里説:蝕みの声
この「蝕みの声」は、ある寒村に伝わる古い語りのひとつ。語り手の五代も六代も前から口伝えで語り継がれてきたものとされています。
これは「誰か」が確かに存在した、かもしれないという物語です。
──峠の向こうから来た、声なき旅人の話じゃよ。
……おやおや、声は大事にのう、坊や。
声はな、魂のひとひらじゃ。
昔むかし、わしの曾祖母の、さらにそのまた祖母の頃のことじゃ。
ここより北、峠を越えた先の村でな――
そりゃあもう、奇妙な災いが起こったそうな。
「声を喰う霧」――そう呼ばれたもんじゃ。
ある日、村一帯が、音もなく、その霧に呑まれてのう。
言葉を発した途端、霧が……まるで聴いておるかのように、ぬうっと寄ってきて喰らいつく。
泣いた子は見る間に痩せ、叫んだ母は、声を失うて倒れた。
喋れぬ、笑えぬ、祈ることすらできぬ夜が……十三も続いたんじゃと。
けれどな、十三の夜――月も隠れた晩に、一人の旅人が村へ現れたそうな。
あんたくらいの背丈でな、男か女かも分からぬ、風変わりな風情じゃったという。
喉もとに、ほやほやと淡く光る石を宿しておっての……
それが霧に応じるように、かすかに、ふるふると震えておったと聞く。
旅人は何も言わず、霧のただなかへと、すうっと分け入っていった。
止める者もおったがのう、そやつは振り向きもせず、ただ……静かに、声を放った。
……それはな、言葉というより、祈りに似た詩のようじゃった。
ふわりと響いて、しんしんと沁みてのう……
その声に、霧が呻いたんじゃよ。うう……ああ……と、まるで苦しむようにな。
そして、やがて霧は薄れ、空へと昇り、跡形もなく消えてしもうた。
その途端、村には声が戻った。
赤子は泣き、寺の鐘が鳴り、人々は泣き笑うた。
けれど旅人の姿は、どこにも見当たらなんだ。
ただ、朝もやの中を、ひとり峠の向こうへと去っていったそうな。
……その後のことじゃ。
都の賢き者らが言うたそうな――
「声ひとつで、災いを蝕む術がある」とのことじゃ。
じゃが、その名も、出自も、誰も知らぬ。
ただ、あのとき声に救われた者たちは、今もこう呼ぶんじゃ。
「蝕みの声を持つ、峠の向こうのひと」──とな。
さぁて、夜も更けたかのう。
喋りすぎたわい。声は大事にの、坊や。
出しすぎると……どこかの霧に喰われてしまうぞぉ……?
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記録分類:第四領域 幻淵殿/幻心庵所蔵
記録名:寒村伝承〈声霧異変〉聴取記録 第零参参柒号
記録形態:里説語り(推定語り手:老女・氏名未詳)/時期不定(五代前口承)
収集者:嘉印(仮装出現・実名伏伏)
備考:本事例は、精神干渉及び記憶異常の可能性を有するものとして、幻心庵にて精査・保管されている。
記録の形式をとってはいますが、これは一つの「語り」として、誰かの声によって語られ、聞かれ、受け継がれていくものです。
そう思うと、この話をいま読んでくださったあなたも、すでにその一端に触れているのかもしれません。