表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/60

19.大変ですわ

水面に浮かぶ半月を、しずかに眺めるアーヴィド王子の艶やかな唇が動いた。



「私は……、死んでもかまいません」



つぶやくような声の響きにはすこしの淀みもなく、澄んだ音色をしていた。


うすい月明かりが照らす、葉の落ちた樹々が囲む泉のほとり。


わたしは、アーヴィド王子の言葉を、自分でも驚くほど冷静に受け止めていた。



「……はい」


「ですが……」



視線をアーヴィド王子から離し、わたしも泉に映る半月を見詰めた。



「もう、死にたいとは思いません」


「……はい」


「私はいま、ヴェーラ陛下のために生きています」


「……え?」



アーヴィド王子の顔を、見ることが出来なかった。


言葉の意味をどう受け止めたらいいのか分からず、わたしの視線が泉の水面を彷徨った。



「……王国に生きる、貴族の苦しみも、民の苦しみも……、遠い出来事になってしまいました」


「……はい」


「テオドール兄上と、あれほど熱く語りあった王国の将来の手触りが……、私の手から消えてしまいました……」



わたしは寝かせていた両膝を立て、キュッと自分の身体に抱き寄せた。


アーヴィド王子のなかにポッカリとあいてしまった大穴の深さに、胸が締めつけられてたまらなかった。



「……いまの私の願いは、私を生かしてくれたヴェーラ陛下を……、悲しませたくない。……それだけです」



わたしは抱いた自分の膝を、さらにギュウッと抱き寄せて、顔を沈めた。



「アーヴィド殿下……?」


「はい」


「……喜ばせては、くれないのですか?」


「えっ?」


「悲しませないのではなく、……(わらわ)を、喜ばせてはくれないのですか?」



生贄の人質として王宮に入り、姉とは引き離され、寂しくて、怖くて、メイドたちからはいじめられても、


ひとり耐えて踏ん張っていたわたしの気持ちを解ってくれたのは、


アーヴィド王子だけだった。



――ボクたちが仲良くしてれば、もう戦争は起きないよ。



あの言葉に、どれほど救われたことか。


蛮族から送られた人質の娘などに手を差し伸べれば、むしろアーヴィド王子の名声に傷が入るかもしれなかった。


それなのに、やさしく微笑んでくださったアーヴィド王子の笑顔に、どれほど心惹かれたことか。


どれほど心惹かれ続けていることか。



「……(わらわ)を、笑顔にしてくださいませ」


「ですが……、いまの私は何も持っていません……、ヴェーラ陛下を笑顔にと……」


「ヴェーラと呼んでください」


「……え?」


「初めてお会いしたとき、アーヴィド殿下は、ヴェーラと呼び捨てでお呼びくださいました」


「それは……」


「あのときでも、妾は公式愛妾……、夫人でした。けれど、ヴェーラと呼んでくださいました。……あのときのように、呼んでくださいませ」



アーヴィド王子がどんな顔をしてわたしの話を聞かれているか、とても気になる。


だけど、抱えた自分の両膝に埋めた顔を、あげることができなかった。



「……公妾でも、側妃でもなく、……ただのヴェーラに……、戻してくださいませ」


「……分かりました」


「敬語もやめてください」


「え……、ええっと?」


「あのときのように『もう戦争は起きないよ』と仰ってくださったように、……お喋りくださいませ」


「ですが、ヴェーラ……も」


「妾は歳下だから良いのですっ。4つも歳下なのですっ。まだ18歳なのですっ」


「……ははっ」


「……妾も、自分を妾と呼ぶのをやめます。だから……、わたしに……、あのときと同じように話してくださいませ……」



ふうっと、アーヴィド王子が笑われるように息を抜かれた。



「わかったよ、ヴェーラ」


「はいっ!」



パッと顔をあげ、満面の笑みを向けたわたしに、アーヴィド王子は、はにかむように笑われた。



「なんだか……、くすぐったいな」


「慣れてください」


「ふふっ……。わかったよ」


「もう一度、名前を呼んでください」


「ヴェーラ」


「はいっ! ……もう一度」


「ヴェーラ」


「はいっ! ……もう一度」


「はははっ。ヴェーラ、ヴェーラ、ヴェーラ、ヴェーラ、ヴェーラ!!」


「はいっ! はいっ! はいっ! はいっ! はいっ!」



ふたりで、腹がよじれるほど笑った。


笑い声が離宮まで届いてはいけないと、声を潜めて笑ったので、腹筋がちぎれるかと思った。


傷が痛むのに笑いが止まらないアーヴィド王子の、背中をさすって差し上げた。


そして、泉のほとりの、まだ草の生えていない土の地面に寝転がり、夜空にまたたく星をながめた。



「喜ばせていただきました」


「それは、良かった」



それから、泉の水でアーヴィド王子の足を流してさし上げる。


ほんとうはお身体を全部流してあげたいのだけど、水はまだ冷たい。今晩は足だけにして、それでもアーヴィド王子は気持ち良さそうに微笑んでくださった。


やがて、空が白んできた。



「……太陽だな」



夜明けを報せる曙を、感慨深げに眺めるアーヴィド王子。


だけど、まだ太陽そのものを見られると、目を傷めてしまわれるかもしれない。


名残惜しかったけれど、アーヴィド王子の脇に肩を入れて抱きかかえ、立ち上がっていただいた。


ピタリと密着して――、



「……大変ですわ」


「ん? どうしたの、ヴェーラ?」


「とても……、照れくさいですわ」


「はははっ。そうだね、照れくさいね」


「良かった……」


「ん? ……なにが?」


「アーヴィド殿下と、おなじ気持ちで」


「そうだね、……ボクとヴェーラは、おなじ気持ちだ」



そして、慎重に歩いて、ふたりで隠し部屋へと戻った。



   Ψ



やがて、風に春の息吹がハッキリと感じられるようになってきた。


まもなく、新国王フェリックス陛下の戴冠式が開かれる。


それに合わせて、恩赦が発表されるはずで、その対象にアーヴィド王子を加えることが出来ないか、


その政界工作について、フレイヤと相談した。


誰もいない狩り小屋で顔を寄せ合い、ヒソヒソと話し合う。


けれど、すぐに結論を出すことも出来ず、眉間のシワを伸ばしてから、アーヴィド王子に夕食をお持ちした。


すると、アーヴィド王子の口の端があがっている。



「迂闊なことは、しないほうがいいよ」


「えっと……?」


「すぐ上からの音はよく響くんだよ」


「……き、聞いてらっしゃったんですか?」



枢密院の設置など、アーヴィド王子がご存知なかった新しい状況もある。


だけど、これまで王国の貴族たちと密な関係を持ってこなかったわたしが、軽率に政界工作に手を出すのは危険だと、やんわり窘めていただいた。



「ボクのことだからね。自分で言うのは、面映ゆいところもあるけど……、いまは時を待つべきだと思うよ?」


「わかりました……。ご忠告に従います」



素直にあたまを下げたけれど、内心は、



――い、今まで狩り小屋で、アーヴィド王子に聞かれたら困るような、変な話をしてなかったかしら……?



と、浮足立っていた。


まずは、戴冠式のあとの晩餐会で、重臣たちと仲良しになれるように努めようと、心を落ち着けて隠し部屋を出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