56.いますぐ駆け込みたい
引き絞った大弓を放つと、特製の太矢が縛りつけてあった粗縄とともに宙を舞う。
対岸の地面にふかく突き刺さり、粗縄がピンと張った。
手練れの者が、粗縄の張り具合を慎重に確認し、うなずく。
今度は、小柄な者が粗縄に四つ足にぶら下がって、ツルツルと対岸に渡ってゆく。
やがて対岸にたどり着き、おおきく手を振ると、わたしは胸をなでおろした。
「見事な第一矢にございました」
わたしから大弓を受け取ったラウリが、労うように微笑んでくれた。
山奥の渓谷に吊り橋を渡す、山岳レトキ伝統の技術。第一矢はその場で最も上席にある者が放つのが習わしだ。
わたしはお役御免になって、次々に大弓から粗縄が放たれていく。
そして、対岸に渡った者は、近場の大木に粗縄を結びつける。
板を渡しながら、縄を強化していき、人が渡れるだけの吊り橋はすぐに出来た。
さらに両岸に資材を積み上げ、騎馬や馬車が渡れる頑丈な吊り橋をつくってゆく。
ものづくりが好きなイサクはウズウズした様子で眺めているけど、そこはさすがに戦時宰相。この軍勢の総大将として、どっしり構えておくしかない。
吊り橋づくりの者たち以外は小休止のかたちとなり、脚を伸ばして談笑している。
みな、随分やわらかく笑うようになった。
アーヴィド王子は馬を降りて腕組みをされ、組み上がっていく吊り橋を興味深そうに眺めておられる。
この山岳レトキの技を知っていればこそ、わたしはオロフ王のかけた石造の大橋を、躊躇いなく落とすことが出来たのだ。
ふと、対岸が騒がしくなり、目を向けると騎馬が駆け込んでいた。
しばらく騒ぎはつづき、イサクとアーヴィド王子の視線が険しさを増したのち、ひとりの商人がひょこひょこと吊り橋を渡ってきた。
おっかなびっくりの足取りに、
――悪い人ではなさそう……。
という空気が流れ、みなの緊張が解けてゆく。
かかっている吊り橋はあくまでも仮組み。とても揺れるのだ。
見かねた対岸の者が手を引いてやり、わたしの前に片膝を突いたのは、王都に放っていた偵騎、エルンストの腹心のひとりだった。
――国軍および金鷲騎士団は全軍で王都を発ち、近衛騎士団も大半が出陣。おそらく王宮にのこるのは、近衛騎士団と侍従騎士の約4000。
わたしは、姉トゥイッカの心を読み切っていた。
国軍が王都を出立したのは、およそ8日前。偵騎の報せが遅れたのは、王都内の警戒が厳しくなっていたからとのことだった。
――このまま王宮を急襲すれば、出陣済みの国軍が引き返しても間に合わない。
吊り橋を渡す作業はピッチをあげ、ほぼ半日で完成した。
西に大回りしていたら4日はかかるところを、8分の1ほどの時間で、全軍を対岸に渡し終えた。
ここからは、ただひたすら駆けるだけ。
まずは包囲することを考えれば、戦闘におよぶ体力をのこす必要もない。
レトキ国軍5万の兵が、一斉に南に向かって駆けはじめた。
Ψ
実は、わたしは馬に乗れない。
騾馬なら経験がある。
レトキ族に乗馬の文化がないこともあるのだけど、これまで騎乗を覚える必要がなかったのだ。
馬車のなかで、フレイヤと手を握りあい、黙って窓から外の景色を眺める。
街道に入ると、驚く人々の顔も見えた。
街道わきに生える樹木の幹が太くなり、王国に帰ってきたのだと実感させられる。
冬場の雪の重みに耐えられるようにか、レトキの山々に生える樹々の幹はほそくて、よくしなる。
それが、よい弓になってくれる。
どっしりとした巨木というのは、人質として王都に送られてから、初めて目にした。
――こんなに太くて堅そうな樹々を見て育てば、強さや逞しさだけを追い求めるようになるだろうな……。
