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水の底から

作者: あい太郎

事故の記憶は、霧のように消えていた。

 咄嗟のブレーキ音、白く染まる視界、そして水音――。

 目を覚ましたとき、私は病院のベッドの上だった。医師は軽度の脳震盪だと言ったが、頭の奥にはぽっかりと空洞があり、過去が漏れ出していた。


「お前、事故の前によく“あの池”に行ってたらしいぞ」


 幼馴染の陽一がそう言った。“あの池”とは、私の地元にある「鏡池」のことだ。

 村の外れにある小さな池で、まるで人工のように楕円形をしており、水面は一年中、異様に静かだ。

 子どもの頃から「夜に覗くと自分の死に顔が見える」と言い伝えられ、誰も近づかない。だが――。


「ほんとに行ってたのか? 俺、覚えがないんだけど」


「夜中に一人で何度も行ってたって。婆さん連中が気味悪がってた」


 その言葉に引っかかりを感じながらも、私は確かめずにはいられなかった。



 その夜、私は懐中電灯を片手に、鏡池へと向かった。

 梅雨時の夜の山道はぬかるみ、靴の裏に泥が絡みつく。葉の先から雫が滴り、ぽつ、ぽつ、と時間のように音を刻んでいた。


 鏡池は、まるで時間から切り離された空間のように、静まり返っていた。

 月は雲に隠れ、懐中電灯の明かりだけが池の表面を照らす。

 私の姿が、水面に映る。


 だが、その“私”は、どこか違っていた。


 顔色が青白く、髪が濡れて張り付いている。目の下には深い隈があり、唇が紫に染まっている――そう、それは“死んだ私”だった。


 背筋が凍りついたそのとき、水面の“私”が、ふいに微笑んだ。


 ――にやり、と。


 私は咄嗟に後ずさり、足を滑らせて転倒した。

 草の匂いと泥の感触、そして胸の高鳴りが同時に襲う。だが、水面に目を戻すと、そこにはただ波紋が広がっているだけだった。


「……見間違いか?」


 そう自分に言い聞かせ、立ち上がる。だが、風もないのに波紋が止まらない。

 そのとき、背後から“ぐしゅ、ぐしゅ”と濡れた足音が聞こえた。


 振り向くと、誰もいない。

 だが、再び池を見ると、私の背後に“もう一人の私”が立っていた。――水に濡れた、あの“死んだ私”が。


「ようやく来たね」

 それは、鏡の中の私が口を動かした瞬間だった。



 それからというもの、私は夢の中で鏡池に立っていた。

 毎夜、毎夜。池の前に立ち、あの濡れた私と向き合う。


「思い出して。お前は――もう一度、死んだんだよ」

 水面の“私”が囁く。


 夢の中で、断片的な記憶がよみがえる。

 夜、車を走らせる私。助手席に誰かがいる。……女だ。

 彼女が泣いている。叫んでいる。

 ――「戻ってよ! お願い!」

 そしてブレーキ、衝突、落下……水の中へ――。


 ああ、そうだ。

 事故では、私一人が助かったと思っていた。だが違う。

 私は、水の底から“引きずり出された”のだ。



「戻る時間だ」


 夢の中、池の底から無数の腕が伸びてくる。濡れて、白くて、冷たい指。

 私は逃げられない。


 そして、目を覚ますと、枕元に濡れた足跡が続いていた。

 玄関まで、廊下を、池の方へと。



 数日後、村の川で私の車が引き上げられた。

 運転席には、変わり果てた私の遺体があったという。

 顔は、水に濡れたまま、にやりと笑っていた。


 ――私は、誰だったのか?

 池のこちら側にいるこの存在は、本当に“生きている私”なのだろうか。

 それとも――“引き替え”に残された、ただの抜け殻なのか。


 今日もまた、夢の中で鏡池が私を待っている。

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― 新着の感想 ―
増え続ける『私』!?Σ(゜Д゜) まるで合わせ鏡のように──
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