多恵さん旅に出る Ⅺ2024/08/08 17:03
京都から帰って冬が来た。しかしこの頃の冬は寒かったり温かだったり、平均すると暖冬だとかと発表される。暮らす我々にしてみれば、暖かい日から寒い日へと蹴っ飛ばされる訳だから、物凄く寒く感じられるのは、物の道理というものだ。フン、何が何時もの年より温かかっただと、彼らの所為ではないと分かっていても、気象庁を恨んだりして。
新しい年が巡って来た。娘の真理ちゃんが、いやもう直ぐ中3になるんだ真理さんと言おう、その真理さんが演劇部の顧問山岡先生の様子がおかしいと心配してる。
「先生に直接聞いたら?」と多恵さんが薦める。
「そうだね、そうしなきゃ次の劇の台本、書けないもん」
で、聞いて来たらしい。
娘が説明するには、山岡先生は演劇で有名な高校がどうしても真理を欲しいので、その代わり他の演劇部の部員が望むなら全員、推薦で高校の入学を認めるとの話に思わず乗ってしまったとか。
一方校長始め先生達は、真理さんが良い加減に演劇部を辞めて勉強に勤しみ、大学受験で有名な所を受験して欲しい、と山岡先生に圧力をかけているらしい。
そこで真理さんの取った行動は?
真理さんは決心した、受験校も重なっていない限りみんな受けよう。そして演劇高校も受験して入る。勿論、入ったからには演劇もある程度は続ける。
これを聞いて復活した山岡先生、台本の原作として、そこいらにあった、若いころ買った本を何気なく取り上げた。でも他の人達から見れば少々ケッタイナ内容で、台本を書く真理さんも困惑中。
あれから祖父母や父達の霊と幽霊さん達はどうしているのか?
余りほっとくのも冷たいかなと、暖かい日を選んで六色沼へ。
うーん、思いは同じで何時もは人影もまばらな冬の六色沼公園に、今日の温かさにつられて散策人が多いようだ。これでは人気のない所を探さねばなるまいて。
少し茂みになっている所に行く。おや?誰かいる。男の子だがまぎれもない幽霊さんだ。
「こんにちは、あなた一人なの?」
彼はこっくりと頷く。中学生か高校生ぐらい。
「自殺したの?」単刀直入に聞く。
彼は首を激しく振った。
「誰かに恨みがあるのね」
頷く彼。
「そう、辛い目にあったのね」
少し風が吹くとやはり1月、日陰でもあるので冷たく感じる。
「で、ここでその人を待ってるの?」
首を振る。
「わたしを待ってたの?」
こっくり頷く。思わず多恵さん笑ってしまった。
「御免なさい、あんまりあなたが首だけで返事するものだか。でも一つ聞いても好い?」
又彼が頷く。
「じゃああなたの名前を教えてくれない、名無しの権兵衛さんじゃ困るから」
暫く彼は黙っていたが、賑やかな集団が直ぐ近くの小道を通り過ぎると顔を上げ、多恵さんの顔を見詰めて口を開いた。
「俺、俺竹内久と言います。は、初めはあいつ等のとこに出てやろうと、その周りをうろついていたんだけど・・何か寒いなあ位しか効果がなくって・・何とかも少し怖がらせたいと努力したんだけど駄目だった。それでフラフラここいらを歩いていたら、年が同じくらいの女の子二人に会って、このまま行ったら悪霊になる、早くこの公園に来る絵描きさんに会って助けてもらえと教えてもらったんだ」
『ああ彼女たちね、彼女たちは心中して戦場ヶ原を彷徨っていた所に出くわしたのよ。ええっと、そうそう瑠璃ちゃんと奈々ちゃんだったわ。彼女たち今恨みは忘れ、絵とピアノの練習に励んでいるわ。勿論他の勉強もね」
「練習したり勉強続けてどうするんですか?」
「そうね、不思議よねえ。現世ならみんなに称えられるかも知れないのに、死んでから技量を上げたり、勉強してどうするんだって思うでしょう?でも、幽霊界だって見てもらったり、聞いてもらってみんなから称えられるのって嬉しくない?それに本人だって上達したり知識を深めていく事自体が楽しくって嬉しいのよ。そうこうしている内に、深い思考の中であの世に行ったり、守護霊になったり、はたまた生まれ変わって生きてみようかと思う人も現れるの」
「ふうん、俺は今は絶対生まれ変わりたくないし、守護霊なんてなりたくない、絶対に」
「きっと辛い人生だったのね」
「お袋がさあ、変な奴を好きになってしまってさあ、そいつがしつけと称して、俺を散々痛めやがったんだ。お袋もそれを見て見ぬ振りなんだ。学校も薄々気付いていたんだ。それで俺を擁護施設に入れるよう手筈を付けてくれたんだけど。お袋がさあ近所の体裁が悪いだろ、なもんでこれからは心を入れ替えて可愛がります、暴力は絶対に振るわせませんと言って取り下げさせたんだ」
「それで少しは収まったの?」
「本の一時だけ。その後我慢した分酷くなってさ、お袋までに手を上げるようになったんだ」
彼はじっと沼を見つめる。水面が時折吹く風で細かく波だった。
「それで俺、お袋を助けようと止めに入ったんだ。カッとした彼奴はもう手が付けられないように怒ってさあ、殴る蹴る、最後は俺を投げ飛ばしたんだ」
「でもその時はまだ大丈夫だったのよね」
「そう、その時お袋が救急車を呼べば助かったんだろうけど、お袋はあいつが怖くて俺に布団をかけただけだった・・・」
