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婚約破棄はこちらから  作者: 月雅


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第10話「この条文は」

十五件の婚約破棄は、すべてわたしからの解消だった。


執務室の机に、朝の光が斜めに差し込んでいる。窓の外では辺境領の森が初夏の緑に染まり始めていた。申立書を送付してから一月余り。季節が動いた分だけ、この部屋の空気も変わっている。


机上に茶器が二つ並んでいた。以前は一つだった場所に、いつからか二つ分の茶器が常備されるようになった。マルタが毎朝用意してくれる薬草茶の香りが、紙と革の匂いに混じって漂っている。


セレスティナは条例集の最終確認を進めていた。改訂案はすでに施行段階に入り、領内の役人への通達も完了している。今朝の作業は、新しい商取引紛争処理の裁定基準が実際の案件に適用された記録の確認だった。


「セレスティナ」


扉を開けて入ってきたアルヴィンが、名前を呼んだ。敬称なしの、ただの名前。数週間前に初めてそう呼ばれた時、指先が震えた。今は震えない。代わりに、呼ばれるたびに背筋がわずかに伸びる。自分でも気づかないほど小さな変化だった。


「おはようございます、アルヴィン」


返す声も、もう揺れなかった。アルヴィンが茶器の一つを手に取り、一口含んでから机の端に腰を預けた。その動作に以前の硬さはない。窓辺に立って背を向ける癖が、ここ数週間で消えていた。


「王都から書簡が届いた。ニコが今、封蝋を確認している」


声は平坦だった。だが茶器を置く指先が、ほんの一瞬だけ止まったことにセレスティナは気づいていた。


ニコが階段を駆け上がる足音が、廊下の石壁に反響した。


「辺境伯閣下、セレスティナ様。契約監査院からの公式書簡です」


ニコの声は上ずっていた。手にした封筒を両手で差し出し、姿勢を正している。以前は書類を手にするたびに指先が震えていた書記官見習いが、今は封筒を真っ直ぐに差し出せるようになっていた。


アルヴィンが封蝋を切った。中から羊皮紙が二通。一通目に目を通し、二通目に移る。灰色の目が紙の上を往復し、それからセレスティナに向けられた。


「監査院の審査結果が出ました。セレスティナの申立が全件認容されています。十五件すべての婚約契約に不正条項が含まれていたことが公式に認定された」


ニコが息を呑んだ。羽根ペンを握ったまま、記録用紙に書き込むことを忘れている。


「二通目は、貴族議会からの処分通達です」


アルヴィンが二通目の羊皮紙をセレスティナの手が届く位置に置いた。紙が木に触れる音が静かに響く。


「ヴィクトル・レーヴェンの議席剥奪。外交委員会からの排除。および、レーヴェン侯爵家に対する監査の開始決定」


ニコの手がようやく動いた。羽根ペンが記録用紙を走り始める。「議席剥奪」と書き込む音が、執務室の沈黙に規則的な拍子を刻んだ。


セレスティナは処分通達を手に取った。羊皮紙の手触りが指先に伝わる。議席剥奪。一年前、「呪いの女」と吐き捨てた声の主が、議会の席を失った。関税免除条項の不正を隠蔽するために流した噂が、公的記録によって覆された結果だった。


通達の文面を読み進めた。ヴィクトルの逆申立は証拠不十分により棄却。セレスティナの申立に基づき、十五件の婚約契約に含まれていた不正条項が公式記録として登録。レーヴェン侯爵家に対しては、息子の不正に対する監督責任を含めた監査が開始される。


胸の内に、復讐の熱はなかった。


通達を卓上に戻した。指先は冷えていない。視界も滲んでいない。ただ、羊皮紙の重みが掌に残っているだけだった。


「不正は不正でした。記録に残っただけです」


声は短かった。だがそれは感情に圧縮されたのではなく、言うべきことがそれだけだったからだ。


ニコが顔を上げた。目が赤くなっている。書記官見習いは唇を引き結び、何かを堪えるように記録用紙に視線を戻した。


アルヴィンは何も言わなかった。ただ茶器を手に取り、残っていた茶を一口で飲み干し、空になった茶器を机上に戻した。その動作の中に、言葉にならないものが含まれていることを、セレスティナはもう知っていた。


午後。ニコが席を外した後、執務室にはセレスティナとアルヴィンだけが残った。


窓から差し込む光の角度が変わり、壁の地図が暖かい色に染まっている。条例改訂の最終記録を整理していたセレスティナの手元に、アルヴィンがもう一通の封筒を差し出した。


「これは監査院の書簡に同封されていたものだ。宛名はあなた個人になっている」


封蝋は契約監査院のもの。だが書簡の形式が審査結果の通達とは異なっていた。紙質が上等で、文面の書体が丁寧に整えられている。


開封した。


「契約監査院は、クレイド辺境伯夫人セレスティナ殿に対し、常任監査官への就任を依頼する」


文面を二度読んだ。常任監査官。契約監査院の専門職。貴族間の契約を審査し、不正の有無を判定する役職。申立に基づく受動的な審査ではなく、能動的に契約を検証する権限を持つ。


指先が書簡の端をなぞっていた。前の人生の癖だ。考え込むと手が動く。


王都の機関への就任。それは辺境領を離れることを意味するのか。あるいは、辺境領にいながら王都の職務を兼ねる形式が可能なのか。書簡にはその詳細が記されていない。


アルヴィンの視線が書簡の上にあった。内容を読んだかどうかは分からない。だが宛名を見た時点で、その意味に気づいていないはずはなかった。


「急いで返答する必要はない」


アルヴィンの声は静かだった。結論を先に述べるいつもの話し方ではなく、言葉を選んでいる間合いがあった。


セレスティナは書簡を卓上に置いた。その上に、婚姻契約書が見えた。執務室の抽斗にしまってあったものを、条例改訂の最終記録と一緒に出していたのだった。


契約書の最終頁を開いた。解除条項。第十二条。「本契約に異議がある場合、当事者はいつでも本契約を解消できる」。辺境領に来た最初の夜に確認した条文。あの時はこの条項の意図が分からなかった。逃がすためか。試すためか。


今は分かる。この条文は、わたしが自分の意思でここにいることを選ぶためのものだった。使わなかった。使う理由がなかったからではない。使わないことを、選んだからだ。


指先が条文の上を滑った。羊皮紙の手触りが、最初の夜とは違って感じられる。あの時は冷たかった。今は、紙の温度が指先と同じだった。


「この条文は、もう使いません」


声に出ていた。唇の端がわずかに持ち上がっている。自分で気づいた時には、もう戻せなかった。


アルヴィンが椅子から身を起こした。机を回り、セレスティナの隣に立った。一歩分の距離。あの夕暮れの執務室で縮まった間合いが、今ではこの部屋の中の定位置になっている。


手が伸びてきた。契約書の頁を閉じるのではなく、その上に置かれたセレスティナの手に、指先が触れた。一瞬の接触。それだけで体温が伝わった。


アルヴィンが茶器を手に取り、空になっていることに気づいて棚に戻した。代わりにマルタを呼ぶために扉に向かいかけ、足を止めた。振り返り、セレスティナの隣の椅子を引いて腰を下ろした。


机上に、監査官就任依頼の書簡が置かれたままになっている。返答はまだ先でいい。今はこの執務室に、二つの茶器と、条例集と、閉じられた契約書がある。窓の外で風が森を揺らす音が聞こえた。


セレスティナは新しい商取引記録を手に取り、頁を開いた。隣でアルヴィンが積まれた書類に手を伸ばす衣擦れの音が、紙を繰る音に重なった。


(完)


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