世界を救うための、不死の正しい使い方
世界が壊れ始めていることを、人々は直感で理解していた。
誰かが声を上げたわけではない。
予言が下ったわけでもない。
ただ、生活の隙間に、説明のつかない違和感が溜まり続けていた。
昨日まで確かに覚えていたはずの出来事が、今日になると曖昧になる。
何度も通った道を、初めて歩くような気がする。
名前を呼ばれた気がして振り返っても、誰もいない。
世界は、少しずつ「前提」を失っていた。
それは災害ではなかった。
炎も、地震も、疫病もない。
ただ、意味が削られていく。
人々はそれを「綻び」と呼んだ。
どこかに穴がある。
見えないが、確実に存在している穴だ。
そこから、時間や因果や記憶が、音もなくこぼれ落ちている。
放っておけば、世界は世界でなくなる。
形を保てなくなる。
救う方法は、すでに示されていた。
世界の綻びは、同じ位相を持つものでしか塞げない。
石では軽すぎる。
魔力では不安定すぎる。
祈りでは届かない。
必要なのは、人の命だった。
だが、一度では足りない。
綻びは生き物のように呼吸し、常に広がろうとする。
塞いでも、同じ場所からまた裂ける。
傷口は癒えず、ただ押さえつけられているだけだ。
だから必要だった。
死に続けられる存在が。
その結論に辿り着くまで、時間はかからなかった。
感情を挟む余地は、ほとんどなかった。
彼女は、不死だった。
魔女と呼ぶ者もいた。
魔物と呼ぶ者もいた。
だが、どちらも正確ではない。
彼女はただ、死なない。
殺せば死ぬ。確かに死ぬ。
だが、必ず生き返る。
老いず、変わらず、終わらない。
迫害はされていなかった。
だが、共に生きられてもいなかった。
彼女は町の中にいたが、町の一部ではなかった。
人々は彼女を見て、見ないふりをした。
害ではないが、祝福でもない。
説明のつかない存在。
だからこそ、世界の綻びに「適合」した。
誰かが名を挙げる必要はなかった。
誰かが責任を負う必要もなかった。
沈黙の中で、結論だけが共有された。
――彼女なら。
だが、その言葉は誰の口からも出なかった。
代わりに、判断そのものが彼女に委ねられた。
私は、その場にいた。
決定権はない。
だが、立ち会っていた。
止めることも、異議を唱えることも、理屈の上では可能だった。
私は、何もしなかった。
彼女も、しばらく黙っていた。
「……誰にも必要とされなかったから」
小さな声だった。
言い訳のようでもあり、独り言のようでもあった。
「でも、もし私が世界を救えるなら……
生まれてきた意味が、できるでしょう」
それきり、彼女は何も言わなかった。
ただ、一歩前に出た。
その一歩が、すべてを決めた。
彼女は、世界の綻びに封じられた。
そこは内でも外でもない。
時間が進まず、戻らず、意味を持たない場所。
彼女の姿は、誰の目にも映らない。
声も届かない。死の瞬間すら、出来事にならない。
彼女は、そこで死に続ける。
世界が壊れようとするたび、
意味が抜け落ちかけるたびに、
彼女はそこで何度でも死ぬ。
いつか、彼女は言っていた。
毎回、最初の死と同じ感触で、慣れることはない。
そして必ず、戻る。
不死とは、そういうものだった。
世界は、安定した。
空は崩れず、地は裂けず、人々は眠り、朝を迎えた。
昨日と同じように、今日が始まる。
人々は感謝した。
「救われた」
「彼女のおかげだ」
「ありがたいことだ」
言葉はあった。
だが、それ以上はなかった。
生活は、すぐに戻ってきた。
畑は耕され、商いは再開され、子どもは生まれ、老人は死んだ。
私は、その世界で生きている。
彼女が見えない世界で。
彼女が死に続ける世界で。
最初のうちは、世界はまだ彼女を覚えていた。
綻びの近くには、人が集まった。
封じられた場所には何も見えない。ただ、空気の重さだけが違う。
そこに立つと、言葉が喉につかえるような感覚があった。
人々は花を供え、酒を注ぎ、短い祈りを捧げた。
誰も彼女の名を呼ばなかったが、呼ばなくても分かっている、という前提があった。