少し日が傾いて来た。でもこの少年をそのままにするわけに行かない。
「でも俺はこのまま死んでも良いと思っていたよ、生きていてもこいつに又いじめられるんだからね」
「駄目よ、そんなときは逃げるのよ、警察にでも学校の、そうねえ校長室に逃げて助けてくれって叫ぶのよ」
「うん、でも結局手遅れで、俺はめでたくこの世とおさらばしたんだ」
「ありがとう、良く話してくれたわねえ、そんな辛い話を。ちょっと待ってて、あなたの仲間を呼び出すから。あなたと、も少し話をしなくちゃならないにだけど夕暮れが近いわ、わたしは主婦だから買い物行って、料理も作らなくちゃならない。ええ、あなたを一人にはさせないわ、愉快な人を紹介するから彼の所に暫く行ってて頂だい」
多恵さん、少年から少し離れて杉山君に念波を送る。
「久しぶりです、河原崎画伯。京都以来じゃないですか?ほんとに連れないんですから」
相変わらずテニスウエアの服装にラケットを持った姿だ。
「そう言われるんじゃないかと思っていたわ。でまだ国際試合はやっていないの?」
「はいまだやっていないです。大体外国人いるんですか?」
「あなたは外国人と言ったら髪は茶色か金髪、目は青と考えているでしょう?」
「そうじゃないんですか?うん、めったに見ないけど黒人もいるかあ・・」
「でもわたし達の周りで一番多いけど、黙っていれば分からない外国人を忘れてない?」
「え?うーん、そう言う事ですか。結構多いですよ中国人、それに韓国、朝鮮人。多い多い、ころっと忘れてました」
「ほかにこの頃はタイやベトナム、フイリッピン等南の人達もいるわ」
「待てよ・・確か俺がここから連れて行った中にも居た筈だよ。だとするとおじい様は相手のチームも教えていることになりますよ」
「おじいちゃんはテニスを教える事が好きだからそんな事は構わないのよ」
「ヘヘヘ、実はですね、おばあ様達を連れて行ったでしょう」
「ええ、それがどうかしたの?」
「おじい様はおばあ様達がうんと若返られたもんだから、それを見て自分も若返ろうと思われたんですね」
「まあ分かるわ。それで何歳位に戻ったの」
「はい最初は遠慮して40歳ぐらいになられたんですが・・テニスをするのにはも少し若い方が好いと、色々迷っていらしたみたいで」
「まさか中学生の年頃にまで若返ったとか」
「よ、良く判りましたねえ」
「えっ、本当におじいちゃんが中学生に戻ったの?」多恵さんあわてる。
「ハハハ、自分でもおかしいとと思われて、最終的には30歳前後の年になられました」
『ああ良かった。赤の他人が幾つに戻ろうが関係ないけど、おじちゃんが中学生なんてねえ、とっても嫌だわ」
「まあそうでしょうね、でもおじい様には若返る理由があったんです」
「ふうん、どうせテニスの為でしょう。教えるだけじゃ面白くない、自分も若い者に交じってやりたーいとか」
「当たりー。そうなんです、今度は自分が選手になって一番弟子の誠君と試合やってるんです」
「へー、天使の誠君とねえ、うーんこれは国際試合でなく、天国対あの世の戦いだわ。でどっちが勝ったの、おじいちゃんと誠君?」
「はあそうですね、今の所誠君の方が優勢かな」
「天国の方が優勢か。それはそうよね、天国に行くには厳しい条件をクリアしなくちゃならないんだから」
「それに、おじい様は今まで教える方に夢中でしたから、実戦に不慣れと言う事も大いに関係あるように思います。慣れてくれば二人の勝負分かりませんよ」
本当に日が落ちかかり、寒くなって来た。
多恵さん、振り返ると久君が大人しく同じ所に佇んでいる。
「杉山君、この子竹内久君と言うの、この子さあ、親の虐待で」
「親じゃありません、あれは単なる母の同居人です、母と同居人の間には子供はいましたけど、俺と彼奴は全くの他人だし、親と呼べる様な代物でもありません」
「うん、中々辛辣だなあ、余程酷い虐待を受けたんだろう」
「ええ、本人が話したがらない程ね。だからあなた方みたいな優しそうな人は良いけど、乱暴そうな人には絶対近寄らせないで・・もしかしておじいちゃんもかも」
「えー、おじい様もなんですか?あんなに優しいのに」
「うん、おじいちゃんは今は優しくなったけど、昔はかなり暴力的だったらしいわ。特にわたしの母に対しては。だから少しだけ間を空けていて欲しいの」
「わ、分かりました」杉山君が久君の方に一歩近づく。
すると久君、一歩下がる。
「久君、彼は大丈夫よ、決して何もしないわ、それどころかあなたを守ってくれる人なのよ。だから勇気を振り絞って、彼と一緒に行動なさい。明日又ここで会いましょう」
久君暫く考えていたが、ようやくコックリと頷いた。杉山君も出来る限りの優しさを込めた笑顔を作り彼に近付く。
「久君、今日さ君は勇気を出してこの人に近付いたんだろう?今もう一度勇気を出して俺と一緒にみんながいる所に飛んで行こう。ここに一人でいるより楽しいと思うよ。仲間もいるしさあ」
「仲間?」
「そう仲間、友達だよ。みんな君が来るのを待ってるよ。もし、変な奴がいたら俺が必ず守ってやるからさあ」
