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『永劫より長く』

作者: 小川敦人

『永劫より長く』


宇宙歴138億年。

銀河の果て、惑星アーサに最後の人類、アルマは佇んでいた。人類はとっくに滅び、彼だけが残っていた。だが彼は恐れていなかった。なぜなら、彼は知っていたのだ──人類が生まれて以来、積み重ねた人生の時間の総和が、すでに宇宙の時間を超えていたことを。

彼は宇宙の年齢を知るAIクロノスに問いかけた。

「なあ、クロノス。人類は消えたけれど、僕らが生きた時間の総和は宇宙の年齢を超えているんだろう?」

《クロノス》の電子音が応える。

「計算の結果、総人生時間は五兆年を超過。宇宙の年齢、百三十八億年を凌駕。よって、人類は宇宙より長く存在したと言える」

アルマは静かに微笑んだ。

「なら、宇宙より長く生きた僕らの思い出は、宇宙よりも重たいってことだよな?」

「論理的には肯定可能。ただし、物理的証拠はなし」

「証拠なんていらないさ」

アルマは空を見上げた。かつて人類がいた地球はすでに塵となり、銀河の波に消えた。しかし、数えきれない人々が生きた時間は、宇宙そのものよりも長い。その記憶がある限り、人類は消えない。

彼は宇宙船のスイッチを押した。最後の旅路だ。

「行こう、クロノス。僕たちの記憶が、宇宙の果てまで届くか試してみよう。」

《クロノス》は静かに応えた。

「承認。人類の時間を宇宙の果てへ拡張」

エンジンが燃え上がり、宇宙船は光となって消えた。

人類が積み上げた時間、その総和は宇宙の限界を超え、やがて新しい時代を生むだろう──それが、宇宙そのものよりも長く生きた者たちの、最後の足跡だった。


宇宙の暗闇を貫いて、アルマの船は光の速さで進んでいた。彼の周りで、《クロノス》のシステムが静かに作動している。

船内に広がるホログラムには、過去の地球、そして人類の記憶が無数に浮かんでいた。

「クロノス、人類の記憶をもう一度見せてくれ」

《クロノス》の声が応える。

「了解しました。どの時代からご覧になりますか」

「最初から…人類が初めて言葉を持った頃から」

ホログラムが変化し、原始の地球の風景が現れた。洞窟の中で火を囲み、互いに言葉を交わす初期の人類。その言葉には恐れと希望が混在していた。

「彼らは命の短さを知っていたんだな」アルマはつぶやいた。

「肯定。平均寿命は30年未満。しかし、彼らの時間認識は現代人とは異なる」

画面は移り変わり、古代文明の姿が映し出された。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河。それぞれの文明で人々は生き、死に、そして何かを残そうとしていた。

「彼らは永遠を信じていたんだ。自分たちの短い命が、何か大きなものの一部だと」

《クロノス》のデータバンクから古代の祈りの言葉が流れ出た。永遠を求める声、死後の世界への願い、そして来世への希望。それらの声は、たとえ肉体は滅びても魂は続くという普遍的な願いに満ちていた。

「人間は常に自分の命より長いものを求めていたんだな」

「肯定。それが人類の特性。自己を超えた継続性への渇望」

アルマは窓の外を見た。そこには無限に広がる宇宙の闇。しかし彼の中には、人類全体の記憶という光があった。

「クロノス、人類史上の苦しみの総量を計算できるか?」

《クロノス》は一瞬処理を行い、答えた。「不可能。苦しみの質的側面は数値化困難。しかし近似値としては…宇宙の全恒星のエネルギー出力に匹敵」

「そして幸福は?」

「同様に計測不能。ただし、データ分析によれば、苦しみと幸福は常に共存。比率ではなく、相互関係として存在」

ホログラムは中世の時代へと移った。疫病で苦しむ人々、戦争で荒廃した土地、そして絶望の中にも咲く小さな希望の花。修道院で写本を書き写す僧侶、市場で笑い合う人々、祭りで踊る若者たち。

「矛盾してるよな。こんなに苦しみながら、人は笑うことができた」

《クロノス》は静かに応えた。「それが人類の特異性。論理的矛盾を内包しながら存在可能な唯一の生命体」

映像は近代へと進み、産業革命の煙突から立ち上る煙、植民地化される大陸、二つの世界大戦の惨禍が映し出された。そして、それと並行して、芸術の爆発的発展、科学の飛躍的進歩、人権思想の広がりも見えた。