と、子ども心に畏怖の念を抱いたものだ。
ふと、樹木の影に、黒い騎影を見つけた。
わたしは進軍を止め、漆黒の鎧に身を包んだ騎士を招き入れた。
「王太側后ヴェーラである」
わたしはいまだギレンシュテット王国において、地位も身分も剥奪されていない。
黒狼の騎士は、片膝を突いて頭をたれた。
「これより姉王太后トゥイッカをお迎えに参上する。われら姉妹の故郷、レトキの大地に連れ立って帰ろう。……そう、お伝えせよ」
黒狼の騎士に見つけられたのなら、隠し立てしても意味がない。
拘束したところで、ほかの黒狼が別の場所から眺めているに違いなかった。
わたしの前で片膝を突く黒狼の騎士は、チラッとアーヴィド王子を見上げた。
「見ての通り、第3王子アーヴィド殿下であらせられる。すでにわれらは選帝侯、ドルフイム辺境伯カミル・ピエカル閣下お立会のもと、婚約の契りを交わした」
さすがの黒狼も、おおきく目を見張った。
「この上は、アーヴィド殿下の追討令取り消しを、姉王太后に進言するつもりである。……あわせて、申し伝えよ」
姉は、わたしの裏切りを知るだろう。
姉が口汚く罵ったアーヴィド王子との婚約、結婚。
ずっとずっと、わたしが胸の奥底に秘めていた恋心。
だけど、事前に知らせることから、わたしの気持ちを汲みとってほしい。
形だけでも、祝福してほしかった。
「いけ」
わたしの言葉に、ふたたび頭をたれた黒狼の騎士は馬にまたがり、王都に向かって駆け出した。
進軍はさらにスピードをあげ、黒狼の報せを受けた姉に逃亡の時間を与えない。
3日後の夕刻、わたしの率いるレトキ国軍5万が、白亜の王宮を包囲した。
Ψ
姉に書簡をしたため、開門を求めた。
王宮内に立てこもる兵は、こちらの1割にも満たない。
できれば、無益な戦闘は避けたかった。
けれど、王宮内からの反応がない。
しんと静まり返って、物音ひとつ響いてこない。
あのオロフ王毒殺未遂事件の夜と同様に、わたしひとりで城門に立とうとしたら、みんなから全力で止められた。
やがて日が落ち、篝火を盛大に焚いて、白亜の王宮を照らし出す。
悶々とした時間が過ぎ、兵士たちは交代で休ませた。
「……むこうには、むこうの都合があるよ」
と、アーヴィド王子が、馬車のなかでやさしく肩を抱いてくださった。
わたしは、怯えていた。
この場面にいたるまで、ただの一度も、姉が自決してしまう可能性を考えたことがなかったのだ。
その可能性に気がつき、馬車のなかに戻って、ちいさくカタカタと震えていた。
とても兵士たちに見せられる姿ではない。
最初はフレイヤが全身をさすって、震えるわたしを温めてくれていた。
やがて、アーヴィド王子に替わられ、肩をギュウっと抱いてくださり、そのまま寄り添っていてくださった。
馬車の外からは、レトキの兵士たちが談笑している声が聞こえる。
――よくやってくれました。
と、激励して回るべき場面だ。
だけど、わたしは唐突な姉との別れの予感に、ただ怯えて震えていた。
みんな、こんな風に大切なひとを、唐突に亡くしてきたのだ。
御父君が戦死された、フレイヤ。
父が戦死し、母は蒸発した、イサク。
兄君が討死した、エルンスト。
兄王太子が誅殺された、アーヴィド王子。
そして、婚約者ペッカを死地に送られた、姉トゥイッカ。
とりわけ富豪な者でもない限り、肖像画すら残らない。
あたまの中に浮かぶ笑顔と、手のひらにのこる手触り、鼻腔の奥に蘇らせる匂い、耳に木霊させる声音。
記憶だけをのこして、突然いなくなる。
あれが最期だったのかと、すぐには思い出せない残酷な別れ。
いますぐ王宮の城壁をよじ登り、姉の居室に駆け込みたい。
――できますけど!? 山育ちですから!
