かに退室した。湯気から立ち昇る薬草の香りが、緊張した空気をわずかに和らげている。
セレスティナは条例集の改訂案を手元に置いたまま、男性の話に耳を傾けた。境界の杭が先代の時代に打たれたまま朽ちており、隣の区画の耕作者が少しずつ越境しているという内容だった。
「奥方様にお願いするようなことではないのかもしれません。ただ、役人に相談しても『領主の裁定を待て』としか言われなくて」
男性の声には疲労が滲んでいた。手の甲に土が残っている。朝の畑仕事を終えてから来たのだろう。
セレスティナの指が手元の条例集を開いた。第三条、土地使用。先日の会議で上限規定の不在を指摘した条文。改訂案にはまだ反映されていないが、現行条文の範囲内で対処できる道があるかどうかを探る。
「境界の確認ですが、先代辺境伯の時代の土地台帳は書庫に保管されています。台帳の記録と現在の杭の位置を照合すれば、越境の有無は事実として確定できます」
男性の目が大きくなった。
「わたしの名前で回答書を作成します。台帳の閲覧許可と、境界の再測量を辺境伯に進言する旨を書面にしますので、それを持って役人の窓口にお持ちください」
言い終えてから、自分の判断の重さに気づいた。委嘱状はある。法制度顧問としての発言権もある。だがこれは条例の改訂ではなく、住民の個別の問題に自分の名前で回答するという行為だ。アルヴィンの承認を得ていない。
しかし男性の手の甲の土と、「役人に相談しても」という一言が、前の人生の記憶を引っ張り出していた。窓口に来る人はいつもそうだった。たらい回しにされ、疲れ果てて、最後に法テラスの扉を叩く。その時には既に問題が大きくなっている。
今ここで止めたら、この人はまた「裁定を待て」と言われるだけだ。
「少しお待ちください。すぐに書きます」
羽根ペンを取り、回答書を起案した。条例の根拠条文、台帳閲覧の法的根拠、再測量の手続き。委嘱状に基づく顧問としての署名を最後に入れた。
男性が退室した直後、応接間の扉が開いた。
アルヴィンだった。廊下に立っている。どこから聞いていたのか、表情からは読み取れない。灰色の目がセレスティナの手元の回答書の写しを一瞥し、それから応接間の中に足を踏み入れた。
「クレイド卿。先ほどの件ですが、わたしの独断で回答を——」
「聞いていました」
遮られた。だが声に咎める色はなかった。アルヴィンは椅子には座らず、立ったまま続けた。
「回答の内容は正当です。台帳との照合という手順も適切です」
それだけなら評価だ。だがアルヴィンはそこで言葉を切り、窓の外に目を向けた。午後の光が彼の横顔を照らしている。指先が机の縁を一度だけ叩いた。
「……この方の判断を信頼しています、と。住民にはそう伝えてください」
最後の文はマルタに向けられたものだった。廊下でマルタが頭を下げる衣擦れの音がした。
アルヴィンは振り返らずに執務室へ戻っていった。足音が遠ざかり、石壁の廊下に静寂が満ちる。
セレスティナは回答書の写しを握ったまま立っていた。手のひらが少し汗ばんでいた。「信頼しています」。委嘱状でもなく、正しい判断ですでもなく。この方の判断を信頼している、と。その一言を住民に伝えろ、と。
公の場での信任表明。辺境伯が顧問の判断を追認した事実は、この領地の中で一つの前例になる。
隣接する区画の境界線の問題。前の人生なら些末な案件だったかもしれない。だがここでは、これがわたしの最初の対人実績になった。
午後。書庫。
ニコが改訂案の清書を手伝いに来ていた。セレスティナが条文の修正箇所を口述し、ニコが記録用紙に書き取っていく。
「セレスティナ様」
ペンが止まった。ニコの声の響きが変わっていた。これまでは「奥方様」だった。
「あ、すみません、つい——辺境伯閣下が『セレスティナ嬢』とお呼びしていたのが移って……奥方様、と」
「構いません」
セレスティナは手元の条例集に視線を戻した。呼び方が変わるのは、距離が変わったということだ。会議でのやり取り、住民への回答、改訂案の共同作業。数日前まで「奥方様」と呼んでいた書記官見習いが、名前で呼びかけた。
