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28.フリをしていた

夜明け前にすこし微睡(まどろ)んだけれど、すぐに目が覚めた。



――ああ……、ヴェーラ……、ヴェーラ……、ヴェーラ……、ヴェーラ……、



王太子が企てた大逆事件とされる、あのオロフ王の毒殺未遂事件が起きた晩に、


ほそい腕をわたしに巻きつけ、わたしの名を呼び続けた姉トゥイッカの声が何度も耳に蘇って寝付けなかった。


毒見のメイドが口から泡を吹いて倒れた様を、姉は切々とわたしに語って聞かせた。


それを聞くわたしは、すでに離宮にアーヴィド王子を匿い、アーヴィド王子の乗っていた馬が山を彷徨っているのではないかと気が気でなかった。



――王妃陛下も落ち着きを取り戻されたご様子。恩に着ますぞ、ヴェーラ陛下。



と、わたしを見送った宰相ステンボック公爵のツルリとした禿げ頭は、わたしに下げられるたびに城門の篝火(かがりび)を反射していた。


全員が、秘密を隠し持ちながら、凶事に眉をひそめるフリをしていた。



ひとり、なにも知らないオロフ王だけが怒り狂っていた――。



メイドの淹れてくれた朝のお茶が、口に苦くひろがる。


アーヴィド王子の朝食のお世話は、フレイヤに任せた。


とても、顔を合わせることができない。


フレイヤはわたしがアーヴィド王子に寄せる、許されない恋心に、きっと気が付いている。



――絶世の美女に、口移しに水を飲ませてもらう夢を見た。



というアーヴィド王子の言葉に、固まるわたしの顔をフレイヤに見られてしまった。


アーヴィド王子にも気付かれてしまった。



――奥さんにしてくれたかなぁ……。



と、泉のほとりで漏らしてしまったわたしの想いに、アーヴィド王子は見て見ぬふりをしてくださった。


ふたりは乳姉弟として、かたい絆で結ばれている。


だけど、



――アーヴィド王子とフレイヤをふたりきりにしてしまったら……。



という不安より、今朝はアーヴィド王子にあわせる顔がなかった。


イサクのところまで頼みに行く気力も起きず、寝室にわたしを起こしに来てくれたフレイヤに頼むしかなかった。



気が付けば、意地悪なメイドの出す料理を腐りかけでも食べるしかなかったわたしと、アーヴィド王子をおなじ境遇に置いてしまっていた。


サロンに集う貴族令息たちの笑い声は、盛夏の暑さに開け放った窓から離宮の外に、狩り小屋の粗末な壁を突き抜け、地下のアーヴィド王子にまで届いていたかもしれない。


迷惑に感じているつもりの令息たちのサロンすら、見目麗しいご令息たちに囲まれてチヤホヤされ、わたしは浮かれていたかもしれない。


浮かれた顔を、逼塞生活を強いられるアーヴィド王子に見せてしまっていたかもしれない。


強いているのは、わたしなのに。


アーヴィド王子に生きてほしいというわたしの気持ちが、正しいことなのかどうかさえ分からなくなる。



そのアーヴィド王子を(なじ)ってしまった。



姉トゥイッカの本当の姿を知ってしまった激しい動揺を、すべてアーヴィド王子にぶつけてしまった。


そのアーヴィド王子もまた、姉の本当の姿を、わたしに隠していたのだ。


それでも……、好きなのだ。


胸の奥底で、アーヴィド王子への恋心がいまも堅く揺らめいている。


だから、夜が明けて、どんな顔をして会えばいいか分からなかった。



コンコンッ――、



と、居室のドアをノックする音に、ビクッとわたしの身体がひどく強張った。


来客を知らせるメイドの声に、肩の力が抜けていく。



――来られるわけがないではないか……、アーヴィド王子が……、地下を抜け出し……わたしの部屋に……。



わたしは、ティーカップを机に置き、立ち上がった。



   Ψ



わたしの居室に、おおきな白磁の花瓶が据えられる。


なにも飾らないシンプルなフォルムは、ハーヴェッツ王国産の名に恥じない見事な曲線を描き、ほそく繊細な首に静謐で深遠な美が集まる。


まるで、姉トゥイッカの美しさを表現したかのような花瓶に、深紅から黒へと妖艶にグラデーションする花が活けられた。



「まあ……、クロユリ」



わたしがあげる感嘆の声にも、黒髪のエルンストは飄々とした風情で、特になにも応えることはなかった。


クロユリは王都では珍しい。


むしろ、わたしの故郷であるレトキ族の住まう地でよく見かける高山植物だ。


ひと晩で手配するのは、骨が折れたはずだ。



「……(わらわ)の故郷の花を、ご用意くださったのですね」


「お喜びいただけたなら、良いのですが」


「とても、嬉しく思いますわ。ありがとう、エルンスト殿」



わたしの言葉に、エルンストは丁重にあたまをさげた。


姉トゥイッカの怨む故郷を、わたしはやはり憎めない。


いつか、帰りたい。


もう一度だけでいいから、故郷の山野を駆けたい。


ひと目でいいから、故郷の風景をこの目に焼き付けたい。



「クロユリの根は球根になっていて、食べられるのですよ?」


「そうなのですね」


「子どものころ、……よく食べました」



もちろん、茹でたクロユリの球根の味と一緒に、戦争の記憶も蘇る。


乾燥させた球根は保存食になり、王国の兵から逃げるときも、大切に持ち歩いた。


王宮に入ってから学んだ花言葉は〈恋〉、そして〈呪い〉――。



「エルンスト殿の御心遣い、姉王太后にもよしなに伝えておきます」



