53.像を結ぶ
王都からの急使が携えていた、姉トゥイッカからわたしにあてた書簡。
王都で起きた反乱軍の決起と、王国西方の動乱について軽く触れ、あとはただ、わたしの身を案じていた。
姉の知るわたしの予定では、そろそろ帰路に就く頃だ。
だけど、いまの王都の情勢では護衛の兵を出せず、レトキから徴発した兵と一緒に帰ってくるようにと書かれてあった。
わたしは、姉に返事を出すか、悩んだ。
すべてを偽った返事を書き送りさらに時を稼ぐのか、本当のことを伝えるのか。
あるいは返事など出さず、姉がわたしに向ける悲痛なまでの心配を黙殺するのか。
いずれは、わたしの離反が姉に露見する。
なら、いっそ、わたしの想いを書き綴り、姉に届けるべきなのではないか。
なにを書いても、姉の心を揺さぶれるとは思えない。
だけど、姉妹としてこの世に生を受け、ともに王国への人質に送られた妹として、姉にかけるべき言葉があるのではないか。
あの泥沼のような王国と部族との戦争を、ともに終わらせたのは、わたしたち姉妹であることに違いはないのだから。
落ちていく夕陽を眺め、すでに戦場と化しているであろう王国西方を想った。
この内乱も幾年つづくか分からない。
もとは15の国だった王国が、いつまで統一を維持できるかも定かではない。
いずれレトキの建国が明らかになれば、わたしもいわば王国に割拠する軍閥のひとつとして扱われるだろう。
そうなれば、わたしが姉にあてる書簡には政治的な意味合いしかなくなる。
これが、わたしが姉に想いを伝えられる、最後の機会になるかもしれない。
空から夕陽の気配が完全に消え、わかきレトキ国軍が教練に励む声も、いつの間にかやんでいた。
「冷えるよ?」
と、アーヴィド王子がうしろから、ケープをかけてくださった。
そして、一緒に夜空を見上げてくださる。
わたしの布いた戒厳令は続行しており、人の出入りを厳しく制限しているとはいえ、誰はばかることなくアーヴィド王子と顔を合わせられる。
それだけでも、夢のようなことだ。
「……姉に、返事を書くべきだと思われますか?」
つぶやくようなわたしの問いに、アーヴィド王子は表情を変えられず、無数の星々がきらめく夜空を見上げられたままだった。
「ヴェーラの好きにしたらいいよ」
「もう……、わたしはアーヴィド王子のご意見をおうかがいしているのです」
「ふふっ……。ヴェーラはトゥイッカ殿の妹で、レトキの女王だ。好きにしていいんだよ?」
お父様とお母様のお墓参りで、9年ぶりに故郷の山々を歩いた。
なつかしさよりも、戦争の日々の苦しさが身体に生々しく蘇ってしまった。
同行してくださったアーヴィド王子たちがずっと楽しい話を聞かせてくださらなければ、わたしは耐えきれずに引き返していたかもしれない。
そして、蘇った戦争の感覚が、わたしの判断を微妙に狂わせている。
寒風に吹き付けられ一緒に歩いた記憶のなかの姉が、現在の姉に重なり過ぎている。
だけど、そのことをアーヴィド王子にうまく伝えられない。
なぜ、意見を求めたのか、うまく理解してもらえない。
わたしはアーヴィド王子を愛して、求めて、手に入れた。
お互いの気持ちを確認できたあの日以来、アーヴィド王子がわたしを愛してくださっていることを、疑ったことはない。
なのに、わたしはアーヴィド王子を信じ切ってはいないのだ。
アーヴィド王子が、いまでも姉トゥイッカの命を狙っているのではないかという疑いを、拭うことが出来ずにいる。
いや、きっとアーヴィド王子が姉の命を狙ったことなど一度もない。
アーヴィド王子は、ただ兄王太子テオドール殿下を王位に就けたかっただけだ。
分かっている。
分かっているのに、どうしても信じ切ることが出来ずにいた。
姉の所業はそれに見合ったものだし、わたしへの愛だけで、アーヴィド王子が姉への憎しみを乗り越えてくださっているとは、まだ実感が持てない。
「……アーヴィド王子は」
「なに?」