杉山君がそっと手を差し伸べる。少年は一寸躊躇したが、きっと歯を食いしばり杉山君の手をとった。
杉山君は多恵さんに笑って挨拶をして消えて行った。
翌日、昨日とは打って変わって猛烈に寒い日となった。風も容赦なく吹きまくっている。
「お母さん、今日はすっごく寒いよ」真理さんが六色沼を見ながら呟く。
「そうね、大体一月の終わり頃から2月の初め頃が一番寒いのよ」
「あれお母さん、この間成人式の頃が寒いと言ってなかったっけ」
「フフフ、寒さにも段階があるのよ。まずは3学期の始まる頃、ググっと寒くなる、次に成人式の頃、北風が吹き荒れて、髪にさした簪も吹き飛ぶは着物の裾はめくれるは、散々の思い出。そして最後にお出ましの今なのよ」
「でも今頃高校の受験と重なるのよねえ、私立の」
「あ、もしかしてお隣の武志君受験なの?」
「多分ね、」
「でも雪にならなくて良かったんじゃないの、あなたのおじさんの時は雪に降られて電車はストップ、お友達のお父さんがみんなを乗せて行って下さって助かったと母が言ってたわ」
「武志君寒さに負けずテスト、上手く行くと好いね」
母と子の会話はこれで終了、真理さんは学校へと出かけて行った。
その後、大樹さんも昼食を済ませ大学へと向かった。
多恵さんは後片付け、洗濯物、掃除を済ませ、先日出かけた京都の絵に取り掛かる。
これはスケッチブックを見て、輝美ちゃんの父親関係からの注文で、殆ど6号サイズの小さいものだ。でも折角の色鮮やかな紅葉の世界を、絵具が乾かぬ内に色を重ねてくすませてはいけないので、何枚かキャンバスを並べ乾いたものから絵の具を重ねて行く。
ああ、本当は京都のその後を聞きたいと、杉山君を呼び出そうと六色沼に出かけたのに、あの少年に会ってしまった。今日こそはあの少年を元気づけた後聞かなくちゃあ。それにおばあちゃん達もやけに静かだ、我が家にも全然やってこない。正月くらいは来るだろうと心積もりしてたのに。
ああそうだ、と多恵さんは思い出した。去年も熱海等で温泉と宿が催す芝居や踊り歌に魅せられて、
愛しい孫の事などころりと忘れて過ごしていたのだっけ。それに娘の夫が階段から落ちて緊急入院してる事さえも忘れていたようだ。
それに今年はその緊急入院して、酒浸りの生涯を閉じた夫、つまり多恵さんの父親も一緒。この父親が又温泉大好き人間だから、多分一緒に過ごしているに違いない。勿論父は芝居も踊りも歌も全然興味なし。酒とつまみがあればこの世は天国。あ、後はあったぞ、船と何故かギアナ高原。も、もう一つ、いや二つ
サッカーと剣道を忘れちゃいけない。失礼しました、お父さん。多恵さん謝る。
「まあ昼食を食べたら出かけて行こう」
何時もは緑の多い多恵さんの仕事部屋だが、この京都の絵を描き始めてからというもの、真っ赤に燃えている。
『ああも少し、落ち着いた色調の画を描きたいわ」
どうも京都での紅葉の洪水に巻き込まれ、溺れる寸前だった身には、赤い世界は息苦しい。
電話が鳴る。
「もしもし、河原崎さん?わたし、そう当たり、花を描かせれば日本一の柏木画伯よ。ハハハ、言われてみたいこと、全部自分で言ちゃった」
「フフフ、そうね、何ならわたしが毎回言ってあげても構わないわよ、当たらずとも遠からずだもん」
「そう、嬉しい。あなた、今京都の絵描いてるの?」
「ええ、スケッチブックからお得意さんに選んでもらって、それを並べて描いてるのよ。少し食傷気味」
「うん、分かる分かる。赤い絵の具に負けちゃうのよね。緑や青い絵の具だったらそう言う事、殆どないのに、例え全身緑の絵具にまみれて、緑魔人と化してもよ」
「あ、あなた、もしかしてわたしの描いてるとこ覗いた?」
「ハハハ、覗くわけないでしょ、幽霊さん達じゃないんだから。そうよわたしも緑魔人になる事幾度か、同じよ、あなたと」
「で同じ穴のムジナさん、今日は何の御用でしょうか?」
「あ、そこよそこ」
「え?何処よそこって」
「だからさ、ムジナじゃなくて画伯って言って欲しかったなあ」
「あ、御免なさい、さっき言ったばかりなのに、じゃあ改めて花の絵を描かせたら日本一同じ穴の柏木画伯、今日は何の御用でしょうか?これで良い?」
「柏木画伯だけで好いのに・・ま、いいやどうせ心にも思っていないのに、うんムジナで結構、ムジナが一番。これからわたしの事ムジナ一号とお呼び、あんたの事もムジナ二号と呼ぶからって冗談よ。ねえあなた、今の画の目鼻がついたら梅の花描きに行かない?」
「梅の花ー、わたし梅の花、苦手なんだなあ」
「あらーどうして?分かった、あなたのお母さんが梅の花が大好きで、あなたをないがしろにして梅の花を育てたと言う事ね」
「ハハハ、うん確に母は梅が好きで、盆栽の梅は育てていたけど、そうじゃないの梅の花って香りは凄く好いけど、油絵にするとなると捉え所がなくて」
「それはねえ、あなたが梅を木として捉えようとするからよ」
「あなたは木として捉えてないの?」