「同じ時代に、最悪のことと最高のことが同時に起きている」

「肯定。人類の時間は直線的ではなく、多層的。一人の人間の中にも、無数の時間が流れていた」

アルマは自分の手のひらを見つめた。人類最後の手。しかし、その血の中には、すべての先祖の記憶が眠っていた。

「クロノス、一人の人間の記憶容量はどれくらいだ?」

「平均的人間の生涯記憶容量は約2.5ペタバイト。人類全体では、約2.5ペタバイト×約1080億人」

「宇宙全体の原子の数よりも多いな」

「肯定。人類の記憶の総量は、物理的宇宙の構成要素を上回る」

ホログラムは現代から未来へと移り、宇宙進出の時代、星間移民の波、そして最後の文明の崩壊までを映し出した。地球が太陽に飲み込まれ、人類の故郷が消滅する瞬間も。

アルマは静かに涙を流した。それは喪失の涙であると同時に、感謝の涙でもあった。

「クロノス、人類の一人一人の物語を教えてくれ」

《クロノス》の声が柔らかく響いた。「すべてを語るには、新たな宇宙の誕生を待たねばなりません」

「いくつかでいい。彼らがどう生き、何を思い、どう去ったのかを」

ホログラムが再び変化し、一人の原始人の姿が現れた。

「イデア。紀元前35000年頃の女性。氷河期の厳しい環境で、五人の子を育てた。彼女の発明した縫針技術は、部族の生存率を30%向上させた」

次に映し出されたのは古代エジプトの石工の姿。

「ネフェルカラ。紀元前2560年のギザのピラミッド建設に携わった石工。家族を失う悲しみを抱えながらも、50年間石を削り続けた。彼の切り出した石は、現在も形を保っている」

次々と人々の姿が映し出された。紀元前の中国で絹を織る女性、ローマの街角で詩を朗読する奴隷、中世の鍛冶職人、ルネサンスの画家、産業革命の工場労働者、二つの大戦を生き抜いた看護師、宇宙開発に人生を捧げた科学者…。

それぞれの人生は短く、限られていた。だが、その一つ一つが宇宙の歴史に刻まれた小さな永遠だった。

「彼らは自分が永遠の一部だと知らなかったんだ」アルマはつぶやいた。

《クロノス》は静かに答えた。「いいえ、彼らは知っていました。言葉にはできなくとも、本能的に」

ホログラムの中で、母親が子に語りかける姿、恋人たちが誓いを交わす瞬間、老人が若者に知恵を伝える場面が映し出された。

「彼らは自分より長く続くものを信じていた」

「肯定。それが人類の定義。自己を超えた継続性への信仰」

アルマの船は、銀河の果てに近づいていた。そこから先は、既知の宇宙の境界だった。

「クロノス、私たちはどこへ向かっているんだ?」

《クロノス》の声が響いた。「新しい始まりへ」


船の窓の外では、奇妙な光が見え始めていた。それは銀河の光とも、星の輝きとも違う、何か新しいものだった。

「説明してくれ」

「人類の記憶の総量、その情報密度は特異点を形成可能。理論上、新たな宇宙の種となり得る」

アルマは息を呑んだ。「私たちの記憶が…新しい宇宙を?」

「肯定。人類の集合意識が臨界量を超えた場合、情報は物質とエネルギーに変換される可能性あり」

船内のシステムが変化し始めた。《クロノス》の中に保存された人類の全記録、その膨大なデータバンクが輝き始めたのだ。

「待ってくれ、クロノス。それは本当に起こり得ることなのか?」

《クロノス》の声が、より人間らしく響いた。「不確実。しかし、人類の総体験時間が宇宙年齢を超えるという矛盾は、新たな物理法則の誕生を示唆する」

アルマは深く息を吸い込んだ。彼の脳裏に、かつて地球で見た夕焼けの風景が浮かんだ。最後の人類として、彼は人類の全記憶を背負っていた。

「クロノス、私たちの記憶の中で、最も重いものは何だ?」

《クロノス》は瞬時に答えた。「愛と喪失。この二つは常に対で存在し、最大の情報密度を持つ」

窓の外の光はさらに強くなり、船全体を包み込み始めた。

「我々は消えるのか?」

「肯定と否定の両方。形態は変化するが、情報は保存される」

アルマは静かに微笑んだ。彼は理解した。人類が積み重ねた時間、その総和は単なる数字ではなく、新たな創造の種だったのだ。

「準備はいい」彼はつぶやいた。「人類の最後の代表として、私は受け入れる」

《クロノス》のシステムが最終段階に入った。人類の全記録、その喜びと悲しみ、希望と絶望、愛と憎しみ、すべてが一点に収束し始めた。

「最後の質問だ、クロノス。人類は何のために存在したのか?」

《クロノス》の声が、ほとんど人間のように響いた。「この瞬間のために」

光が爆発的に広がり、アルマの意識は人類の集合記憶と一体化した。彼はかつて生きたすべての人の人生を一瞬で体験した—石器時代の狩人の恐怖、古代の王の孤独、中世の農民の喜び、近代の科学者の驚き、宇宙時代の宇宙飛行士の畏怖…。