エルンストが高価な白磁の花瓶を贈った相手は、わたしではない。


王国に君臨する最高権力者、王太后トゥイッカ陛下なのだ。


エルンストがほしい言葉を、かけたつもりだった。



「私が花瓶の献上を申し出たのは、ヴェーラ陛下とふたりでお話しさせていただく機会がほしかったからなのです」


「……えっ?」


「ヴェーラ陛下は以前とは変わられた」



花瓶を部屋に設置していたエルンストの従者たちは、すでに下がった。


ふたりきりの部屋で、虹彩のやや紫がかったエルンストの黒い瞳が、わたしを見詰めていた。



「そ、そうかしら?」



いまのわたしが見てはいけないものを見たような気がして、あわてて目を逸らした。



「……以前はオロフ王とトゥイッカ陛下に付き従われるだけの、嫋やかなクロユリのようでしたが、いまはその芯のつよさを隠されない」


「いえ……、妾など……」


「僭越ながら、私はもっとヴェーラ陛下のことを知りたい。……そう思う自分を抑えられないのです」



エルンストに求められるまま、狩り小屋に案内してしまった。


地下にはアーヴィド王子とフレイヤがいるというのに、わたしを知りたいとまっすぐ求められたことに、抗えなかった。


わたしのつくった弓を撫で、真剣な表情で吟味するかのように眺めるエルンスト。


その端正な横顔を、わたしは直視できずにいる。



――あの、オクスティエルナ伯爵家の次男なんか、どうなの?



姉の楽しげな声が、あたまの中で木霊する。



――うふっ。まんざらでもないのね。



そんなつもりは、微塵もなかったのに、わたしが弓に刻んだ部族の紋様に触れるエルンストのまっすぐな指が、


まるで、わたしの身体を撫でているかのように感じてしまう。



「……見事なものです」


「そ、そう……? 北の辺地に蟠踞する蛮族の、野蛮な習俗よ?」


「そう卑下なさらないでください。とても素晴らしい品です」



わたしが大切にする部族への想いを、丁寧にすくい取るかのようなエルンストの声音が、あたたかくわたしの胸にひろがった。



「……ひとつ、いただきたいくらいです」


「えっ!? ……も、もらってくれるの?」


「王太側后陛下が向けられるレトキ族への深い愛情がこもる逸品……、わがままを申しました」


「あ、あげる! ひとつあげる! い、いや……、下賜しよう……。授けようぞ。白磁の花瓶の返礼です。遠慮なく好きなものをひとつ持ってゆけ」



狼狽えるわたしに、エルンストはクスリともせず、丁重にあたまをさげ、弓を吟味し始めた。



――あっ。



と、わたしは一張の弓を、隠すようにひったくった。



「これだけは……、ダメなので。あとのは好きに選んでもらっていいわ」


「かしこまりました」



アーヴィド王子がわたしに贈ってくれた弓だった。側妃になった祝いに、離宮を賜った祝いに、みずから届けてくださった弓。


やがて、慎重に吟味していたエルンストが一張の弓を手に取った。



「……これをいただいても、よろしいでしょうか?」


「もちろん……」


「大切にさせていただきます」



と、宝物をもらった子どものように目をほそめたエルンストの笑顔に、わたしの胸がトクンとひとつ脈打った。


きっと、わたしは口説かれているのだ。



「また、ふたりで会っていただけますか?」



という、エルンストに、



「よ、よいぞ……、好きにせよ」



と、謎の女王様のように応えてしまった。



   Ψ



門まで出て、エルンストの馬車を見送る。


山道をくだっていく馬車の姿が、道を曲がって森の陰に消えたとき、のびやかに弾んだ声がした。



「ヴェーラ陛下ぁ~っ! ごきげんですねぇ~っ!?」


「ミ、ミア? そうかしら?」


「そうですよ~っ! だって、ご令息方を門まで見送られたのなんて、初めてですし!」



――ズケズケっ! グイグイっ!



と、思ったけど、なにしろミアだ。


憎めない無礼に、苦笑いを返すしかない。



「オクスティエルナ伯爵家のエルンストですかぁ~っ!? ヴェーラ陛下は、ああいうのが好みだったんですねぇ~?」


「そ、そういうのじゃないわよ! もう!」


「いいヤツですよ?」


「……え?」


「オクスティエルナ伯爵家は、ウチのテュレン伯爵家と付き合いが古いんです」


「あら……、そう」


「オクスティエルナ伯爵家は旧ヴィルトマーク王国の、テュレン伯爵家は旧モーネ=ステルナ王国の、それぞれ外交官の家系で、ギレンシュテット王国に併合される前からの付き合いなんですよ」


「へ、へぇ~、……外交官?」


「なんです?」


「……ミアが外交官だったら、世界はもっと平和だったかもなって」


「いやぁ~っ!? それは、褒め過ぎですよ~っ!! あはははははっ」


「あ、褒め言葉なんだ」



わたしはただ、姉トゥイッカのこともアーヴィド王子のことも、いまは考えたくなかっただけだ。


だけど、ミアの朗らかな笑い声で、心をすこし軽くしてもらった。


目をほそめ、エルンストの馬車が去った山道を、もう一度ながめた。



「アタシも、ヴェーラ陛下のような表情ができるようにならないとなぁ~」


「……え?」



両腕をあたまに乗せて微笑むミアの顔を、のぞき込んだ。


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