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16.ゆっくりと這う指先

ひと月が過ぎた。


厳冬を迎え、山にうっすらと雪が積もったある日、王宮からの密使がわたしの離宮に訪れた。


ベンヤミン・テュレン伯爵。


鮮やかな赤色をした髪とあご髭が印象的な、初老の紳士。恰幅のいい体格で、額がひろく、大きな鷲鼻。


甥である第4王子フェリックス殿下の立太子と同時に設置された、宰相の政務を補佐する枢密院で顧問官に任じられている。


オロフ陛下が攻め滅ぼしたフィエール大公国から帰順した新参の貴族ながら、王国への忠勤に励む、謹厳な性格で知られている。


昨年の収穫祭で、わたしが挨拶を受けた貴族のひとりではある。


けれど、縁といえばその程度しかない。


そして、わたしとフレイヤを一層に緊張させたのは、ともに訪れた黒狼騎士団の団長、シモンの姿だ。


しかも黒狼の騎士を数人連れている。



その日が、来たか――。



と、身を堅くしたけれど、彼らは大人しく謁見室でわたしを待っているという。



――ただちに捕縛しようという訳ではないのか……。



胸のざわめきを押し隠し、メイドたちにドレスを着せてもらう。


そばに控えるフレイヤの表情も堅い。


あの日、フレイヤはわたしに何も言わなかった。



――絶世の美女に、口移しに水を飲ませてもらう夢を見た。



というアーヴィド王子の言葉に、わたしは何も反応することができなかった。



――救命のためにやったことです。



と、あっけらかんと言うことが出来れば良かったのだ。



――母が息子を救うためにやったこと。



と、胸を張れたら良かったのだ。


だけど、心の奥底に秘めた恋心が、わたしにそうさせてくれなかった。


嬉しかったのだ。


わたしの初めての口づけが、アーヴィド王子のなかに残っていたことが。


夢だと思われていても、喜びが込み上げるのを押さえられなかった。


だけど、



――この世に存在してはいけない、恋心。



誰にも知られてはいけない、


生贄の側妃が王子に向ける、恋心。


相反する想いがわたしの中でぶつかりあって、焼け焦げた。


そして、わたしの唇と舌とに艶めかしく蘇るアーヴィド王子の感触が、わたしの口から言葉を奪った。


その顔を、フレイヤに見られてしまった。


梯子を登り、隠し部屋を出た狩り小屋で、水平に差し込む真っ赤な夕陽を逆光に立つ、フレイヤの美しい顔をよく覚えている。


だけど、取り繕うこともできずに立ち尽くすわたしに、フレイヤは何も言わなかった。


かるく微笑んで、離宮につながる扉を開き、ひとりで戻っていった。


扉が閉まり切る直前、かすかな隙間から響いてきた、



「かあ~っ、たまりませんな……」



という、フレイヤのつぶやきの意味は、わたしには解らなかった。


ただ、フレイヤは見逃してくれたのだ。


わたしの道ならぬ恋心に、見て見ぬふりをしてくれた――。



そのフレイヤが、お人形のように美しい顔を青ざめさせて立っている。


そして、ココアブラウンをしたわたしの髪の上に、ティアラが乗り、装いをフレイヤが最終確認してゆく。



「……今日は、いちだんとお綺麗ですわ。ヴェーラ陛下」


「ありがとう……、フレイヤ」



最後になるかもしれないフレイヤの賛辞に、わたしはぎこちなく頷いた。


そして、わたしはチラッと、狩り小屋につながる扉に目をやる。


アーヴィド王子に別れは告げていない。


万が一のときには、イサクがアーヴィド王子を背負って逃がしてくれるはず。ただ、逃げ行く先も思い当たらない……。



――侮られるな。



アーヴィド王子がくれた言葉を胸に、わたしは胸を張って踵を返し、王宮からの密使が待つ、謁見室へと向かった。



   Ψ



正装のまま急いで梯子を降りた隠し部屋で、アーヴィド王子に、密使テュレン伯爵がもたらした急報を告げる。



――国王オロフ陛下、ご危篤。



思いもよらない報せだった。


ただちに王宮にあがるようにと、黒狼騎士団の隠密馬車が差し向けられていた。


気を鎮める時間をもらい、準備はすべてフレイヤに任せ、わたしは隠し部屋へと駆け降りたのだ。


せまい地下室に、いくつものダイヤが縫い込まれた正装のドレスがいっぱいに広がっている。


ご自身で上体を起こせるようになったアーヴィド王子は、ベッドのへりに背中を預けられたまま、すこし寂しげに笑われた。


そして、穏やかにわたしの言葉を受け止められた。



「……そうですか」


「アーヴィド殿下」



わたしは唾を呑み込み、アーヴィド王子の宝石のような青い瞳を見詰めた。



「なんでしょう?」


