15.息が止まった
年が明け、新年祝賀の儀に列席するため王宮へと向かう。アーヴィド王子のお世話はイサクに任せた。
久しぶりに着せられた正装のドレス。
着慣れているはずなのに、やけに窮屈に感じる。
王都の厳戒態勢は緩んでいない。
謀反人の第2王子と第3王子は、いまだ捕縛されていないのだ。
わたしもふる舞いに油断はできない。
馬車のなかで呼吸を整え、生贄の人質、暴虐の王の側妃としての顔をつくる。
はやく地下のアーヴィド王子のそばに戻りたい気持ちを、冷ましていく。
――なにか、いいことがございました?
などと王宮で声をかけられては、目も当てられない。
いつかは暴虐の王の閨に召され、部族の平穏のために純潔を捧げる。姉トゥイッカと人質の労苦を分かち合う。
その運命を受け入れた、側妃ヴェーラとしての顔を、……つくる。
苦痛が増していた。
アーヴィド王子との秘めた暮らしが、わたしの心を塗り替えている。
閨で、オロフ陛下の老いてシワだらけの手がわたしの身体を這い、すべてを蹂躙されるという想像が、いままでにない生々しい嫌悪感と苦痛をもたらす。
「……お気分がすぐれませんか?」
と、馬車で向き合うフレイヤの心配そうな声に、ハッと顔をあげた。
わたしは、よほどひどい顔をしていたのだろう。
「大丈夫よ……、すこし馬車に酔ったかしら?」
窓の外に目をやる。
アーヴィド王子を匿うと決めたのは、わたしだ。わたしがすべてを隠し通さなくてはならない。
王宮の煌びやかな謁見の間。
鮮血のような赤絨毯に転がる、わたしとフレイヤの首――、
脳裏に浮かんだ凄惨な想像に、
背筋を凍らせた。
Ψ
3日に渡る新年祝賀を終えて隠し部屋に戻ったとき、わたしの動揺はアーヴィド王子にひと目で見抜かれた。
「……フェリックスの立太子が発表されたのでしょう?」
「お……、お分かりになるのですか?」
「当然の流れですから」
新年祝賀の儀で、6歳になる甥、第4王子フェリックス殿下の立太子――つまり、王太子の座に就かれることが、
国王オロフ陛下の口から宣言された。
離宮に暮らすわたしには、重要な決定であっても、前もって知らされることはない。
玉座のとなりで、必死に動揺を押し殺した。
事態は粛々と進み……、アーヴィド王子の帰れる場所がどんどん奪われてゆく。
――いや、いまは甥の立太子を寿ぐべき場面だ。王国の……、慶事だ。
と、その場にそぐう微笑みをつくった。
黒狼騎士団長のシモンは、わたしが漏らしてしまった一瞬の動揺を、見逃さなかったかもしれない――。
ベッドに横たわるアーヴィド王子が、うすく微笑まれた。
「……ヴェーラ陛下の甥御が、次の国王に決まったのです」
「……はい」
「喜んでさし上げてください」
「ですが……」
「なんですか?」
「……アーヴィド殿下の疑いが晴れたのち……、争いになるのでは、と……」
「……たとえ、そのような日が訪れたとしても、……私はかわいい弟と王座を争ったりはいたしません」
アーヴィド王子の微笑みは、わたしを安心させるためだけのものだと分かる。
だけど、すべてを諦められたような微笑みが、かえってわたしの心を締めつける。
世界から隔絶されたちいさなちいさな泡のような、薄暗い地下の隠し部屋。
いまだ身動きの取れないアーヴィド王子の胸に、そっと手を置き、顔を伏せると、
ロウソクの炎が、わたしの影を揺らした。
Ψ
無言のままアーヴィド王子の包帯を替え、隠し部屋から出ると、
イサクが真剣な眼差しをして待っていた。
――いい人はいないの?