やさしい微笑みを、わたしに向けてくださる。
「ご自分のために生きてはくださらないのですか?」
「……ん?」
「アーヴィド王子は、わたしのために生きていると仰いました」
「うん、そうだよ」
「ご自分のために生きて、ご自分のために……、わたしを愛してはくださらないのですか?」
ずいぶん胡乱なことを聞いている自覚はあった。
わたしはこの9年、部族のために生きた。
いま、わたしは何のために生きているのか、よく分からなくなっていた。
やりたいことは思い浮かばず、やるべきことに汲々としている。いや、そもそも自分がやるべきと考えていることは、本当にやるべきことなのか。それすら分からない。
そんなわたしのために生きると言い、わたしを愛すると仰ってくださるアーヴィド王子の気持ちを、見失いかけていた。
わたしの切実な想いに反し、アーヴィド王子はほほを赤くされ、少年のような仕草で鼻のあたまをかかれた。
「ほんとだね」
「えっ? ……なにがです?」
「……ボクがヴェーラを好きなのは、自分のためだ」
「まっ……」
そ、そんな直球の答えを求めていた訳ではないのだけど……。
わたしのほほも赤くなる。
「う~ん、むずかしいね」
「なにがです?」
「ヴェーラを好きでいることは、ヴェーラのためじゃないなぁ……、と思って」
「あ、……はい」
腕組みされたアーヴィド王子が、眉間にシワを寄せて天を仰がれる。
「え? ボクはヴェーラのために生きたいんだけど……、そうすると好きでいるのが変だってこと?」
「へ、変ではありません!」
「そう?」
と、アーヴィド王子が横目にわたしを見られる。
吹き出しそうになるくらい、真剣に悩んでくださっていることが伝わってしまった。
「もう、いいですわ」
「え? ……なにが?」
「ご自分のために、……わたしを好きでいてくださいませ。わたしも、自分のためにアーヴィド王子を好きでいますから」
なんだか笑顔を見られるのが恥ずかしくなって、アーヴィド王子のひろい背中に顔を埋めてしまった。
「な……、なにを言わせるのです?」
「え~っ? ヴェーラがボクに聞いてきたんでしょ?」
「自分のために……、わたしは姉を救けたいのです」
「うん。ボクもヴェーラの願いを叶えてあげたいよ?」
「……姉は、テオドール殿下を死に追いやったのに?」
わたしの問いに、アーヴィド王子はしばらく応えてくださらなかった。
だけど、わたしが額をあてるひろいお背中が揺らぐこともなかった。
「ごめんね」
「……え?」
「ヴェーラを不安にさせてたんだね」
「いえ、そんな……」
アーヴィド王子の声音は、どこまでも優しく、わたしを包み込むかのようだった。
「偉大なるオロフ王の息子として、ヴェーラの問いに答えようと思う」
一歩まえに進まれ、その場にわたしを残したアーヴィド王子は、くるりと向き直られた。
「兄テオドールは敗けたんだよ、トゥイッカ殿に」
「はい……」
有無を言わせない威厳……。
アーヴィド王子がオロフ王のご子息であると体感させられたのは、わたしをいじめたメイド長を退けてくださったとき以来かもしれない。
「勝敗は時の運。敗れたとき、勝者を讃えることはあっても、憎しみも怨みもしない。そうでなければ、次の勝負でも必ず敗ける」
「……勝つ、おつもりなのですね?」
「次こそ、ヴェーラを勝たせる」
と、アーヴィド王子は微笑まれた。
そして、かるく腰をおとされ、わたしの顔をのぞき込まれる。
「トゥイッカ殿を救けないと、ヴェーラは敗けたと思うでしょ?」
「そ、そうですわね……」
「だから、ボクはヴェーラと一緒に、トゥイッカ殿を救けたいと思うよ? それがボクたちふたりの勝利だ」
「……ふ、ふふっ」
現時点において王国最強勢力を率いる姉を救けるだの救けないだの……、北の辺地でなにを言い合っているのかと、不意におかしくなってしまった。
「あれ? ボク、なにか変なこと言った?」