「殿下が……、オロフ陛下の最期に立ち会われたいなら、……わたしが、命に代えても取り成します」



わたしは、自分の父の、死に目に会えなかった。それどころか葬儀にも立ち会えず、遠く王都に囚われたまま、故郷のある北の空を見あげることしか出来なかった。


父の大きなゴツゴツとした手を、もう一度握ることは許されず、


その温もりは、永遠に失われてしまった。


いかに理不尽で、暴虐の王であるといえども、アーヴィド王子にとっては尊敬する父親でもあられる。



「オロフ陛下と……、御父君と言葉を交わされるなら……、これが最後になるかもしれません」



父と息子の涙の和解などという、虫のいいことを考えている訳ではない。


ただ、悔いを残してほしくなかった。


それはきっと、アーヴィド王子を永遠に(さいな)むことになる。


わたしの首を差し出してでも、アーヴィド王子をオロフ陛下の前に連れて行ってあげたかった。


だけど、アーヴィド王子は微笑んだまま、ちいさく首を左右に振った。



「……ヴェーラ陛下が、命を賭されるほどのことではありません」


「ほんとうですか? ほんとうに、いいのですか? ……御父君に、ご自身の無実を訴えられる、最後の機会になるかもしれないのですよ?」


「……父も、満足でしょう」



アーヴィド王子の目が、せまい密室の天井を向いた。



「トゥイッカ陛下にご執心の父は、怪しげな強壮薬を飲みあさっていました」


「……え?」


「あの御歳でなお、閨での睦みごとに耽溺しつづけ……、果てるのです。私の顔など見たくもないでしょう」



背筋が幾重にも凍えた。


わたしは何も知らなかった。知らされていなかった。


暴虐の王の獣欲は、姉の美しい肢体を、貪りに貪り続けていた。


姉は労苦をひとりで受け止めつづけ、けれどわたしには何も知らせず、華奢で可憐な体躯をわたしの盾として、わたしを守り続けてくれていた。


そして――、



――アーヴィド王子は、まだ何かをわたしに隠している……。



アーヴィド王子の浮かべる寂しげな微笑みの、向こうが見えない。


わたしの知らない王宮の闇がひろがっている。


姉が遠ざけてくれた小さな離宮で、わたしはずっと、アーヴィド王子にも守られていたのだ。


陰惨な王宮の闇に、わたしを巻き込まないようにと、なにも知らせずにいてくれたのだ。


これまで、ずっと。


問いただす時間はなかった。


密使は黒狼騎士団とともに、わたしの出立を待っている。



「……わ、分かりました。アーヴィド殿下の分まで、オロフ陛下にお別れを申し上げてまいります……」



とだけ絞り出し、わたしは隠し部屋の梯子を登る。


いつも近くでお世話させていただくアーヴィド王子が、急に遠くなったように感じていた。



   Ψ



初めて立ち入る、オロフ陛下の寝室。


暴虐の王が、姉トゥイッカの肢体を貪り続けた閨房(けいぼう)で、衰弱した老人が荒い呼吸を刻んでいた。


傍らに立つのは姉王妃トゥイッカと幼い王太子、甥のフェリックス。


それに、宰相のステンボック公爵が眉間にふかいシワを刻んでいる。


わたしの姿を認めた姉が、オロフ陛下の耳元でささやく。



「オロフ陛下……? ヴェーラが来てくれましたわよ?」


「お、おお……」



オロフ陛下は首をあげようとされているのに、もう、うまく動かせないようだった。


姉に促され、横たわるオロフ陛下の傍にゆく。


シワとシミだらけの痩せ衰えた手を、わたしに伸ばしてこられたので、そっと握ってさしあげ……、


ゾッとした。


指先が、わたしの肌を貪ってきたのだ。


このまま閨づとめを命じられるのではないかという……、わたしの肌を侵すようにゆっくりと這う指先。



「……よく来た、ヴェーラ」


「お、お気をたしかに……、オロフ陛下」



かろうじて声を出せた。


オロフ陛下の手のひらが、ジトッとわたしの手を握り、密着させ、味見をするように蠢いている。


全身にはしる嫌悪感を、ひたすら隠した。


寝室の外には、枢密院の顧問官たちが立ち並び〈その時〉に備えている。


だけど、宰相ステンボック公爵も含め、彼らのすべてを合わせても、暴虐の王オロフ陛下が放ってきた強大な威厳と威圧感の、足元にも及ばない。



――あなたがこの世を去れば、誰がアーヴィド王子を許すの!?



と、叫びたかった。


だけど、死の淵にある老いた国王は、わたしの手を握ったまま、まどろみに落ちていった。


わたしの肌を貪れたことに満足したのか、幸せそうにも見える醜悪な寝顔で、


オロフ陛下はそのまま昏睡状態となり、二度と目覚めることはなかった――。


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