「うん、花を描く時は花として捉えるの。花を描く、他は私にとっては付け足し。そりゃあ幹も根っこも大事だわよ。でもさ日本画だったら尾形光琳みたいにさあ、幹や枝ぶり描いてさあ花を描いても、ちゃんと存在感を主張出来るけど、どうしても油絵では全体描いて、おまけに周りの景色まで書くと、花は埋没してしまう。他人が見たらそれは一体何の花?と思ってしまうような絵になってしまうのよ」
「そう、そうだったのねえ。あなたの絵は何時も主役は花そのものだわ。うん何だか梅の花描けそうな気がして来たわ.それで何時何処へあなた、,いえ柏木画伯は描きに行く積もりなの?」
「ヘヘヘ、そう来なくちゃあ、梅と言えばまずは水戸が有名、それに熱海もあるし、遠くでなくとも、東京だって沢山あるわ」
「決めかねているのね、未だ」
「うん、実ははっきり決めてないの、晴れ女のあなたの返事を聞いてからと思って」
「又わたしの晴れ女伝説に勲章をかけようと言う魂胆ね」
「ヘヘ、まあスケッチするには晴れていなくちゃあね。もしあなたに振られたら都内の晴れた日に行こうと思っていたの」
「そうねえ都内だったら咲いてさえいたら何時でも行けるわ」
「でもさあ、たまには遠くに出かけて描きたいわよ、泊りがけで」
「あなたみたいに世話を焼く人間がいなくてもそう思う訳、わたしが言うのなら分かるけど」
「いや、何時も一人で描いて、一人で片付けて、一人で寝るって寂しいものよ。たまには気心知れた友達と一緒に絵を描き、感想述べたり聞いたりして夜を過ごし、寝るなんてしたい訳よ。分かる?君みたいに物分かりの良い旦那と出来過ぎの娘を持ってたら、分かんないだろうね」
多恵さん、暫し無言。この間の旅行も、その前の旅行もその道中、ああ柏木さんに一声かければ良かったと思わないではなかったのだ、と多恵さんに悔悟の思いが寄せてくる。
「御免、分かんなかった、今度からもし他の人から誘われたとしたら、あなたに必ず声かけるから許して頂だい」
「フフ、別にさあ京都に一緒に行きたかった訳ではないのよ。でも、わいわい賑やかで楽しかっただろうなとは思ったりして。では、気を取り直して‥うーんこの頃暖冬で花の時期が早まってるのよね、でも寒い時は凄く寒いんだ、これが。しかし、我々は画家だ、寒いとは言ってられない・・二月の中旬から下旬でどう?場所は水戸と言う事で」
「実は私、水戸には行ったことがないのよ」
「ハハハ、実はわたしもなの」
「ええっ、あなたも初めてなの、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。初めての所ってワクワクしない?このわくわくした気分で乗り込めば名画間違いなしよ、任せなさい」
「はあ、ほんとに任せていいの、誰かに聞いてみた方が?茨木の会員の人いるんじゃない、会員名簿探して聞くってどうお?」
「それも名案ね、じゃあ、それも一つのプランに入れておくね。詳細は後程、こう期待」
と云う訳で柏木さんの電話は切れた。
さて、お昼を済ませ、六色沼へ向かう事とした。
ほんとに今日は寒いようだ。1時を過ぎた頃なのに吹く風が冷たくて顔が強張る。おかげで人影は全く見えない。
「こんな日に公園を散歩するなんて、余程寒いのが好きか変人よね」と多恵さん、一人笑う。
でも幽霊さんには寒さなんて関係ない、良介君なんか北海道で雪に埋もれていたのを、杉山君が掘り起こして来たと杉山君が言っていたことがある。うん?あれは冗談だったのかな。まあ良い、早くその杉山君を呼び出そう。
「はいはい、お呼び出しを待っていましたよ」
杉山君が現れる。昨日の久君も現れる。そこまでは分かる。でもついでに石森氏も良介君も更に天使の誠君迄も現れた。
「あらあ、みんなでやって来たの?」
「みんなではありません、おじい様もお父様も、それに女性軍は一人もいません」
杉山君が抗議する。
「まあそれはそうでしょうが、私が考えていたより多かったから」
皆テニスウェアに手にはラケットの出で立ち。久君迄もだ
「久君もテニス姿なの?」
昨日最後にあんなにおじいちゃんには近づけないように言っておいたのにと、多恵さんは杉山君を少し睨む。
「ええ、久君がテニスの試合を、おじい様と誠君の試合を見学してて、俺もやりたいと言い出しまして
・・それで誠君にこっそり身の上を話して、出来たら誠君に教えて欲しいと言ったんです」
「そこで僕がおじい様に僕も弟子が欲しいので、久君を弟子にしていいかと申し出たんです。そしたら、人に教えるのは自分の勉強にもなる、ちょっと体が細くて背も低いけど若いからその内体もついて行くだろうと、快く承知して下さいました」
「へええ、おじいちゃん、すっごく物分かりが良い、見直しちゃった」
「河原崎画伯はおじい様のお母様に対する虐待の事で心配なすっているんでしょう?」杉山君が尋ねた。
「そう、そうなのよ、兎も角昔は酷かったらしいわ、癇癪もちで」
「地震雷火事親父、そのままですね。でも確かにその気質は今も幾分残っていらしゃるようですが、自分でも反省して大分弱まっているようですよ、はい」
「まあ兎も角暫くは久君は誠君からテニスを習うのね。誠君はああ云った中でも一番優しいのよ、安心して彼からテニスを習ってね」
