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6.手が勝手に動いた

ちいさな崖のした。


人の背丈の倍ほどの高さがある絶壁の前。


血まみれで横たわるその人が、転落したことは明らか。


だけど、体勢から見て恐らく頭を打ってはいない。


ただ、肩には矢が刺さり、太ももと肩口から流血し、上等そうな服が裂けているのは、剣で斬られたのに違いなかった。


地面を蹴るように駆け寄って、手をあてると白い手袋がたちまち深紅に染まった。



「侍従騎士を呼びます」



というイサクを制し、ピクリとも動かないレモンブロンドの髪をした怪我人の顔に、わたしの呼吸が止まった。



「アーヴィド……王子……」



まさかと打ち消していた、うめき声のなかに感じた聞き覚え。アーヴィド王子の声の響き。わたしは聞き逃していなかった。


だけど、絶句している猶予はない。


アーヴィド王子の上着を、狩りのために携行している山刀(マチェット)で慎重に切り開いて、肩口から胸元への傷を露出させる。



――深い。



わたしは急いで自分の上着を脱ぎ、山刀(マチェット)で切り裂く。


物心がついたとき、負傷兵の手当てはすでにわたしの仕事だった。族長の娘として課せられていた責務でもある。


まずはとにかく止血をと、邪魔な帽子を脱ぎ捨て、裂いた布で傷口をグッと押さえ込み、包帯状にした布できつく縛る。


肩口の傷はそのままイサクに圧迫してもらい、太ももの傷も縛り上げる。


胸や脚の、筋肉で盛り上がるアーヴィド王子の艶やかな肌を目にするのは初めてだったけど、


当然、ときめいている余裕などない。


刺さった矢をいま抜くのは危険だと判断して、アーヴィド王子のほほを叩く。



「王子!? アーヴィド王子!? 分かりますか? アーヴィド王子!?」



正しくは「アーヴィド殿下」とお呼びすべきだ。


だけど、アーヴィド王子に出会ったのは、まだ王国の礼儀作法も知らない山育ちの子どもの頃。


優しく助けてくれた美少年な王子を、わたしは心の中で「アーヴィド王子」と呼んだ。


それが咄嗟に口を突いて出てしまった。


耳元で何度か呼びかけたけれど、アーヴィド王子の意識は戻らない。


胸に耳をあて、心音を確認した。


絶対に近づくことはないと思っていたこの距離。ピタリと触れ合う肌と肌。


だけど、こんな形で距離が縮まったところで、嬉しくもなんともない。


いまはただ、生きてほしい。



「大丈夫。心臓は力強い」



わたしの言葉にイサクがうなずき、祈るようにして傷口を圧迫し続けると、ようやく出血が止まった。



   Ψ



傷口を洗浄し、狩りで怪我をしたときのために携行していた薬草を貼り付け、包帯状に裂いた布を巻きなおした。


山野を駆けるためのズボンは血に染まり、上着は2枚脱いで手当てのために切り裂いた。



「これ……、着てください」



と、イサクが自分の上着を脱いで、わたしに差し出した。


とはいえ、露わになったキャミソールにも、アーヴィド王子の血が付いている。



「いいわ、汚れるし」


「いえ……、冷えますし……」



と、イサクは顔を背けたまま、差し出した腕をさげない。



「……目に、毒です」


「あら?」



正面からは見えない角度だけど、イサクの褐色をした頬が、微かに赤らんでいる。



「マセたこと言うのね?」



イサクも16歳。ふたつ歳上のお姉さんのキャミソール姿がまぶしいのか。血まみれなのに。


とっくにわたしより大きな身体になったイサクの初心(ウブ)なふる舞いに、思わず顔がにやけてしまった。


ほれほれと、おへそでも見せてやろうかと思ったけど、さすがに側妃としての品位に欠ける。


ぷぷっと笑って、イサクの差し出す上着を受け取り、袖を通した。



「ふふっ。イサクの匂いがするわよ?」


「と、当然です……。着てたんですから」



鍛えた筋肉の厚みにそぐわない、イサクの可愛らしいふる舞いに、張り詰めていた心をすこしゆるめてもらった。


意識の戻らないアーヴィド王子を動かすのは不安だったけど、このままにもしておけない。


イサクに背負ってもらい、とりあえずわたしの狩り小屋に運んだ。


慎重に矢をぬいて、矢傷をふさぐ。幸い骨には達していないようだった。


それから湯を沸かし、針と糸を煮沸して、胸元の傷口を縫い合わせた。



「……このようなことを、どちらで?」



と尋ねるイサクの顔は青ざめている。



「ふふっ。わたし、戦場で育ったのよ?」


「……まるで医師か薬師のようです」


「応急処置しか出来ないわよ。それも、ずいぶん久しぶり。だけど、手が勝手に動いたわ」



半裸のアーヴィド王子に包帯を巻き直すのが、ようやく照れくさくなっていたのを、イサクとの会話で紛らわせた。



――や、やましい気持ちなんかないんだからねっ!? これは治療……、治療なんだからっ!!



