春を待つ猫
一人と一匹で春を待つ穏やかな時間。
老婦人と猫のやさしいお話。
1.
にゃおん、と猫は鳴きました。窓の下にご主人様が見えたからです。白い帽子に淡いベージュのカーディガン。猫は嬉しくて、にゃおん、ともう一度鳴きました。それから思わず、窓の枠を爪でカリカリ引っ掻きました。
この小さなアパートは、お日様の出ているうちはしんと静まり返っています。猫は日向ぼっこや、しっぽ遊びや、ねずみ取りが大好きだったので、小さな部屋にぽつんと残されても寂しくはありませんでした。それでも、たまにこうしてご主人様がお昼に帰ってくると、やっぱり嬉しいのです。そういう日は、たいていご主人様にうんと遊んでもらえます。
猫は玄関へ行き、ドアの前に座りました。ゆっくりとした足音が近づいてきます。やがてそうっとドアが開いて、腰の曲がった老夫人が入ってきました。「にゃおん」。猫は思わず一声鳴いて、その足元に擦り寄りました。ただいま、いい子にしてたかい?もちろん、いい子でしたとも。誇らしげな猫を、やはりゆっくりとした動作で抱き上げて、老夫人はひとつキスをくれました。お返しに、猫は老夫人の鼻の頭をざらりとした舌で舐めます。そうすると、この老夫人は少女のようにくしゃりと笑うのです。自分を拾ってくれたときから変わらないその顔が、猫は大好きなのでした。
2.
キィ、と小さな音を立てて部屋に入った老婦人は、窓の枠に残った爪の跡を見て少し眉を寄せました。それから猫の肉球をつついて、その爪の鋭さを確かめます。駄目だって言ってるのに、これだけは直せないのね。猫がもう一度その鼻を舐めると、老夫人はそっと笑って許してくれました。どうせ、この部屋は彼女のものなのです。ずっと昔、彼女の恋人だった青年が、彼女にこの建物をくれたのでした。
カーテンを開けると、うららかな日差しが部屋に差し込んできます。まだ春が半分眠っているような、やわらかな光です。猫のお皿に缶詰をあけると、老夫人は卵を茹でました。それからうすく切られたバゲットにバターを塗り、熱すぎないコーヒーを入れます。バターが欲しいの?にゃおん。仕方がないわね。そう言いながら、彼女はいつもバゲットのいっとうやわらかいところを猫にくれます。猫の鼻がひくひく動くのを見ると、そうせずにはいられないのです。深い緑の瞳を持っていた彼も、よくこうしてくれていたものでした。
バゲットを食べ終えて、口の周りをぺろぺろと舐めながら、ようやく猫は缶詰に鼻先を近づけました。それを見てから、老夫人はやっと自分のバゲットに手を伸ばすのでした。
昼食を終えると、老夫人は揺り椅子に腰かけて編み物を始めました。猫はカーペットに寝そべり、前足に顎をのせます。編み物をしているとき、彼女が自分を抱いてくれないことを知っているからです。皺の刻まれた手はゆっくりと、けれど着実に針を動かていきます。老夫人はとても器用で、帽子やセーターや靴下や、ときには小さなぬいぐるみさえ、毛糸と針で作り出してしまいます。
3.
ゆっくりと揺り椅子に揺られながら、老婦人は茶色いセーターを編んでいました。ズボンのポケットに手を突っ込んで震える彼に、彼女が初めてプレゼントした、冬の色をしたセーターです。もうずっと長いこと、老夫人はそのセーターを編み続けているのでした。このセーターができあがったら、彼女はそれを腕に抱えて、彼のところへ行くのです。猫はそれを、今か今かと待ち望んでいるのでした。
カーテンの向こうでは、音もなく春が巡っていきます。もうすぐ老夫人は玄関のドアを開けて、猫と一緒にそこに行くのでしょう。
猫は十年生きたら化け猫になるっていうけれど、お前はどうなの?にゃおん。もう少しでできあがるわ、待っててね。にゃおん。
墓標にお花をあげてきたの、あの人も待ってくれているみたい。もう何度目の春かしら。私たちの春よ。
やがて老夫人はゆっくりと立ち上がりました。その腕には、できあがったばかりの冬色のセーターが抱えられています。猫が顔をあげると、ドアベルの向こうで彼がほほえんでいました。
猫が老夫人の肩に飛び乗ると、古い時計が時間外れの鐘を打ちました。
春です。幸せな夫婦とその猫は、吸い込まれるように、穏やかな光の中へと消えていったのでした。
二人と一匹は、春のひだまりの世界でずっと一緒です。