久君。コックリ頷く。
「勉強も教えてもらうと尚良いわね。でも焦る事はないわ、時間はたっぷりあるんだから。それに何か他の事に興味が沸いたら、その時は自分の口ではっきり、誠君でも誰でも好いから伝えてね。言わないと伝わらないことがこの世には沢山あるし、それを言ってあなたに暴力をふるう人は、もうあなたの周りにはいないんだから」
多恵さんは久君の事が昨日出会ってからずっと気になっていたが、誠君が面倒を見てくれれば一安心。
「で。石森さんに良介君はどうして今日杉山君にくっ付いて来たの?」
「ど、どうしてって、俺達は同志だからなあ、良介?」
「ええ、そうですよ、増して誠君が杉山君と一緒に行くんなら尚更です」
「この頃蕎麦屋は如何してんの?冬も暖かいソバって人気あるんじゃないの」
「ええまあそうなんですが、ひと頃よりみんなの興味が無くなって」
「まあ、飽きたのかしら、あなたの沽券にかかわるかもしれないけど、少しレパートリー増やしてみたら?そうそう、おじいちゃんの向こうを張ってソバの打ち方の教室始めたりしたら、いい加減テニスに飽きてる輩が集まるかも知れない」
「そ、それは好いアイデアですが‥あ、あのおじい様が怖くて言い出せないですよー」
「そう、おじいちゃんねえ、父はソバ好きだけど、おじいちゃんがソバを食べるの、聞いた事ないわ。何しろ九州人だし海軍にいたし、戦争終わったら長崎にずーっと住んでたからねえ・・ソバと言うものを心して味わったことがないのよ。どう、怖いだろうけど、あなたが自分で一番おいしいと思うソバを作って食べてみませんかと勧めてみたら?それでその周りでみんなで美味しい美味しいと食べるのよ。彼が美味しいと認めたら、このソバを自分で作ってみませんかと誘うのよ。お爺ちゃんって器用貧乏だからよし作ってみようと言う事になるわよ、絶対に」
「本当ですかあー」
石森氏半信半疑、それに怯えの色も見える。大分、九州弁否鹿児島弁でテニスのコーチを受ける際、火炎放射を浴びたらしい。鹿児島弁で怒鳴られるのってかなり、怖いらしい。
「分かりました、僕達二人が誘って勧めます」
良介君と誠君が顔を合わせて応じてくれた。
「あ、それが良いよ。おじい様は出来の良い二人には弱いですからね」杉山君も賛同した。
「じゃあ決まりね、桜も何人か用意してなくちゃいけないわ」
「ソバ好きの奴が何人かいますからそいつらに旨い旨いと言わせましょう勿論杉山もだぞ」
「も。勿論ですよ、きょ、協力しますよ、なあ久」
「え、俺、俺もですか」
「ソバ嫌いか?」
「い、いえ、あまりこの頃食べた事なくて」
「美味しいの食べさせてやるよ、飛びっきりのな」
「あ、ありがとうございます」
久君が笑った。でもその次に泣いた。
「おいおい久、こんなことぐらいで泣くなよ、おじちゃん吃驚してるじゃないか」
杉山君が久君の肩を優しく抱いた。
「お、俺、こんなに優しい言葉かけられたの・・もう忘れるくらい前だから」
「でさあ、お取込み中なんだけど、2月の中頃茨木の水戸に梅の花を描きに行くわ。一応報告ね。それに今回はみんなが知ってる柏木さんと行くの」
「2月と言えばもう直じゃありませんか、も少し早く行ってもらえればその心積もりをしてたのに」
「えー、幽霊さんの心積もりってどんな事」
「そう言われれば俺どんな心積もりをするんだろう。まあ話が急で少しごねて見たかっただけです、はい」
「でもね、これはさっき、電話が鳴って決まった事なのよ。前に決まってたことを今言ったんじゃないの」
「そうでしたか、柏木さんが急に言い出したのが悪いんですね」
「別に柏木さんも悪くはないと思うけど‥彼女さあ長い事一緒に旅行してないでしょう?だから寂しくなって電話して来たの、京都にも三波渓谷にも声かけていなかったし」
「つまり、河原崎画伯へのラブコールですね」
「まあそんな所ね。だから急でもしょうがないの。それに彼女自身水戸には行った事なくて、何もかもこれから決めるのよ」
「へええ、行ったことがない。でも大抵の旅の始まりは行ったことがない場所から始まるんですよね」
「旨い事言うわねえ良介君、そう、何でも始めは分からない、だからワクワクするのよ、彼女がどんな所に誘ってくれるか楽しみにしてる‥でも彼女も初めてだからどうなるか。それを含めて楽しみにしていよう」
それから2,3日彼女から電話があった。
「ええっとさ、水戸だけじゃ詰まらないと思うでしょ。だからさ交通の便の良し悪しによりけりだけど、あなたの為に取って置きの場所がある事に気付いたの」
『へー、わたしの為の場所?季節がズレてるのなら、ネモフィラとかコキアなんて言うのがあって、でもそれは私の為と言うより、あなたの為の取って置きの場所よねえ」
「そうね、も少し時期がずれてたら、ネモフィラを描きに行ってたんだけど。幾ら暖冬と言ってもまだネモフィラは咲いていないわ」
「残念でした。でどこが取って置きなのよ?」
「今年は暖冬で凍っているのは無理だと思うけど、結構雨が多かったでしょう?
