40.お忍びのピクニック
「メイドにサンドイッチをつくらせました。ピクニックでもいかがですか? よいお天気ですわよ?」
わたしを気遣うフレイヤの声がして、机から顔をあげた。
窓の外では、空が晴れ渡っている。
氏族の長たちがそろうのを待つ数日、書庫にこもって、これまでの記録に目を通していた。
アーヴィド王子とイサクも手伝ってくれ、姉トゥイッカが部族に布く苛政の実態が明らかになるにつれ、わたしの眉間に深いシワが刻まれているところだった。
「根を詰め過ぎると、お肌にもよろしくありませんわよ?」
と、にっこり微笑むフレイヤの助言に従い、わたしは席を立った。
総督府の裏に面した山を登り、斜面を東に回り込んでから腰をおろす。ここなら誰からも見られない。
アーヴィド王子が、頬あてのついた兜を脱がれ、陽光のようなレモンブロンドのお髪が風にひろがる。
気持ちよさそうに風を浴びて微笑まれる、アーヴィド王子。
わたしも、深く息を抜くことができた。
お忍びのピクニックには、アーヴィド王子のほか、フレイヤ、イサク、そしてエルンストも連れてきた。
すべての事情を知る、気心を許せる5人で初冬の空を見あげる。
サンドイッチには蒸したトナカイ肉をはさんである。王都では干し肉でしか味わえなかった、新鮮な故郷の味が、張り詰めた心の糸を緩めてくれた。
美味しいと言ってくれる皆の言葉が、お世辞でも嬉しい。
「いえ、意外とクセがなく柔らかくてあっさりとした味わい。脂肪のすくない赤身肉は兵士の筋力増強にも役立ちそうです。それでいて……」
と、わたしの黒髪の騎士エルンストは初めて口にするトナカイ肉をクールに解説してみせ、イサクは寡黙にうなずいている。
眉目秀麗で気品あふれる貴公子然としたエルンストが、わたしの故郷の味を饒舌に語る姿はなんとも不思議な光景だ。
涼やかな顔立ちに褐色の肌をしたイサクは、ひと口食べてはモグモグと、なにやら考え込んでいる。
王都から総督府に向かう急ぎ旅の途中、イサクをわたしの騎士に任じた。
これまでの功績に加え、ミアと学んだ文官としての知識も申し分ない。
大王国であるギレンシュテット王国の、共同摂政にして王太側后が授ける騎士号。
それは、平民の孤児だったイサクが貴族の一員になったことを意味し、他国に行っても丁重に扱われる身分だ。
わたしが差し伸べた剣をのせたイサクの肩は、感激に打ち震えていた。
従者イサクは、騎士イサク卿になった。
わたしがいずれはアーヴィド王子と結婚する意向を伝えても、イサクは冷静に受け止め、祝意をあらわしてくれた。
いつの頃からか、イサクから向けられる熱い眼差しに、ふと恐さを覚えることはなくなった。
いまはただ篤い忠義しか感じない。
問いただすようなことは出来ないけれど、イサクが幼い頃からわたしに募らせていた想いは、上手く冷ましてくれていた。
それは、ミアのお陰なのかもしれない。
それとも、わたしが抱くアーヴィド王子への恋心に、イサクは薄々気が付いていたのかもしれない。
わたしを護る、ふたりの騎士。
黒髪のエルンストと褐色のイサクが、わたしたちの両脇を護りながら、おだやかにピクニックを楽しむ。
意外なことに、故郷の空を見あげても、わたしに感慨は湧いてこなかった。
王都とおなじ青い空。
離宮から見あげた空と変わりはない。
ただ、この空の下に広がるレトキ族の居住地域は広い。
山間でトナカイを連れた半遊牧の生活をする氏族が多く、氏族はさらに小氏族に別れている。
居住場所が一定しないため、急使を飛ばしても、すべての氏族の長がそろうのには時間がかかる。
王国の西方でいつ反乱の火の手があがるのか、王都の姉がいつ総督府の異変に気が付くのか。
焦れるような時が過ぎるけど、わたしは氏族の長たちがそろうのを待つしかない。
やれることはやっておこうと、書庫にこもったのだけど、そこにはアーヴィド王子でさえ驚かれる、姉の統治の実態と経緯が克明に残されていた。
わたしたちが最も驚いたのは、レトキ族から王国への正式な貢納でさえ、姉トゥイッカが始めさせていたことだ。
――事実上、オロフ王唯一の敗戦。
と、おおきな身体をしたダニエルが声を潜めたレトキ族との終戦にあたって、王国は貢納の義務まで課すことは出来なかった。
当時14歳のアーヴィド王子は初陣前で、王国のレトキ侵攻には関わられていない。
かろうじて王国の体面を繕った終戦。
それを姉が、
――部族のために人質となった、族長の娘姉妹の身の安全を図るため。
として、王国に貢ぎ物を送らせるよう、公式愛妾トゥイッカ夫人のサインが入った、総督への命令書が残されていた。
その頃、すでに母は亡くなっている。
家族をすべて戦争に奪われた父は、総督から伝えられた姉の命令を手に、長老たちや氏族の長を説得して回ったはずだ。
姉に使嗾され、険しい山道を何度も往復する。ながい戦争で傷付いた部族から、貢ぎ物を差し出させる。
族長である父の心中を思うと、胸が締め付けられる。
さらに総督府では、レトキ族の詳細な住民台帳まで作成されていた。
レトキ族には174の氏族があり、そのなかで別れる小氏族が2802、総人口にして約96万人――、