すでにレトキ96万の命を預かった、女王の身でそんな無責任なことはできない。
弓で狙われでもしたら、一矢で落命する。
ただ、肩をアーヴィド王子に抱いていただきながら、城門がひらくのを待つ。
「……ほんとに、情けない女王ですわね」
わたしのつぶやきに、アーヴィド王子は肩を抱く手に力をこめてくださった。
「不安も嘆きも苛立ちも、胸の奥底に沈めておくことが出来なくなった。……ボクは、いまのヴェーラのほうが好きだな」
「……ほんとですかぁ?」
「疑いもね」
「ふふっ。……わたしの胸の奥底は、アーヴィド王子への恋心でいっぱいになってしまったのです」
そのまま、アーヴィド王子の胸にもたれかかり、顔を埋めた。
「そこには、ヴェーラが縫い合わせてくれた、おおきな傷跡があるよ?」
「ええ……、そうですわね」
「ボクは覚えていないけど、……きっとヴェーラはボクの命を救けようと必死だったと思うんだ」
わたしは、アーヴィド王子の厚い胸板をそっとさすった。
――そういえば最近、アーヴィド王子の裸を見てないなぁ……。あんなに毎日見てたのに……。
なんて思いはじめたので、たぶん、わたしの気持ちは落ち着いてきたのだろう。
「きっと、いまのヴェーラもおなじなんだよ? ……ただ、救けたいだけ」
「そうかもしれませんわね」
「すこし眠りなよ。城門があいたら、すぐに起こすから」
わたしはコクリとうなずき、スルスルとあたまをアーヴィド王子の胸板にすべらせ、膝枕の姿勢になった。
――あれ? ……意外と、膝枕は初めて?
なんて思いながら、アーヴィド王子の太ももにほほをこすり付ける。
ここにも、おおきな傷跡がある。
しばらく歩けなかったアーヴィド王子に、ピタリと身体を密着させて、一緒にせまい脱出路をあるいた。
――ぜんぶ、姉のおかげ……。
とは、悪い考えだ。
姉の陰惨な謀略がなければ、わたしとアーヴィド王子の距離が身分を超えて近づくこともなく、わたしが本当に好きな人と結ばれることもなかった……、だとしてもだ。
犠牲になった者が、多すぎる。
馬車の天井を見上げると、わたしの離宮の隠し部屋より、すこし高い。
でも、広さはこのくらいだった。
わたしたちが、ふたりだけで過ごせた、狩り小屋の地下の密室。
ひと月半ほど前まで、あそこにいたのに、ずいぶん前のことのように感じる。
あの頃のことを思い浮かべながら、わたしは微睡みに落ちていった。
Ψ
夜半過ぎ。アーヴィド王子が、やさしく起こしてくださった。
「城門がひらくよ?」
フレイヤにお化粧をなおしてもらい、姉から贈られた黄色のドレスの乱れをなおしてもらってから、わたしは馬車をおりる。
もはや、なにが起きようとも、わたしは受け止めるしかない。
アーヴィド王子とイサク、そして近衛隊に護られながら、わたしは城門のまえへと進んだ。
やがて、おおきな城門が、かすかに開き、オレンジ色をしたマーメイドラインのオフショルドレスに身を包んだ淑女が姿をみせる。
降伏開門の最終交渉に出てきた淑女。
艶と気品のある風情で、ふかぶかとわたしに頭をさげた。
「おかえりなさいませ、ヴェーラ陛下」
わたしは、この声に聞き覚えがあった。
姿勢をおこし、スッと背筋を伸ばした淑女の顔をまじまじと眺めてしまった。
「……ミ、ミア?」
「ええ……、ヴェーラ陛下の侍従騎士、ミア・テュレンにございます」
切なげに微笑んだミア。すっかり面変わりしていて、なかなかわたしの記憶と一致させられない。
だけど、篝火に照らし出された鮮やかな赤い髪の毛は、たしかにミアのものだった。
驚きで言葉を失うわたしに、以前のミアでは記憶にない穏やかな口調で、これまでの出来事を語り聞かせてくれた。