と、聞いた日から、時折わたしに向けてくる熱い視線から、目を逸らす。
「……どうしたの?」
「お話が……」
「……話? ……後にできない? わたし、すこし疲れてるのよ」
「……申し訳ありません。大切な話があります……」
と、狩り小屋を出て、裏庭の目立たないところに連れてゆかれる。
これ以上に、わたしの心を揺さぶる話を耳にしたくなかった。
だけど、真剣な面持ちのままで何かを言いよどむイサクが、口をひらくのを待つ。
「……アーヴィド殿下が、ご自分の首を獲れと……」
「えっ!?」
「首を獲り、王宮に差し出せと……、俺に仰いました」
激しい動悸が胸を打つ。
アーヴィド王子は、まだ死のうとなされていた。
きっと、わたしを守るために。
「……ですが」
「なに?」
イサクは真剣な眼差しで、わたしを見詰め続けている。
イサクはきっと、アーヴィド王子の言葉に悩んだはずだ。
わたしの身の安全のためには、アーヴィド王子の首を王宮に差し出すことも、悪くないと思ったに違いない。
だけど、踏み止まってくれた。
「ヴェーラ陛下を悲しませることは……、俺にはできません」
イサクは、わたしに恋焦がれている。
もはや、確信がある。
王都の路地裏から救い出した、褐色の少年は、逞しい16歳の青年に育った。
もっとも近くでわたしに仕え、日に日にわたしへの想いを募らせてきたのだろう。
あの日、わたしに向けた真剣な眼差し。
イサクがひた隠しにしてきた熱情が、こぼれ出た。
イサクの瞳に、わたしがどう映っているのか、一瞬で悟らされた。
だけど、応えることはできない。
拒絶することすら出来ない。
わたしは王の側妃で、イサクは従者だ。
イサクの想いはこの世に存在してはならないものだ。わたしが拒絶し、存在を明らかにすれば、イサクの首が飛ぶ。
イサクが心の奥底に秘める想いを、わたしは見て見ぬふりするしかない。
そして、アーヴィド王子の秘密を知るイサクを、どこかに配置替えして遠ざけてあげることも、いまはできない。
わたしのそばに置くしかない。
惹かれてはいけないわたしに惹かれてしまったイサクに、残酷なことをしているのは、わたしがいちばんよく知っている。
引き続きアーヴィド王子をお護りするようにと命じて、仕事に戻らせた。
Ψ
立て続けに揺さぶられた心の動揺が収まらないわたしは、アーヴィド王子の夕食にフレイヤをともなった。
せまい地下の密室に3人。
いまは、わたしがアーヴィド王子とふたりきりになることも、
フレイヤをアーヴィド王子とふたりきりにすることも出来なかった。
やきもち、ではない。
アーヴィド王子から「殺せ」と頼まれたら、フレイヤはその願いを叶えてしまうかもしれない。
ふたりは乳姉弟として、堅い絆で結ばれている。
お似合いのふたりに、妬ける心がない訳ではない。むしろ、はっきり妬いている。
――いいなぁ……、フレイヤはアーヴィド王子と仲良しで……。
と、いつも思っている。
くだならい冗談を言い合って、笑いあうフレイヤが羨ましい。
フレイヤに向けるアーヴィド王子の砕けた笑顔を、わたしにも向けてほしい。
だけど、いまはそのフレイヤを頼るしかないほどに、わたしの心が乱れていた。
わたしがアーヴィド王子を抱きかかえるように密着して、兎肉のシチューを食べさせている間、
フレイヤが、くだらない昔話でアーヴィド王子の心をほぐす。
わたしは、それを黙って見ていた。
食事を終えて、横になったアーヴィド王子が、ふふっと笑った。
「なんですか? 意味ありげに笑ったりして? 美人ふたりを前に、失礼ですわよ?」
と、茶化すようにフレイヤが言った。
板を張り付けただけの天井を見詰めるアーヴィド王子が、愉快気に口をひらいた。
「意識を失っている間に、……夢を見たのを思い出したのだ」
「あら、楽しい夢だったのですね?」
「ああ……。絶世の美女が、私に口移しで水を飲ませてくれるのだ」
息が止まった。
身じろぎひとつ出来ない。
「あれは、ひょっとしてフレイヤだったのかな?」
「まさか!? いくら乳姉弟だからといって、そこまでしませんわよ。いやらしい夢。ねぇ、ヴェーラ陛下……」
と、フレイヤがわたしを見た。
「え、ええ……、そうね……」
だけど、フレイヤの方を向けない。
フレイヤが、わたしをジッと見ていることが分かるのに、うまく笑うことができない。
天井を見たまま微笑むアーヴィド王子を、見詰め続けた。
「はははっ。そうだな……、女神様がまだ生きろと仰られていたのだと思うことにしよう」
「ええ、そうですわね」
と、フレイヤが、穏やかな声でアーヴィド王子に応えてくれた。
「よい夢を見られましたわね」
「ああ、この世のものとは思えない、やわらかな唇だった」
「まっ、いやらしい。年頃の乙女ふたりを前にして」
「はははっ、すまんすまん」
アーヴィド王子は眠り、わたしとフレイヤは隠し部屋から出た。
――誰にも知られてはいけない、わたしの恋心に……、フレイヤは気が付いただろうか……?
真っ赤な夕陽がさし込む狩り小屋で、なにも言えずに立ちすくむわたしを、
フレイヤが、ジッと見詰めた。