と、懸命に主張しているような自分も照れくさかったけど、幸いイサクには悟られなかったようだ。



アーヴィド王子を獲物の解体台に寝かせているのはちょっと気になったけど、とりあえず急場は脱した。


でも意識は戻らず、荒い呼吸で生死の境をさまようアーヴィド王子。


そして、状況はなにも分からない。


どうして、あんなところで深手を負ったアーヴィド王子が倒れていたのか?


収穫祭に列席するため任地から戻られていたのだろうと、想像はつく。


だけど、アーヴィド王子を斬り、矢を射かけたのは誰なのか? なんのために、そんなことをしたのか?


賊に遭ったのか? なら、近侍の騎士たちは? あるいは謀反に遭った?


でも、わたしの離宮がある山は、王都から馬車で半日ほどの距離がある。


騎馬を全速力で駆けさせたとしても2時間はかかる。


いや、そんなことより、ふもとの村から薬師を――、


と、わたしのグルグルする思考が、裏口のドアを忙しなくノックする音で遮られた。



「フレイヤです。ヴェーラ陛下、お戻りでしょうか?」



狩りに打ち込むにつれ拡張させていた狩り小屋は、わたしの離宮とつながっている。


扉をあけると、顔面蒼白になったフレイヤが、緊張した面持ちで立っていた。


血で汚れ、キャミソールの上に男物を羽織るわたしの奇妙な恰好にも気が付かないようだった。



「王宮で変事です」


「……変事?」



わたしの背後に横たわる、重傷で意識不明のアーヴィド王子。


変事の報せと無関係なはずがない。


わたしは、ゴクリと息を呑んだ。



「王太子殿下、ご謀反とのこと」



信じられない言葉だった。


アーヴィド王子の長兄、王太子テオドール殿下は穏やかなご気性で慈悲深い、人格者として知られる。


父君の国王オロフ陛下が、理不尽な理由で配下を処刑することもある、激しく猛々しいご気性であるのとは対照的。


けれど、テオドール殿下は暴虐の父王にも逆らうことはなく、真心からの孝養を尽くされていた。


いずれテオドール殿下が担われる王国の次代は、明るく穏やかなものになるだろうと、民も貴族も期待している――、



――その王太子殿下が、……ご謀反?



真っ青な顔をしたフレイヤが、言葉をつづけた。



「王太子殿下はすでに王宮にて誅殺」


「……はい」


「ともに謀られた第2王子殿下……、第3王子殿下は、……逃亡中とのこと」



目のまえが真っ白になった。


フレイヤが「第3王子殿下」という言葉を言いよどんだのは、彼女がアーヴィド王子の乳姉弟として育ったからだろう。


きっと、フレイヤも信じられないのだ。



「……む、謀反人の捜索のため、近衛騎士団がこちらに来ており、ヴェーラ陛下にお目通りを願い出ております」



殺しに来たのだ。


アーヴィド王子を殺すために、あの暴虐の王が近衛騎士団を放ったのだ。


わたしの背後で生死の境をさまようアーヴィド王子。わたしが引き渡せば、たちどころに首を刎ねられてしまう。



――そんなの、イヤだ!!!



つよい感情が湧き上がる。


アーヴィド王子が謀反など企むはずがない。もし仮に、王太子殿下が企んでいたとしても、アーヴィド王子なら兄の無謀な行いを止めるはず。



――きっと、なにかの間違いだ!!!



近衛騎士団にアーヴィド王子を引き渡すことなど、わたしには出来ない。


だけど匿えば……、わたしも罪に問われるだろう。


側妃だからといって見逃してくれるようなオロフ陛下ではない。


たちどころにわたしの首は刎ねられ、累は姉トゥイッカにも及ぶだろう。


それは、部族の平和を壊すことにもつながりかねない。いや、決して部族も無事では済まない。


姉が一身に引き受けてきた8年に及ぶ労苦を、妹のわたしがすべて無にしてしまう。


かたく目を閉じ、視界を真っ暗に思い悩んだ。



「……ヴェーラ陛下?」



フレイヤのわたしを気遣う声に、ゆっくりとまぶたを上げた。


わたしの立つ狩り小屋の石畳と、フレイヤの立つ離宮の瀟洒な絨毯が敷かれた床の境い目を、じっと眺める。


そして、フレイヤの濃いグリーンをした瞳を見詰めた。


わたしは静かに身体をうごかし、フレイヤの視界をわたしの背後にひらく。


一瞬、怪訝な表情を浮かべたフレイヤの濃いグリーンをした瞳が狩り小屋の中に焦点を合わせると、おおきく見開かれた。



「シッ!」



と、わたしは口元に指を立てた。


離宮のなかは、追っ手の近衛騎士団が満ちているはずだ。


フレイヤを狩り小屋のなかに入れ、音のしないように扉を閉めた。



「……(わらわ)は、……アーヴィド殿下をお守りします」



わたしの潜めた声に、堅い表情のフレイヤがちいさくうなずいた。


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