第3話「正しいからです」
「お受けします」
委嘱状に署名を終えたセレスティナの声が、執務室の静けさに落ちた。羽根ペンを置く音が小さく響く。アルヴィンが机の向こうで頷いた。それだけだった。握手も、祝辞もない。委嘱状の墨が乾くのを二人で待つ沈黙が、朝の光の中に漂っている。
「法制度整備の会議を明後日に設けます。領内の古参役人が出席します」
「承知しました、クレイド卿」
呼び方を変えた。「辺境伯」では遠すぎる。委嘱を受けた以上、仕事の相手として適切な距離を取りたかった。アルヴィンは呼称の変化に目を細めたが、訂正はしなかった。
窓の外で鳥の声がした。辺境領に来て五日。空気の匂いにも、石壁の冷たさにも、少しずつ体が慣れ始めている。
会議の場は、執務室の隣にある長卓の間だった。
古参の役人が三名。いずれも先代辺境伯の時代から仕えている年配の男たちで、セレスティナが入室すると一斉に視線が集まった。好意的な目ではなかった。辺境伯の新妻が法制度の顧問を務めるという話を、彼らがどう受け止めているかは、椅子を引く音の荒さが語っている。
アルヴィンが上座に着き、セレスティナに左隣の席を示した。書記官見習いのニコ・ブラントが末席に控え、羽根ペンと記録用紙を構えている。まだ十九歳の青年で、セレスティナと初めて顔を合わせた際に「よ、よろしくお願いします、奥方様」と声を裏返らせていた。
「本日の議題は辺境領条例の見直しです。セレスティナ嬢に法制度顧問として意見を求めます」
アルヴィンの声が間を作らず続いた。「セレスティナ嬢」。署名の場では「ヴァイル嬢」と呼んでいた名が変わっている。気づいたが、今は会議に集中すべきだった。
セレスティナは手元の条例集を開いた。書庫で確認し、付箋を挟んでおいた箇所。ここ数日で何度も読み返した条文。
「第三条、土地使用に関する手数料規定についてです」
声を出した瞬間、喉が乾いていることに気づいた。古参役人たちの目が条例集に落ち、次いでセレスティナに戻る。
「現行の条文では、農地賃借の手数料に上限が定められていません。現在の運用に問題がないとしても、条文として上限が存在しないということは、将来の領主が任意の額を課すことが可能な状態です」
わたしが指摘すれば嫌われる。十五回、同じことを繰り返してきた。契約書の不正を指摘すれば、相手の顔から表情が消え、次に来るのは怒号か、冷笑か、あるいは「呪い」という一語だった。
それでも口は止まらなかった。止められるなら、十五回目の前に止めていた。
「第七条の水利権についても同様です。灌漑用水の優先順位が領主裁定に一任されており、判断基準が条文に存在しません。旱魃が発生した場合に紛争の原因となります。第十二条の商取引紛争処理も、基準のない裁定権が記載されているだけです」
条例集の頁を一枚ずつ示しながら、条文の主語と述語の対応、適用範囲の曖昧さ、例外規定の不在を指摘していく。声は平坦に保った。事実だけを述べる。感情を挟まない。それが前の人生で身についた習慣だった。
古参役人の一人が腕を組んだ。別の一人が机の下で足を揺らしている。三人目は条例集に目を落としたまま、セレスティナの言葉が届いているのかどうか判然としない態度を取っている。
沈黙が降りた。ニコの羽根ペンが記録用紙を走る音だけが細く続く。
「採用します」
アルヴィンの声だった。
セレスティナは顔を上げた。古参役人たちも。
「三条とも、セレスティナ嬢の指摘通りに改訂案を作成してください。正しい指摘だからです」
間を置かなかった。検討の留保もなく、持ち帰りの猶予も設けず。正しいから採用する。それだけの理由を、この場の全員に聞こえる声量で述べた。
古参役人の一人が口を開きかけ、アルヴィンの視線を受けて閉じた。異論があるなら聞く、という目ではなかった。決定を伝えた、という目だった。
ニコが記録に「三条改訂の件、辺境伯の裁定により採用」と書き込む羽根ペンの音が、役人たちの沈黙を追認するように響いた。
会議が終わった。
役人たちが退室し、ニコが記録用紙を束ねて一礼し、足早に廊下へ消えた。アルヴィンは机上の書類を揃えながら、セレスティナに視線を向けた。
「改訂案の草稿は、書庫の資料を参照して作成していただけますか」
「はい。三日ほどいただければ」
「お願いします」
それだけの会話だった。アルヴィンは書類を持って執務室へ戻り、セレスティナは長卓の間に一人残された。
廊下に出た。石壁に午後の日差しが斜めに差し込み、埃が光の中で舞っている。足を止めた。胸に手を当てた。
