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婚約破棄はこちらから  作者: 月雅


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第2話「書庫の鍵」

雨の音が、石壁を伝って響いていた。


辺境領に来て二日目の朝。窓硝子を叩く水滴の向こうに、灰色の空が広がっている。王都ではありえない濃さの土の匂いが、隙間風に乗って寝室まで入り込んでくる。


セレスティナは寝台の端に腰かけたまま、昨日書庫で見た光景を思い返していた。付箋だらけの法令集。一人の筆跡で埋め尽くされた余白。あの量を、専門の文書官もいない領地で、独力で。


朝食の支度ができたと告げに来たマルタに従い、食堂へ向かった。


食堂は領主館の一階、執務室の隣にあった。長卓に二人分の食器が並んでいる。パンと干し肉、根菜の煮込み。質素だが温かい湯気が立ち昇っていた。


アルヴィンは既に席についていた。セレスティナが入室すると軽く頷き、視線を向けたが、それ以上の挨拶は口にしない。椅子を引く音だけが食堂に響いた。


煮込みを一口運ぶ。根菜の甘味が舌に残る。辺境の食事は素朴だが、素材の味が王都のそれより直截だった。


「昨日、東棟の書庫を拝見しました」


沈黙を破ったのはセレスティナだった。アルヴィンの手がパンを千切る動きを止め、灰色の目がこちらに向く。


「法令集に書き込みがありました。あれはクレイド辺境伯がご自身で」


「はい」


短い返答。否定もせず、言い訳もしない。パンを千切る動作が再開された。


「辺境では領主の判断で法令を変えられます。ただ、法令を読み解く者が領内にいない。だから自分で読んでいた」


その言い方には事実の報告以上の温度がなかった。だがセレスティナの耳には、付箋の数が代弁するものが聞こえていた。何年分もの夜。一人きりの執務室。法令の行間に滲む疲弊。


マルタが食堂に入ってきて、茶を注いだ。湯気の向こうでアルヴィンが立ち上がる。


「食後に執務室へ来てください。渡すものがあります」


執務室の机の上に、真鍮の鍵が置かれていた。


アルヴィンは窓辺に立ったまま、背をこちらに向けている。


「書庫の鍵です。婚姻契約に情報開示義務がある以上、領地の法制度と財務資料はすべて閲覧できます。自由に使ってください」


鍵を手に取った。ひんやりとした金属の感触が掌に残る。小さい。親指と人差し指で摘めるほどの大きさ。けれどこの鍵が開くのは、辺境領の法令のすべてだ。


「よろしいのですか」


「契約に基づく権利です」


アルヴィンは振り返らなかった。窓の外の雨を見ている。その背中は、何かを待っているようにも、何も求めていないようにも見える。


セレスティナは鍵を握ったまま、視線を上げた。だが言葉を継ぐ前に、アルヴィンの方が先に口を開いた。


「書庫の東側の棚に辺境領の現行法令があります。西側は王国法の写本です。どちらから読んでも構いません」


それだけ言って、彼は机に戻り、積まれた書類に目を落とした。会話は終わっていた。


書庫に向かう廊下で、マルタと行き合った。


「あら、奥方様。書庫へおいでですか?」


「マルタさん。少しお聞きしてもいいですか」


マルタは手にしていた洗い布を畳みながら足を止めた。エプロンの裾を無意識に撫でる仕草が、どこか落ち着かなさを滲ませている。


「クレイド辺境伯は、いつからお一人で法令を整理されていたのですか」


マルタの目尻の皺が深くなった。微笑みのようでもあり、何か別の感情のようでもあった。


「先代が亡くなられてすぐですから、もう五年になりますね。旦那様がお一人で全部やろうとしておいででした。法令だけじゃありません。領民の陳情も、税の計算も、警備の配置も。文書官もおりませんし、お側に仕える者も限られておりますから」


五年。二十二歳で辺境伯位を継ぎ、翌年には母も亡くし、以来ずっと。


「わたくしは家のことしかお手伝いできませんでしたけれど」


マルタの声が少し低くなった。手元の洗い布を畳む速度が上がっている。


「旦那様は頼み方をご存じないのです。人に頼ることを、覚える暇がなかったのでしょうね」


その言葉が廊下の石壁に吸い込まれる前に、セレスティナは手の中の真鍮の鍵を握り直していた。


書庫の東側の棚。辺境領の現行法令。


鍵を差し込み、錠前を回した。扉を開けると、埃と古い紙の匂いが一度に押し寄せてくる。昨日見た通り、棚一面に法令集が詰まっている。


最初の一冊を引き出した。「ローゼンハイム辺境領条例集 改訂第三版」。表紙は擦り切れ、背の革は罅割れている。


頁を開く。条文を一条ずつ追う。前の人生で身につけた読み方が、指先と目の動きに宿っている。主語、述語、適用範囲、例外規定。条文と条文の間にある空白——書かれていないことが何を意味するか。