「あの、それで、先日お話した件なんですが」
ニコの声が低くなった。周囲を気にするように書庫の入口を確認してから、手元の綴りに目を落とす。
「公文書の整理の続きをしていたら、あの名前——禁制品密輸事件の関連記録に出ていた名前のことですが、辺境伯閣下にご報告しました」
「閣下の反応は」
「正しい判断です、と。それだけでした」
アルヴィンのいつもの返答だった。否定しない。追及しない。評価だけを口にして、それ以上を語らない。
ニコは羽根ペンを回しながら続けた。
「でもそのあと閣下が、書庫の公文書の中で、奥方——セレスティナ様の過去の婚約相手に関する記録があれば報告するように、と」
手が止まった。条例集を持つ指に力がこもり、頁の端が微かに撓んだ。
「閣下がそうおっしゃったのですか」
「はい。あの、僕は公文書の整理が仕事ですし、辺境領の公務記録として存在しているものですから、閲覧に問題はないと思いますが……」
ニコの声は事務的だった。彼はただ上司の指示を伝えている。だがその指示の意味は、セレスティナの胸の奥に別の形で届いていた。
アルヴィンはわたしの過去を調べている。禁制品密輸事件の調査記録が辺境領の公文書に含まれていたのは偶然かもしれない。だが「他の婚約相手の記録があれば報告するように」という指示は、偶然ではない。
なぜ。何のために。
「ニコ。その件は閣下の指示通りに進めてください」
声を平坦に保った。ニコは「はい」と頷き、清書の作業に戻った。羽根ペンが紙を走る音だけが書庫に響く。
セレスティナは条例集の頁をめくりながら、手元の文字を追う振りをした。文字は頭に入ってこなかった。
あの人はわたしを利用するために結婚したのかもしれない。法的な能力を買って、辺境領の法制度整備に使おうとして。そう考えれば、委嘱状も、書庫の鍵も、会議での即採用も、すべて辻褄が合う。
だがそうだとしても。「この方の判断を信頼しています」という言葉を住民に伝えろと言った声は、打算だけで作れるものだったのか。
わからない。まだ信じる根拠がない。だが疑う根拠も、まだ確定していない。
窓の外が暮れ始めていた。薄い橙色の光が書庫の棚を染め、ニコの横顔に斜めの影を落としている。
夜。寝室の窓から、月のない空を見上げた。
星が多い。王都では見えなかった数の星が、辺境の夜空では手の届きそうな位置に散らばっている。
「信じていいの」
声に出していた。唇が勝手に動いた。誰に向けた言葉かも定かでないまま、窓枠に手を置く。石の冷たさが掌に伝わった。
ヴァイル子爵家から最後に届いた便りは、婚姻契約の成立を確認する事務的な一通だけだった。それ以来、実父からの連絡はない。早馬で片道十日の距離。仮に便りを出したとして、返事が来る保証はなかった。「呪われた令嬢」を嫁がせた以上の関与は、あの人にとって家名のリスクでしかないのだろう。
ここにいる理由は、今日ひとつ増えた。住民の問題を解決し、感謝された。辺境伯が公の場で信任を表明した。それは事実だ。
だが事実の裏側に、まだ見えない形が隠れている。アルヴィンがわたしの過去を調べているという事実。その目的が、信頼なのか利用なのか、あるいはその両方なのか。
掌を窓枠から離した。石壁に戻った静けさの中で、階下から微かに紙をめくる音が聞こえた。執務室の灯りがまだ消えていない。
翌朝。朝食の席にニコが駆け込んできた。
「辺境伯閣下、王都から公式書簡です。早馬で届きました」
アルヴィンが受け取り、封蝋を確認する。その手が一瞬止まった。セレスティナの位置からも封蝋の紋章が見えた。貴族議会の外交委員会。
アルヴィンが書簡を開き、文面に目を通した。灰色の目が紙の上を二往復し、それから静かに卓上に置いた。
「ローゼンハイム辺境領の法制度変更について、説明を求める通達です」
その声に感情はなかった。だがセレスティナは、書簡を卓上に置く際の指先の力加減が、いつもの書類を扱う時とわずかに違っていたことに気づいていた。
通達の発信元を確認した。外交委員会。その実質的な運営者の名が、文面のどこかに記されているはずだった。




