50.いまこの時を楽しむ
初冬の寒空の下、踊り子たちのすこし布を増やした衣裳がひらひらと舞った。
レトキの民たちは、伝統の祝いの歌を捧げてくれる。
「いやしかし、ヴェーラ陛下はお美しい」
酒杯を傾けるカミル閣下の甘い声に、アーヴィド王子がムッとした顔をむけた。
「カミルにはあげないよ?」
「いや……、人妻にはこりごりだ……」
「あっ。経験はおありなのですね?」
と、わたしの素朴な問いに、カミル閣下は苦笑いされ、アーヴィド王子は大笑いされた。
「カミルは公子時代にねぇ、なんと皇帝陛下の弟君、皇弟殿下のお妃様と恋に落ちちゃったんだよ?」
「まあっ!? ……そんな、禁断の恋を?」
「あれは確か、ヴェーラがギレンシュテットの王宮に入った直後ぐらいだったかな? ……カミルはギレンシュテットに旅に出されて、ほとぼりが冷めるまでしばらく滞在してたんだよ?」
そうか……。そのときに、アーヴィド王子との親交を深められ、姉トゥイッカとつながる機会もあったのだろう。
カミル閣下のことだ。
痛い目をみた直後でも、呼吸するように姉に言い寄らなかったとは想像できない。
「ふっ。昔のことですよ」
栗色のながい髪をかき上げ、カミル閣下はとおくを見詰め目をほそめられた。
よほど痛い目にあわれたらしい。
「……ヴェーラ陛下。いまは祝いの席です。すべてを忘れて、いまという時だけを心から祝おうではありませんか?」
わたしとアーヴィド王子はふたりそろって口に手をあて、イシシッとカミル閣下に意地悪な笑いを向ける。
バツの悪そうなカミル閣下だけど、目は気持ちよさそうに笑われていた。
そして、カミル閣下の仰られた通りだ。
まだ、わたしたちの前にはいくつもの壁が立ちはだかっている。ふたりして生き残れるかどうかも分からない。
カミル閣下のおおきな度量のおかげで、王国から追討令が出たままの大罪人たるアーヴィド王子も、心から寛いだご様子でいられるというだけのこと。
ならば、せっかくのこの時間。
いまという時を心から喜び、楽しみ、幸せをみんなと分かち合いたい。
わたしは立ち上がり、野原の中心で舞う踊り子たちの列に加わった。
Ψ
夕刻、十日宴の場を大会堂にもどす。
そして、エルンストを王国西方、オクスティエルナ伯爵のもとに走らせた。
姉の徴発命令を阻止し、レトキ族を中立に置いたことを急報してもらうためだ。
それに、ご嫡男のエルンストの兄君が討死されたことで、エルンストはオクスティエルナ伯爵家の正当な継承者になっている。
送ってこられた急使には、暗にエルンストの帰参を促す文言もあった。
「しばしのお別れです」
片膝を突いたエルンストに、神のご加護を祈って送り出した。
腹心13名を含め率いていた兵のほとんどを、わたしのために置いていってくれる。
もちろんわたしのためだけではない。
産声をあげたばかりのレトキ王国を守ることは、オクスティエルナ伯爵家にとっても利のある重要なことだ。
ただし、レトキの建国とわたしの女王即位はまだ伏せることにした。布告のタイミングを誤れば、みなが窮地に陥いる。
さらに氏族の長たちを除き、その他の代表者たちを急いで自分たちの郷に戻らせた。
建国なったレトキ王国の国軍創設のため、氏族から兵士となる者を募ってくれる。
ギレンシュテット王国は風雲急を告げている。一刻もはやく軍容を整えなくてはならない。
代表者たちには、総督府に溜めこまれていた食料を持てる限り持たせ、飴や菓子も持たせた。
帰り着き次第、志願兵とは別に、食料を取りにくる者を寄越すようにとも申し付けてある。
子どもたちの笑顔を思い描くだけで胸が満たされる。だけど、それだけではない。
――国とは腹を満たしてくれるもの。
いまは、大人もそう理解してくれたのでいい。
みなの心をひとつにまとめられるなら、それがいちばん重要な局面だ。
総督府をレトキ王国の仮宮殿と定め、氏族の長たちと統治体制を話し合う。
とはいえ、氏族の長たちに国家の統治機構に関する知識はない。
文官としての知識も身に着けたイサクが議論を先導し、まずは戦時体制として緊急の統治機構を構築してゆく。
正直に言えば、氏族の長たちは体のいい人質でもある。
わたしはイサクを戦時宰相に任じ、幼い日のわたしの手当てで生き延びたという黒髭の男性イルマリを、イサクの書記官に登用した。
重要な議論において趨勢を決する発言をした功績をもって抜擢することは、どこの王国でもよくある話だ。
幼子の父親であるラウリは、とりあえず郷に戻し、家族を連れて仮宮殿に戻ってくるようにと頼んだ。
女王だ建国だと張り切っても、9年ぶりの帰郷で、まだ気心の知れた者は少ない。
幼馴染であり、勇敢にもわたしへの直訴におよんだラウリのことは頼りにしている。
フレイヤは改めてわたしへの忠誠を誓ってくれ、女王侍女長に任じた。
踊り子たちのひとりシルクカという女性が、レトキ族の出身であったことが判明し、わたしへの臣従を申し出てくれたので、フレイヤのもとで侍女見習いとした。
小麦色の肌がまぶしい23歳。
手足がながくて胸がおおきい。胸はどうでもいいんだけど、苦労してきたのか歳の割に落ち着いた風情のある女性だ。
身分を偽って踊り子として働き、故郷への密かな仕送りにしていたらしい。
「……頑張ったわね、シルクカ」
「レトキ族が自分たちの国を持つ日がこようとは……。夢のようにございます」
綺麗な夕陽色の瞳に涙をにじませ、色っぽく微笑んでくれた。
――アーヴィド王子には、あまり近づけたくないわね……。
ここまでの段取りを、夜更けまでにつけ、あとはイサクとフレイヤに任せて、わたしは大会堂に戻った。
アーヴィド王子はカミル閣下と楽しそうに、酒杯を傾けておられた。
――わたしの愛した、天真爛漫な笑みを取り戻された……。
日のあたらない地下の密室にお匿いしている限り、アーヴィド王子がアーヴィド王子に戻られることはなかっただろう。
おふたりを邪魔しないよう、そっとアーヴィド王子のとなりに腰をおろした。
また、わたしは待つしかない。
レトキ国軍に志願してくれる者たちが集まってくれば、軍の体裁を整える訓練をほどこし、防衛線を敷く。
そうしたら、次は――、
「頑張ったね、ヴェーラ」
いつの間にかわたしの方を向いていたアーヴィド王子が、やさしく微笑まれた。
最初にお会いした王宮の中庭――、
緊張の糸がほどけて泣き出してしまったわたしに甘い飴をくださったとき、わたしにかけてくださったのとおなじ言葉だった。
なんでもない言葉。よくある言葉。
――頑張ったね、ヴェーラ。
だけど、わたしには特別なアーヴィド王子のお言葉。
飴の代わりにキスをせがみたい気持ちを抑えて、アーヴィド王子の逞しい肩にパンチした。
「頑張りました。ほめてください」
わたしがアーヴィド王子の肩に額を乗せると、わたしのココアブラウンの髪を、やさしく撫でてくださった。
カミル閣下がアーヴィド王子になされる〈女性の髪をステキに撫でる方法、初級講座〉に、
わたしはアーヴィド王子の肩でクスクス笑いながら、幸せな夢へと落ちていった。