「何々凍っているのは無理?雨が多かった?あなた、何時から天気予報士になったのよ」
「ハハハ、所であなた華厳の滝見た事あるわよねえ、この間日光に行ったときはパスしたけど」
「そうだったわねえ、でも行ったことあるわ。うんと若い時には描きにも行ったし」
「じゃあ、この間野口さんと行った紀伊半島の旅では那智の滝はどう?」
「那智の滝?描いたわよ、心を男に変身して思いっきり勇壮にね」
『ああ、思い出した、瀞八丁と一緒に発表した画だ。あんまり瀞八丁の絵が素晴らしくて、その印象しか残っていないのよ、御免なさい」
「うーん、そうか。まだまだ滝を描く技量が不足してるのよ、もっともっと滝を描く時は雄々しくなければ、滝の勢いに負けるわねえ」
「じゃあ今度又挑戦してみる?」
「え、水戸に滝があるの?」
「ヘヘヘ、水戸市じゃないのよ、もっと北西、山の方なの」
「だから凍るって言葉が出て来たんだ、どんな滝?大きいのそれともこじんまりした滝?」
「あなた関東の人間よね」
「そうよ、藪から棒に」
「本当はね華厳の滝が出て来た時に思い出して欲しかったんだ。でもそう言うわたしもつい忘れていたんだけど、高さ120メートル幅73メートル、日本三名瀑の一つ袋田の滝。分かる?」
「え、あ、袋田の滝かあ。あれねえ実は母は長崎の育ちだから、初めてテレビで袋田の滝を見た時、日本にもこういう滝があるんだと知って、凄くショックを受けていたの。しかも関東にあるってことで、父に行こう行こうって言ってたんだけど、のらりくらりと逃げられて、ついに願いはかないませんでしたとさ」
「そう、海のある県にも住めず、袋田の滝にも行けず、可哀そうなお母さんねえ。では娘がそれをクリアするなんて好いじゃない?どう、行く気ある?」
「勿論、滝描くのだーい好き。わたしも母に負けないくらい、袋田の滝行きたかったのよ。只父が道がどうのとか、山奥で遠すぎるとか言ってたので、余程辺鄙な所にあって、行くのが不可能と思いこまされてたのね。うーん許されざる父親だ」
「お父さんにはお父さんなりのきっといけない理由があったんでしょうね。水戸駅から水郡線で行くらしいけどまだはっきり調べていないの。お母さんの為にも何とか調べて行きたいわね」
ドンと胸をたたいた柏木さんだったが、これが難航不落の足、アクセス調べとなり、大幅な予定変更になってしまう事になるとは、多恵さんも柏木さんもこの時は思いもしなかったのだ。
一方娘の今度の劇で、着古した、どちらかと言うと汚れてはいないが(望むらくは)ボロボロの服が入用になって、白羽の矢がこの画家の作業服に刺さってしまったのだ。
成程、どう考えても誰もお出かけするような服を着て、絵は描かないようだ。致し方ない何とかしようと、承知せざる得ない。
一人は娘用だから、この所痛みが酷くなったので取り替えねばと思いつつ、捨てないで着て来た作業服を回すことにして落着した。後2枚男物がいるとか。一人は娘の幼馴染の一人敦君。もう一人は大柄の男性用。どうもこの3人が汚れ役の3人組らしい。
元同じ美術会員の夫婦でその片方の男性だけが画家としてやっている、と言う多恵さんとしては余り納得いかないカップルに方々電話してみた。
ありがたい事に何とか敦君用を手に入れ、次に大柄用も手に入れる事が出来た。もし合わなかったら衣装部が直すと言う条件付きだ。
「ええ良いわよ、もういい加減新しいのに変えたかったから丁度好いわ。モチ良ーく洗っておくわよ」
大柄亭主を持つ垣田夫人が承知した。じゃあ取りに行きますと申し出たらあっさり断られた。
「あなたの住んでるマンション、素敵なロケーションって聞いたわよ、えーともう一人は誰?ああ林葉さんね、彼女と二人で行くわ。二人でじっくり見学させてもらうわ」
「えー、そ、それ困るなあ、わたし片付けるの苦手だから、もううちの中滅茶苦茶なんだから。それに娘が私以上に酷いから。我が家で人様に見せられる所と言えばあ、大樹さんの、大樹さんの部屋だけよ。この間覗いた時も綺麗に片付いていたし、掃除もしてあったわ」
「え、大樹さんってあなたのご主人の」
「まあそうだわねえ、他に男はいないから」
「あなた、大学教授に部屋掃除させてんの」
「ううん、教授じゃないの准教授なの」
「ど、どっちでもいいわ、大学教授に掃除させるなんて、あなた食べさせてもらってるのでしょう?」
「ええ、でもこの頃は私の絵も売れるようになって来たから、彼のパトロン生活も大分楽になってきたと思ってんだ、ハハハ」
「兎も角今度の・・土、日はその教、教授がいらしゃるから駄目だし」
「あら大樹さんなら全然構わないわよ、娘の方はいない方が好いけど」
「わ、わたし達が構うのよ、教授なんて代物は何となく虫が好かないの。あなたは良く傍で暮らしているわねえ、哲学なんでしょう、教えてるのは」
「そうよ、でも別に哲学の講義しながら掃除したり、おしゃべりしてる訳でないから。大樹さんが言うには日常のどんな事でも哲学に繋がるんですって。哲学なんて名前が良くないのよねえ、もっとソフトな名前にしたらも少こーしみんなに愛されたかもしれないわねえ。うん、綿学とか水学、布団学なんて好いかも、でもそしたら講義中みんな寝てしまったりしてハハハ」
「もう、そう今度の金曜日にするわ、今度の金曜日、わたし達の座れるところぐらいは片付けといてね」
「うーん、じゃあ、今度の金曜日、ワザワザ来てもらうんだからランチ、お昼ご飯食べてもらおう」
「へええ、河原崎さんの作ったランチ頂けるの、胃薬持参でお伺いするわ」
「そうそう、うちは島田って名前だからお間違え無き様に」