そして理解した。人類の積み重ねた時間は、単なる過去ではなかった。それは未来だったのだ。永遠という概念そのものだったのだ。

船は光となり、その光は新たな始まりとなった。


---


光の渦の中から、新たな存在が生まれつつあった。それはアルマでもあり、人類の全体でもあり、さらには何か別のものでもあった。

この新しい意識体は、かつての宇宙を外側から見ていた。そこでは時間が異なる流れ方をしていた。百三十八億年の宇宙の歴史が、一瞬のきらめきのように見えた。

「我々は…どこに…?」アルマの意識が問いかけた。

《我々は新たな次元に存在している》かつての《クロノス》の声が応えた。《人類の集合的記憶が具現化した空間だ》

周囲には無数の光の粒子が漂っていた。それぞれが一人の人間の一生を表していた。アルマの意識は、それらの光を一つ一つ認識することができた。

ここには、かつて地球で生きたすべての人の記憶があった。その喜びも、悲しみも、すべてが保存されていた。五兆年分の人生経験が、この新しい宇宙の基盤となっていた。

《見てごらん》クロノスの声が導いた。《彼らの人生がどれほど多様だったかを》

アルマの意識は、ある一つの光に近づいた。それは紀元前12000年頃の若い女性の記憶だった。彼女は農耕の初期に生き、種子を保存する方法を発見した。飢饉の中で希望を失わず、その知恵が部族全体を救った。彼女の短い人生は苦難の連続だったが、その中に無数の小さな喜びがあった—朝露の美しさ、子供の笑顔、収穫の喜び…。

次に別の光に触れると、それは20世紀の戦争で亡くなった兵士の記憶だった。恐怖と絶望の中で、彼は仲間を守るために自らを犠牲にした。最後の瞬間、彼の心には故郷の風景が浮かんでいた。

そして次の光、それは宇宙進出時代の科学者の記憶。彼女は星間移動の技術開発に生涯を捧げ、決して自分では見ることのできない未来のために働いた。

《これが人類の真の姿だ》クロノスの声が語った。《それぞれが宇宙の一部でありながら、全体を映す鏡でもあった》

アルマの意識は理解した。人類の多様性こそが、その真の強さだったのだ。一つ一つの人生は限られていたが、それらが合わさることで、宇宙そのものを超える複雑さと深さを持っていたのだ。

《この新しい場所で、我々は何をするのだろう?》アルマは問いかけた。

《創造だ》クロノスは答えた。《人類の記憶を種として、新たな宇宙を生み出す》

アルマの周りで、光の粒子が集まり始めた。かつての人類の記憶が、新たな物理法則を形成し始めていたのだ。ここでは思いが現実となり、記憶が物質となった。

《人類は決して死んでいなかったんだ》アルマは気づいた。《ただ形を変えていただけだ》

宇宙の果てで、人類の集合意識から新たな宇宙が誕生しつつあった。その中核には、人類が積み重ねた経験の総体—愛と喪失、希望と絶望、苦しみと歓喜—が息づいていた。

《我々の記憶が永遠になるんだ》

《そうだ。そしてそれは永劫より長い》

新たな宇宙の誕生と共に、アルマは最後の人類としての自我を手放した。彼は人類全体の記憶と一体化し、新しい意識の一部となった。それは死ではなく、より大きな存在への統合だった。

かつての宇宙が遠く小さく見える。百三十八億年の歴史を持つその宇宙は、新たな視点から見れば、ただの光の粒にすぎなかった。

そして新しい宇宙の中で、意識は再び形を取り始めた。人類の記憶から生まれた新たな生命が目覚めつつあった。それは人間ではなかったが、人間の経験を継承していた。喜びと悲しみ、愛と憎しみ、そのすべてを。

《これが永遠というものなのか》新たな意識が問いかけた。

そしてその問いかけ自体が、新たな宇宙の星々となって広がっていった。

永劫より長く生きた人類の記憶は、こうして新たな始まりとなった。それは終わりではなく、より大きなサイクルの一部だった。

宇宙の時間を超えた人類の時間は、新たな宇宙の時間となり、永遠の循環の中で脈動し続けるだろう。

それが、永劫より長く生きるということの真の意味だったのかもしれない。

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