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婚約破棄はこちらから  作者: 月雅


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第1話「最終頁の署名」

契約書を開いた。


馬車の揺れが止まってからまだ間もない。荷を解く音が遠くに聞こえる中、セレスティナ・ヴァイルは案内された客間の椅子に腰を下ろすより先に、卓上に置かれた革装の書類綴じへ手を伸ばしていた。


ローゼンハイム辺境伯領。王都から早馬で十日。主要な交易路からも外れた東端の領地。その領主館は、子爵家の屋敷よりさらに小ぶりで、廊下ですれ違った使用人の数は片手で足りた。


背表紙の金文字を親指でなぞる。「婚姻契約書 ローゼンハイム辺境伯家・ヴァイル子爵家」。十六回目の婚約。そして十六人目の相手。


最終頁を開いた。


前の人生でもこうだった。契約書は末尾から読む。解除条項を確認する。八年間、法テラスの窓口で何百件もの書類を検分してきた指が、今はこの世界の羊皮紙の上を走っている。


解除条項、第十二条。「本契約に異議がある場合、当事者はいつでも本契約を解消できる」。


指が止まった。


いつでも。条件なしに。正当事由の列挙もなく、違約金の算定もなく、審査期間三十日の免除すら明記されている。こんな条項は十五件の婚約契約書のどこにもなかった。


呼吸をひとつ整えて、最終頁の署名欄に目を移す。公証人の承認印。辺境伯家当主の署名。日付。すべて正規の手続きを踏んでいる。


頁を遡る。前から読み直すのではない。末尾から逆順に、条文の主語と述語の対応を確認していく。第十一条、財産分与。第十条、同居義務。第九条、情報開示義務——領地の財務情報を配偶者に開示する義務。第八条以下、通常の婚姻契約に見られる条項が整然と並んでいる。


埃っぽい客間の空気に、遠くから薪の爆ぜる音が混じった。窓の外は既に暮れかけている。


条文の主語が途中で変わっていないか。義務の帰属先が曖昧にされていないか。片方だけに不利な免責条項が紛れ込んでいないか。十五件の契約書には、必ずどこかにそれがあった。相続権を隠す文言。税の二重取りを可能にする抜け穴。禁制品の輸送ルートを合法化する条項。関税免除を偽装する附則。


この契約書には、なかった。


三分もかからなかった。全条文の検証を終えたセレスティナは、契約書を卓上に戻した。指先がわずかに冷えている。不正がない。十五件で一度もなかったことが、十六件目で起きている。


ただし、もうひとつ——ないものがあった。


感情に関する条項が、どこにもない。通常の婚姻契約であれば含まれる貞操義務も、愛情に類する文言も。それは後で確認すればいい。今はまだ、この契約書が法的に正当であるという事実だけを受け止める。


「……初めてです」


声が震えていた。自分で驚くほど小さく、けれど確かに唇から漏れた。


客間の扉が、控えめに叩かれた。


「失礼いたします。旦那様がお待ちです」


扉を開けたのは、白髪交じりの髪をきちんと束ねた女性だった。エプロンの裾に手を添え、深く腰を折る。


「ヘルツ家政長と申します。お館のことは何でもお申し付けくださいませ、奥方様」


五十代半ばだろうか。声には落ち着きがあり、目尻の皺が穏やかな印象を作っていた。


「マルタさん、とお呼びしてもよろしいですか」


「もちろんですとも」


マルタは微笑み、廊下へ先導した。その足取りに迷いがない。この人はこの館を隅々まで知っている。


「旦那様は執務室におられます。十五回目のお嫁入りなのだと聞いておりますが——」


「十六回目です」


セレスティナは訂正した。静かに、事実だけを述べる声で。


マルタの歩みが一瞬だけ遅くなった。それから振り返らずに「まあ」と短く応じ、何事もなかったように歩き続けた。


「旦那様がお茶の支度をしておいてくれと申しておりました。長旅でお疲れでしょう?」


廊下は薄暗く、壁燭台の灯りが揺れている。石造りの壁は冷たく、王都の屋敷とは空気の質が違った。乾いていて、かすかに木と土の匂いがする。


執務室の前でマルタが足を止め、扉を二度叩いた。


「奥方様をお連れいたしました」


「入ってもらってください」


低い声が返った。扉越しでも輪郭のはっきりした声だった。


執務室は広くなかった。


窓が一つ。机が一つ。書棚が壁の二面を占め、残る壁には辺境領の地図が掛かっている。そして机の前に、一人の男が立っていた。


アルヴィン・クレイド。ローゼンハイム辺境伯。二十七歳。


黒に近い濃紺の髪を短く刈り、灰色の目がまっすぐにこちらを見ている。長身だが威圧感があるわけではない。ただ、背筋が極めて正しい。机の上には茶器が二組、既に並べられていた。