十五回、同じことをしてきた。契約書に潜む不正を指摘し、正当事由を申立て、公証人の審査を経て婚約を解消した。手続きは正しかった。毎回、正しかった。だが正しいと言ってくれた人はいなかった。指摘された側は怒り、実父は目を逸らし、二人の姉は連絡を絶った。「呪われた令嬢」という名前だけが残った。
今、正しいと言われた。理由はそれだけだと。
胸の奥で何かがきしんでいる。それが何なのか名前をつけられない。呼吸がほんの少しだけ浅くなっていることに気づいて、セレスティナは掌を胸から離した。
夜。書庫で改訂案の下調べをしていると、記憶が勝手に浮かんできた。
三件目。十六歳。伯爵家の次男との婚約。契約書に領地間の税率協定が附則として綴じ込まれていた。正規の税率とは別に、ヴァイル子爵家の取引にのみ適用される割増税率が隠されていた。二重の税率構造。婚約が成立すれば、ヴァイル家が気づかないうちに資産を吸い上げる仕組みだった。
指摘した瞬間、伯爵家の次男は笑った。「子爵家の小娘が税を読めるわけがない」。公証人に申立て、審査に三十日。結果は解消の承認。だが社交界に残ったのは「ヴァイル家の三女がまた婚約を壊した」という噂だけだった。
七件目。十八歳。侯爵家の三男との婚約。契約書の附則に、辺境領を経由する交易品の通関手続きに関する条項が含まれていた。読み解くのに二日かかった。条文の迂回路をたどると、禁制品の輸送が合法化される構造になっていた。
この件の指摘は、密輸に関わる商人ギルドまで巻き込んだ。申立の審査は三十日を超え、四十五日かかった。解消は承認されたが、噂はさらに悪化した。「呪いの令嬢が触れた婚約は必ず壊れる」。
書庫の燭台の炎が揺れた。条例集の頁が風に捲れる。
十五件。すべてに不正があった。すべてで正しい手続きを踏んだ。それなのに残ったのは「呪い」という言葉だけだった。
今日の会議で指摘したのは、不正ではなかった。不備だった。古い条文の穴。悪意ではなく放置によって生まれた問題。それを指摘して、採用された。
初めてのことだった。
条例集の背表紙に視線が落ちる。アルヴィンの書き込みが詰まった余白。彼もこの不備に気づいていた。気づいていて、一人では改訂できずにいた。
この仕事を続ければ、ここにいる理由ができる。でもその理由は、契約と委嘱状が作ったものだ。書類がなくなれば、理由も消える。
燭台の蝋が溶けて、甘い匂いが漂った。セレスティナは条例集を閉じ、改訂案の下書き用紙を広げた。考え込むのは後でいい。今は手を動かす。
翌朝。書庫の扉を開けると、ニコが中にいた。
公文書の整理作業をしていたらしく、棚から引き出した書類の束を床に広げている。セレスティナの姿を見て慌てて立ち上がり、深く腰を折った。
「お、奥方様。おはようございます。公文書の分類を——閣下に言われた整理がまだ途中で」
「おはようございます、ニコ。邪魔はしません、続けてください」
セレスティナが奥の棚に向かうと、ニコは腰を下ろして作業を再開した。しばらく紙を捲る音だけが続いた。
「あの、奥方様」
ニコの声には遠慮と好奇心が同じ割合で混じっていた。手元の公文書に目を落としたまま、顔だけをセレスティナの方に向けている。
「この書類なんですが。過去の婚姻契約に関する記録をまとめている綴りがあって、その中に名前が……」
セレスティナの手が止まった。
「ここに、元婚約者の方のお名前がありました。辺境伯閣下が以前調査された禁制品密輸事件の関連記録に」
ニコが差し出した公文書の綴りを受け取る。辺境領の公式記録として書庫に保管されていたもの。関連文書の欄に、見覚えのある家名が記されていた。七件目——禁制品密輸に関わっていた侯爵家の三男の名前だった。
「奥方様、これって——」
「ニコ」
セレスティナは公文書を綴りに戻し、そっと棚に戻した。指先は動揺を裏切らず、声も平坦を保っていた。
「この記録のことは、辺境伯閣下にご報告してください」
ニコの表情が変わった。好奇心が引っ込み、職務の緊張に置き換わる。「はい」と短く答え、綴りの位置を記録用紙に書き留めた。
セレスティナは棚に向き直り、改訂案の参考資料を探す作業に戻った。背中の向こうで、ニコの羽根ペンが走る音が続いている。
なぜアルヴィンの手元に、七件目の関連記録があるのか。辺境領の公務記録として存在するなら不自然ではない。だがその記録にわたしの元婚約者の名が含まれているという事実が、喉の奥に小さな棘のように引っかかったまま取れなかった。