「彼女のおかげだ」
その言葉は、何度も繰り返された。
世界が今日も壊れていない理由として、もっとも分かりやすく、もっとも安全な言い方だった。
感謝は本物だったと思う。
少なくとも、その場にいる間は。
だが、感謝は長く続くものではなかった。
世界は、あまりにも何事もなく回り続けた。
空は崩れず、地は裂けず、朝になれば人は目を覚まし、夜になれば眠った。
綻びが広がる兆しは、表には出なかった。
彼女は、役割を果たしていた。
それ以上でも、それ以下でもない。
数年が経つころには、綻びの場所を訪れる人は減っていた。
理由は単純だ。
忙しくなったのだ。
暮らしが戻り、やるべきことが増え、明日の予定が積み重なっていった。
祈りは短くなり、やがて省略された。
供え物は形式的なものに変わり、いつしか置かれなくなった。
それでも、誰も悪意を持ってやめたわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、当たり前になってしまったのだ。
私は、その変化を見ていた。
綻びの場所に立ち会う役目は、形式として残っていた。
定期的に人が集まり、異常がないかを確認する。
だが、確認できるものは何もない。
見えないものを見て、起きていない出来事を確かめる。
その行為自体が、次第に形骸化していった。
彼女は、そこにいる。
私は、それを知っている。
だが、世界は知らなくても困らない。
ある日、若い者が言った。
「昔、世界が危なかった時代があったらしいですね」
それだけだった。
そこに、彼女の話は含まれていなかった。
彼女が今も死に続けていることは、世界にとって必要な情報ではない。
それは悪意ではない。
私も、通常通りの生活を送っていた。
朝、目を覚ます。
水を飲み、服を着て外に出る。
夜には布に身を沈める。
目を閉じるとき、世界が壊れるかもしれないという恐怖は、もうない。
朝になれば、昨日と同じ世界があると、疑いなく思える。
安心して眠れるという事実が、私を生かしていた。
そして同時に、それが私を静かに追い詰めていた。
彼女は、その間も死に続けている。
世界がわずかに軋むたび、
意味が抜け落ちかけるたび、
彼女は綻びの中で、何度も命を失う。
その死は、誰にも見られない。
誰にも数えられない。
世界の側から見れば、何も起きていないのと同じだ。
私は、それを知っている。
世界そのすべてが、彼女の死の上に成り立っている。
私は、ときどき考える。
彼女は、本当に世界を救いたかったのだろうか、と。
彼女は、世界を愛していたわけではない。
絶望していたわけでもない。
ただ、誰かを犠牲にして生きる側になりたくなかった。
誰かを犠牲にして生きる側になりたくなかった彼女の選択は、
結果として、世界全体が彼女を犠牲にして生きる形を作った。
誰も悪くない。
誰も強制していない。
誰も間違っていない。
正しさだけが、ここにある。
私は、ときどき思う。
もし彼女が、あのとき一歩踏み出さなかったら。
だが、それは起きなかった。
起きなかった出来事は、想像の中にしか存在しない。
現実は、彼女が選び、世界がそれを受け入れ、私が生きている。
それだけだ。
時折、綻びの場所から離れた場所で、子どもたちが遊ぶのを見る。
彼らは世界の終わりを知らない。
不死の存在も、犠牲の構造も、何も知らない。
それでいいのだと、世界は言うだろう。
それが、正しい使い方なのだと。
私は、何も言わない。
言葉にする必要はない。
世界は、すでに完成している。
今日も、綻びは表に現れない。
今日も、空は崩れない。
今日も、人は眠り、目を覚ます。
彼女が、見えない場所で死に続けている限り。
世界は救われている。
誰も間違っていない。
誰も罰せられない。
そのすべてを知った上で、私は生きている。
そして、そうして生き続けることが、
彼女の選択を肯定し続けることになる。
彼女の望みは叶ったのだ。