セレスティナは一歩入って立ち止まり、作法通りに腰を折った。


「ヴァイル子爵家三女、セレスティナ・ヴァイルです。このたびはご縁をいただき——」


「契約書は読まれましたか」


遮られた。ただし声に苛立ちはなく、結論を先に求める話し方だった。


「はい、クレイド辺境伯。全条文を確認いたしました」


アルヴィンの視線が一瞬だけ細くなった。客間に書類を置いてからまだ間もない。それだけの時間で全条文を、という計算が頭の中を過ぎったのかもしれないが、彼はそれについて何も言わなかった。


代わりに、卓上の茶器に手を伸ばした。自ら湯を注ぐ。家政長がいるにもかかわらず、自分で。


「不備がありましたら、署名の前に申し出てください。修正します」


「不備はありませんでした」


アルヴィンの手が、注ぎかけた湯気の向こうで止まった。一拍。それから何事もなかったように注ぎ終え、茶器をセレスティナの側に置いた。


「……そうですか」


その短い返答の中に、何かが含まれていた。安堵とも確認とも違う、もっと静かなもの。セレスティナには読み取れなかった。


ただ、この人は不正のない契約書を出した。十五件で初めての相手だった。それだけが事実として手の中にある。


「署名します」


セレスティナは契約書を開き、当事者署名欄に名前を記した。羽根ペンの先が羊皮紙を引っ掻く音だけが執務室に響いた。


アルヴィンは署名を確認し、小さく頷いた。それ以上の言葉はなかった。茶の湯気が二人の間で細く立ち昇り、木と紙の匂いに混じって消えた。


王都。レーヴェン侯爵邸の書斎。


ヴィクトル・レーヴェンは、届いたばかりの書状を二度読んだ。


契約監査院の封蝋。形式的な書簡。だが文面は形式的ではなかった。「貴殿の関税免除申請に関し、添付資料との齟齬について確認を求める」。


握りしめた紙の端が皺になった。


あの女だ。一年前に婚約を破棄した子爵家の三女。関税免除条項の不備を指摘してきた、あの——


「……呪いの女が」


吐き捨てた声は書斎の壁に吸い込まれ、誰にも届かなかった。


ヴィクトルは書状を机に叩きつけ、父の書斎へ向かった。廊下を歩く靴音が、苛立ちの拍子を刻んでいる。


監査院は受動的な機関だ。申立がなければ動かない。だが書状が来たということは、誰かが動いたということだ。


あの女はもう王都にいない。辺境の誰とも知らない領主に嫁いだと聞いた。ならばこれは——あの女が残した指摘の残滓か、それとも別の誰かが掘り返したのか。


いずれにせよ、父に報告しなければならない。侯爵家の名に傷がつく前に。


辺境伯領の領主館。夜。


セレスティナは客間に戻り、荷を解いていた。着替えの衣類は最低限しかない。持参金は体裁を整える程度の額だった。ヴァイル子爵家にとって、「呪われた令嬢」の嫁入りとはその程度のものだった。


契約書を再び手に取った。


解除条項を指でなぞる。「いつでも解消できる」。この文言を入れた人間の意図が分からない。逃がすためか。試すためか。それとも——


書類の端を指先が無意識になぞっていた。前の人生の癖だ。考え込むと手が動く。


この契約書には不正がなかった。それは事実。解除条項は法的に有効。それも事実。そして感情に関する条項がない。貞操義務も、愛情義務も。つまりこれは、徹頭徹尾、契約でしかない。


それでいい。わたしが求められているのは、契約に記された義務を果たすこと。それだけのはずだ。


荷の底から最後の衣類を取り出した時、指が何かに触れた。固い表紙。辺境領の案内に添えられていた領主館の見取り図。その裏面に、小さな書き込みがある。


「書庫——東棟二階」


マルタの丸い文字だった。見取り図を渡す際に書き添えてくれたのだろう。


明日、見に行こう。それだけ決めて、セレスティナは灯りを落とした。


翌朝。東棟二階への階段を上がると、書庫の扉は施錠されていなかった。


中に入って足が止まった。


壁一面の棚に並ぶ法令集。辺境領の条例、王国法の写し、過去の領主裁定の記録。その多くに付箋が挟まれていた。書き込みだらけの余白。条文に引かれた線。頁の端に走り書きされた注釈。


筆跡は一種類だった。整った、しかしどこか急いた文字。署名欄で見たものと同じ——アルヴィン・クレイドの手だった。


一人で全部やろうとしていた。法令の整備を。この膨大な量を、専門家もいない辺境で、独力で。


セレスティナは棚の前に立ったまま、付箋だらけの法令集の表紙に指を置いた。

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