やがて直ぐその日はやって来た。オウ、一応食堂兼居間は綺麗になってるしテーブルセッチングもちゃんとお客様を迎えられる準備がなされている。これは隣の藤井夫人の手助けがあったか、それとも・・・
「お邪魔します、ほんとに旦那さんいないわよねえ」
「ホントはみんなとお話ししたかったらしいけど、しぶしぶさっき出かけた行ったわ」
「え?今日大学お休みなの」
「まあそんな物よ大学なんて、理系の研究室とは違うの」
「理系の研究室なんてもっと知らないわ」
「うん、美術の教授もいるのかいないのか分からなかったわ」
「そう言えば、教授室はアトリエ同然だものね」
二人は案内されて居間に入って来た。パッと明るくなって輝く、と言いたいところだが、冬枯れの六色沼が目の前に広がった。
「わアーここがみんなが羨ましがる河原崎画伯のお城の正体ね」
「ホント素敵、ここで食べたり飲んだり、おしゃべりしてるのね。夢みたい」
「相当高かったでしょう、ここ?」
「うちの林葉の絵じゃとてもとても買えないわ」
「我が家も同じよ」
「何を言ってるのよ、この間の個展凄く売れたって聞いたわよ、主催の画廊の人、ウハウハって言ってたわよ」
「ウハウハなのは画廊だけよ、肝心の描いてる者には雀の涙よ」
「まあそんな物なんだ、垣田さんの次は内だあと思っていたのに」
六色沼に見とれて座る事を忘れた二人に椅子を勧める。
「結構片付いてるじゃないの」
「ええ、みんなで必死で昨夜片付けたのよ」
「じゃあこれ片付け賃のケーキとご希望の着古した作業着」
「まあ、ありがとう。持って来て下すった上にケーキ迄貰って良いのかしら?」
多恵さんありがたく真理さん渇望の古着とついでにケーキも受け取った。
「じゃあ、このケーキんは一部お昼のデザートにお出しするわ。では今日は本来なら私の方からうかがわねばならない所を、反対に持ってきていただいてありがとうございます。えーと、では初めはスープから行くのね」
多恵さんメモ紙を見ながらのご挨拶。
「説明はいいわよ、胃の中に納まれば何でも同じなんだから」
多恵さん止めが入ったので挨拶を辞めてさっき迄台所で湯気を立ててたカボチャの、否パンプキンクリームスープとパンを入れた籠をワゴンに乗せて持って来た。
「アラー本格的。これで前菜が付いてればね」
「えっ、前菜?忘れていたわ、スープの前に前菜を出さなくちゃいけなかったんだわ。ちょっと待っててちゃんと用意はしてあるのよ、ただ、どれが前やら後かさっぱり分からなくて、ハハハ」
多恵さん慌てて前菜が綺麗に盛り付けられたお皿をテーブルに並べる。
「あ、綺麗に盛り付けてあるじゃないの、まるで玄人みたい」
「ホント、盛り付けだけは玄人はだし」
「ヘヘヘ、ありがとう、本人も喜ぶと思います」
「あら盛り付けたのあなたじゃないの?お嬢さん?おばさん達が感心してたと言っててね」
「あらこれ美味しいわ、このチーズもソーセージも」
「ヘヘヘ、チーズもソーセージもわたし達が作ったもんではありませんから」
「あったりまえでしょう、この貝もおいしい」
「それは一応我が家で調理しましたが、何の貝か名前は忘れました。結構大きな貝でしたよ、うん、サザエじゃないし・・アワビじゃないし、ハマグリじゃあ全然違う」
「分かったわよ、あなたが料理音痴だって事。聞く方が間違ってたのね」
『ねえ、このスープ飲んでみて、すっごく美味しいから」
「あ、それなら言える、それはカボチャのスープです」
「何を言ってるのよ、見れば誰だって判るわ」
垣田さん、そう言いながらスプーンですくって一口飲む。
「何これ、クリームスープって美味しいものと決まっているけど、こ、これは凄い、河原崎さん、今までの失言を詫びるわ、さすが方々旅行に行ってるだけある。この味は中々出せないわねえ林葉さん」
「ええ、前菜を忘れてスープから持って来たのはわたし達にこれを自慢したかったからね」
「そ、そう言う事は全然ありません。本当に忘れていたんです。只スープが煮詰まらないようにとは、注意、そう注意されていたんじゃなくて、注意してはいましたが。煮詰まってなくて良かったー」
前菜もスープもいたって好評、次は魚料理だ。タイの切り身の上の香味野菜とエビが散りばめられている。これはレンジで少し温めなおした。
「どれどれこれはー」
「はいはい、これはタイ料理ですタイと言っても国のタイではなくて、海でこの間まで元気よく、もしかしたら生け簀かも知れませんが、兎も角泳いでいたやつです。上に載ってるのはエビと香味野菜と言ってたけど、パプリカ以下もろもろ」
「なんか怪しい、もしかして・・」
「うんわたしも怪しいと思う。こんなに見事な料理ど素人の河原崎さんに出来る訳がない。ねえ、どこか、ケータリング頼んだでしょう?」
「でもこのケータリング屋さん腕相当好いわねえ、もしそこそこのお値段だったら私も頼みたいわ」
「そうねえ、何しろ教授夫人でいらしゃるし、絵の注文もこの所引きも切らないと評判だから、相当のお値段の所、張り込んだんじゃないの?」
「いいえとんでもない、材料以外、ぜーんぶ我が家で作りました」
「もしかしてお嬢さん、お料理習ってるとか?」
「娘?とんでもない、興味はあるけど、目玉焼き以外何作れるのかしら?」
「うーん、ここ、これも美味しい、ほっぺたが落ちるってこの事よ。たまんないわ」
「どれどれ、いやーこれは見かけも素晴らしかったけど、味はそれ以上だわ。是非料理教えてもらわなくちゃあね」
「私もそう思っていたの。ねえ、今度時間を作って料理教えてくれないかなあ?」