三条目で手が止まった。


土地使用に関する条文。領民が農地を借りる際の手数料が定められているが、上限の規定がない。領主が任意の手数料を課すことが可能な条文になっている。現在のアルヴィンがこの条文を悪用している形跡はない。だが、条文として放置されていれば、将来誰が領主になっても悪用できる。


七条目。水利権。灌漑用水の優先順位が「領主の裁定による」としか書かれていない。旱魃が起きた場合、基準がなければ争いになる。


十二条目。商取引。辺境領内での売買契約に関する紛争処理が「領主の判断に委ねる」となっている。判断基準が条文に存在しない。


指先が条文の端を無意識になぞっていた。不正ではない。悪意でもない。ただ古い。この条例集は先代か、あるいはそれ以前の領主の時代に作られたもので、住民の権利を守る視点が欠落している。


窓の外では雨が続いている。水滴が硝子を伝う音が、紙を繰る音に混じる。


前の人生なら、これは行政の不作為と呼ぶ。住民に不利な条文が、悪意ではなく無関心によって放置されている状態。法テラスの窓口に立っていた八年間で、何度も見てきた構造だった。


棚の法令集を一冊ずつ確認したい衝動が指先から腕を駆け上がってくる。この領地の法令のどこに穴があり、誰がその穴に落ちうるのかを、全部知りたい。


だがその衝動を、別の声が押し返す。


ここはわたしの場所ではない。契約結婚で来たに過ぎない。法令の不備を指摘すれば、また同じことになる。正しいことを言えば人が離れる。十五回、繰り返してきたことだ。


条例集を棚に戻した。手が離れる瞬間、背表紙のアルヴィンの書き込みが目に入る。細かな字で書かれた注釈。彼もこの条文の問題に気づいていたのだろうか。付箋が挟まっているのは、まさにわたしが手を止めた頁だった。


夜。寝室。


窓の外の雨は止んでいた。月明かりが薄く差し込む中、セレスティナは寝台の上で婚姻契約書を開いていた。


昨日も確認した。不正はなかった。解除条項があり、同居義務があり、情報開示義務がある。


今夜確認したいのは、別の箇所だった。


条文を一条ずつ遡る。第十条、同居義務。第九条、情報開示義務。第八条、生活保障。第七条、解消時の財産分与。第六条以降——


ない。


通常の婚姻契約であれば含まれるはずの条項が、やはりどこにもなかった。愛情義務。貞操義務。感情に関する一切の条文が、この契約書には存在しない。


羊皮紙の手触りが指先に冷たい。昨夜は「後で確認する」と自分に言い聞かせた。確認した。結果は予想通りだった。


この人は、感情を契約の中に入れなかった。


それは配慮かもしれない。感情を強制しないという意思表示かもしれない。あるいは単に——感情が不要だから入れなかったのかもしれない。


どちらでも構わない。これは契約だ。契約には書かれていることだけが効力を持つ。書かれていないことは、存在しないのと同じ。


契約書を閉じた。革装の表紙に手を置いたまま、目を閉じる。


……手伝いたいと思ってしまった。書庫の法令を見て、マルタの話を聞いて、あの人が五年間一人で抱えてきた重荷の片鱗に触れて。条文の不備を直したいと思ってしまった。


それは義憤なのか。前の人生の職業病なのか。それとも——利用されるだけかもしれないのに、また同じ過ちを繰り返そうとしているのか。


寝台の脇の卓上に、真鍮の鍵が月光を受けて鈍く光っている。


翌朝。


朝食の席で、アルヴィンが口を開いた。煮込みの皿を脇に退け、一枚の紙を卓上に置く。公証人の形式で整えられた文面。署名欄が空欄のまま、セレスティナの前に差し出された。


「法制度整備の顧問を、正式に委嘱したい」


セレスティナの手が、皿に伸ばしかけたまま止まった。

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