「いいえ、アーヴィド王子のお考えがよく分かり、嬉しくなってしまったのです」
照れ隠しするように、ツンと顔を背けてしまった。
「では、姉王太后トゥイッカの宿縁の政敵でいらっしゃるアーヴィド王子におうかがいいたします」
「うん」
「……姉が本当のことを知れば、わたしの離反を知れば、姉はどうすると思われますか?」
ふむ。と、アーヴィド王子は身体を起こし、あごに手をあて考え込まれた。
怜悧な表情。
宵闇にお顔立ちの美しさが際立つ。
素直に見惚れながら、アーヴィド王子のお答えを待った。
やがて、穏やかな表情を浮かべ、わたしを見詰めてくださった。
「静かな憤怒を誰にも悟らせず、冷徹な策を幾重にも練って、ヴェーラを討つ。……だろうね」
緋色のドレスを身にまとい、豪奢な深紅のソファに腰掛ける姉トゥイッカの美しく妖艶な笑みが脳裏に浮かんだ。
そうだ。いまわたしが対峙している姉は、この姉だ。
誰よりも強かで、誰よりも美しい。
目的のためなら手段を選ばない。そして、手間暇を惜しまない勤勉な復讐者。
執念の為政者。
姉王太后トゥイッカの姿が、像を結んだ。
ぶるっとひとつ身震いしたわたしに、アーヴィド王子が怪訝な表情を向けられる。
「……楽しそうだね、ヴェーラ」
わたしは笑みをこぼしていた。
――姉に敗けるわけにはいかない。
と、誓った日を思い起こす。
アーヴィド王子が一緒に逃げて樵にでもなろうと言ってくださった日のことだ。
わたしは、姉に勝つために、王都から逃げ出したのだった。
アーヴィド王子を王座に就けるためだった。
愛する人を、愛した姿にお戻しするためだった。煌びやかなる王宮にお戻しするためだった。
わたしはアーヴィド王子の胸に飛び込み、ギュッと抱き締めた。
「ヴェ、ヴェーラ?」
「もう、大丈夫ですわ。……わたしは自分のためにアーヴィド王子を愛し、アーヴィド王子のために生きてゆきます」
Ψ
4日後。わたしはレトキ国軍初めての閲兵式に臨んだ。
レトキの女衆があつらえてくれた、山吹色のドレスに身をつつむ。
フレイヤの助言でギレンシュテット王国の様式を取り入れながら、レトキの紋様が所狭しと刺繍されている。
すべての氏族の紋様を取り入れたところスカート全体のボリュームが広がり、華やかでゴージャスなベルラインに仕上がった。
「さすがに、派手かしら?」
「いいえ。新女王陛下にふさわしい装いかと存じます」
姿見に映りきらない黄金の花をまとったかのようなドレスに、思わずはにかんだわたしに、フレイヤがニコリと微笑んだ。
仮宮殿のテラスに立ち、行進してゆく新兵たちを眺める。
――決して、戦場に送りたいわけではないけれど……。
アーヴィド王子、そしてカミル閣下を来賓に迎えた閲兵式が滞りなく執り行われる。
軍事教練が順調に進んだのは、姉が部族の者にうえ付けた隷従の心のおかげだった。
教官役を務めてくれたエルンストの兵、イサクの兵、そしてカミル閣下の兵たちの言葉を素直に聞き、急造ながらに、立派な国軍に仕上がった。
騎馬の数が圧倒的に足りず、歩兵を中心とした編成だけど、国を守るには充分な軍容が整った。
わたしを護る近衛隊も組織され、幼馴染のラウリをその長に任じた。
おなじ日、エルンストからの急使が届く。
姉の送った討伐軍と反乱軍が、王国西方で激突したとの一報だった。
反乱軍はとても一枚岩とは言えず、ニクラス殿下の采配どおりに布陣しない者もいるなど、南北にながく伸びた前線では混乱がみられるとのことだった。
ただ、東方貴族たちからなる討伐軍も統制が悪く、戦況は一進一退がつづいている。
わたしは、冷静に受け止められていた。
姉の眼差しは、きっと王国西方に注がれている。わたしはその姉の緋色の背中を、とおく北の果てから見詰める。
さらに2日後、
今度はカミル閣下に、国元からの急報が届く。
「ニクラス殿下が討伐軍に敗れ、国境近くまで敗走させられたようです」
姉は反乱軍に、勝利を収めた。