――そんなにいたのか……。
と、わたしを驚かせた。
王国侵攻という部族の危機に結束を強めていたとはいえ、もとは氏族には氏族の法と慣習があって、それぞれの氏族が独立性を帯びている。
族長である父のおもな役割と権限は、氏族間の揉め事を、長老たちと一緒に仲裁すること。あとは部族の祭祀を司る。
レトキ族全体を見渡せば、氏族同士がゆるやかな連帯でつながっているだけで、国家というにはほど遠い。
全体像を把握する者など、わたしを含め、誰もいなかったはずだ。
しかし、姉の命令で作成された住民台帳には、こと細かくレトキ族のすべてが調べ上げられていた。
わたしは話に聞いたことしかなかった、山岳地帯を越えた海沿いに住み、漁で生計をたてる海岸レトキと呼ばれる氏族のことまで詳細に記載されていた。
あのでっぷりと肥え太った総督も、有能な官吏ではあったのだろう。
そして、姉のサインが公式愛妾から王妃へ、さらに王太后へと変わってゆく、詳細な命令書が何通も残されていた。
姉は王都から総督を操り、遠隔で完璧な統治体制を築き上げていた。
姉の執念に、わたしは戦慄した。
何冊もあるぶ厚い住民台帳は、部族への復讐を誓った姉の、怨念の結晶だ。
戦争のあとで生まれた赤子であろうと幸せにはさせないという、姉の狂気が立ち昇ってくるかのようだった。
――簡単には殺してなどやらぬ。
という、姉のつよい眼差しに、遥かとおく王都から射抜かれるような錯覚さえした。
「この台帳があれば……、すぐにでも国家の体裁を整えられるね」
という、アーヴィド王子のつぶやきに、わたしはぎこちなく頷くことしか出来なかった。
姉の〈成果〉を、わたしが乗っ取るのだ。
と、どんどん心を強張らせるわたしを見かねたフレイヤが、せっかく誘ってくれたピクニックに来ていたのだと思い出す。
ふうっと息を抜いて、フレイヤと女子2人でお喋りに興じた。
美形の男子3人は、苦笑いしたりうなずいたりしながら、わたしたちの話にうんうんと耳を傾けてくれる。
「ヴェーラ陛下がエルンスト殿を狩り小屋に案内したときなど、もう、私はハラハラしっぱなしだったのですよ!?」
「だって、レトキ族の習俗に興味を持ってもらえるだなんて、嬉しかったんだもの」
地下の隠し部屋にアーヴィド王子をお匿いした日々を、エルンストに聞いてもらう。
「エルンスト殿、聞いてくださいます!? あのとき地下にはアーヴィド殿下だけではなく、私もおりましたのよ!?」
「わ、わるかったわよ……」
王都にいる限り、わたしの離宮であっても心おきなくなんでも話せることなど一度もなかった。
「え!? フレイヤ、あのときそんな風に思ってたの!?」
という話ばかりだ。
せきを切ったように喋りつづけるわたしとフレイヤの話を、黙ってうんうんと聞いてくれる美形男子3人が、なによりありがたい。
やがて、いったん満足するまで語り終えたわたしとフレイヤが敷物のうえで寝転がると、エルンストがイサクを誘って、騎士として正統派の剣技を伝授しはじめた。
わたしも身体を起こし、初冬の山肌で手合せするふたりを眺めた。
わたしの右には微笑ましげに見詰めるアーヴィド王子、左には頼もしそうに眺めるフレイヤが座る。
ふたりは乳姉弟だ。
フレイヤがコソコソと耳打ちしてくれる。
幼い日のアーヴィド王子が剣技の指南役からこてんぱんにやられて悔し涙を流されていたエピソードは、アーヴィド王子にも聞こえて苦笑いされている。
フレイヤは反乱軍への加担を決めた父と兄、それにアーヴィド王子の乳母を務めた母も王都に残している。
押し潰されそうな不安は、わたし以上かもしれない。それでも気丈にふる舞い、わたしを支えつづけてくれる。
おだやかな息抜きの時間は、わたしだけにではなくフレイヤにも必要だった。
クスクスと笑い合って過ごす。
そのとき、エルンストとイサクの剣がとまった。
ふたりは汗をぬぐいながら、ふもとにつながる道を見下ろす。
そして、こちらに目くばせした。
アーヴィド王子が頬あてのついた兜をかぶり謎の客将アーヴィにもどると、山道を駆けあがった総督府からの使いが、息を切らせて片膝を突いた。
その報せに、わたしは自分の耳を疑った。
――王都で反乱軍が決起。
王都で!?
絶句するわたしに、エルンストの父君オクスティエルナ伯爵が発してくれた急使がもたらした報せを、総督府からの使いが抑揚を抑えた口調で報告してくれる。
いそぎ総督府に戻ろうと立ち上がったときだった。
今度はフレイヤが、わたしたちの正面、東方向を指さし、顔を青ざめさせていた。
――軍影……。
まだ遥かとおくではあるものの、騎馬の一団が砂塵をあげ、こちらに向って駆けて来るのが、ハッキリと分かった。
――姉が軍を東に大回りさせたのか!?
刹那、魂が抜かれたように立ち尽くす。
わたしの両肩に、ふわりと大きな手が乗った。
ビクッと、ふり返えったわたしを、客将アーヴィの兜の奥からのぞく青い瞳が、力強く見詰めていた。
「とにかく、総督府に戻りましょう。……迎え撃つにしても、それからです」
客将アーヴィのやわらかな声で、我に返ったわたしは、急いで山を駆け降りた。