「わ、わたしが料理を教えるの?そ、それは困るなあ、教えるとしたら如何に手抜きをして早く作るか、と言う所かなあ」
「何を言ってるのよ、こんな料理を作っておいて、それはないでしょう」
「でも次が困ったのよ、肉なんだけどどうしても冷めちゃうじゃない。冷めればお肉は固くなる。そこでみんなで考えたのよ。じゃあ、最初から冷めたもので行こうと。冷製ローストビーフなら、絶対冷めても
いや本来冷たいものだから作り置きしても大丈夫。と云う訳で我が家のおもてなしランチの最後を飾るのは、ローストビーフと相成りました」
「ううん綺麗、とっても素敵だわ。これを家族で考えたなんて羨ましいわ」
「家族って、教授も入るのよねえ、うーんこれは哲学的に言ってだなあ、冷めてるものがより冷めても良い訳だから、絶対に冷たくした方がより哲学的に好いのではないか、なんちゃって」
「うんうん、ローストビーフの上にはクルミとアーモンドをカント風に刻んでニーチェみたいに散らしてみたら最高の出来だなあと言ってたりして」
そう言ってこの二人ゲラゲラ笑った。
「ささ、召し上がれ、良ーくカントとニーチェを味わって頂戴」
「あ、河原崎さん、怒ってる?」
「ううん、怒ってないわ、面白い事言うなあと感心してるのよ」
「ホント?じゃあ最後の肉料理、いただきます」
「じゃあ、わたしもいただきまーす」
「うわうわ、美味しい。美味しいわ。ビーフも最高、このタレも最高」
「カントさんとニーチェさんは如何?」
「うんうん、カントさんもニーチェさんも最高!」
「フフフ。じゃあさ、デザートのケーキを食べながら、この料理の種明かししてあげるわ」
「え、本と?やっぱり何か秘密があったのね」
「わたしも絶対秘密があると思っていたわ」
「実はそのカントさんとニーチェさんが手伝ってくれたのよ」
「またまたそうやってごまかして。白状なさいいい加減」
「そうよ、誰もあなたが作ったなんて、これっぽちも思っていないんだから」
多恵さん、にこにこしながら藤井夫人に教わった通り紅茶を入れる。
ケーキの箱を開けると種類がまちまちだ。
『ねえねえ、あなた方どのケーキを召し上がる?
箱を開けて二人の前に押し出した。
「あ、わたしねえチーズ、レアのチーズケーキ貰っていい?あの店のレアチーズ、大好きなの」
「じゃあわたし・・モンブランにしようかな」
「うんあなた昔から栗派なのよね。ねえ、河原崎さんは何にする?」
サービスの方ばかりに気を取られ、食べる事は頭からすっかり抜け落ちていた多恵さん、一瞬そう聞かれてたじろいだ。
「わたし、接待係は後からゆっくり頂くから、気にしないで」
「あらそう言えば、食事も全然口にしてなかったわよねえ」
「わたし達、あんまり料理が美味しくて、そっちの方に気を取られて、あなたが食べていないのに気が付かなかったのよ、御免なさい」
「ううん、わたしもそれ所じゃ無くて、兎も角料理を如何に手順良く、美味しく食べてもらえるか、そればっかり考えていたものだから」
「分かった分かった。でもさ、ケーキだけは一緒に食べてよう。わたしだけで食べるなんてとても気まずいわ」
「そうよ、それが礼儀と言うものよ。紅茶も三客出したんだから」
と云う訳で多恵さんもいただくことに。
「じゃあ私はドライフルーツがたくさん入ったブランデーケーキを頂くわ」
紅茶も藤井夫人が薦めてくれた高級茶葉を使い、その教え通りに入れたものだ。その香りも色も実に馥郁として素晴らしい。
「わ、この紅茶、素晴らしいい、紅茶迄わたし達を魅了させるのね」
『ねえ、早く料理の種明かし、いい加減に白状しなさい」
「ええっと、そうねえ、先ずはショックの大きくないものから行こうかな」
「何々、ショックの大きくないものからなの?まあいいや、それから聞こうじゃない」
「この紅茶はお隣の奥方から教えてもらった銘柄の物を購入し、教えてもらった通りに入れた物なの」
「まあそんなものだとは思ったけど。で次にショック少ないものは・・」
「次にと言うか、ここからが種明かしなの。実は私の夫は・・なぜか趣味が、勿論哲学書は大好きよ。本を読んでて電信柱にぶつかった事も何度か、でも他に・・」
「分かってるわ、絵でしょう。何しろ美術展に来て絵に惚れ、ついでに描いた本人にも惚れたって有名な話だもん」
「違う違う、そうじゃなくて彼は実は料理が趣味なのよ」
「ああ分かった、それで美味しいと噂の料理店を食べ歩いて、奥様に、この今は大画伯になり遊ばした河原崎先生にこれは美味しいから作ってみよと、命じられ、画伯は泣く泣く料理のお勉強に精を出されて、
今日の晴れの日を迎えられたと云う訳ね」
多恵さん、ポカンと二人を見ていた。きっと「え、嘘ー」と驚くであろう二人を予想してたのに、全然話は別の方向へ。
「あ。あのう、話が全く見えないんですが。うちの夫は殆ど外食しませんし、わたしにこの料理を作れと命じた事も一切ありません」
「で、でも、あなたのご主人の趣味が料理と言ったじゃないの、ねえ林葉さん」
「そうよ、食べ歩かなくて料理好きとか言えないんじゃなくて」
「あ、まあお昼は大学の学食で食べてるらしいですが」
「余程その学食、美味しいのかしら。今度行ってみようかしら」
「あ、まあそれは普通だと思いますが・・値段が値段ですから」
「じゃあ一体どうして料理が趣味って言えるのよ」
「それは私が忙しい時とか、スケッチ旅行に出かける時に嬉々として料理作ってくれるから。それに娘に言わせれば、わたしなんかよりもずーっと手際が良くて上手いとか。それに本人もこっそり料理の本やテレビの料理番組見てるみたいです。それで奥様方が今回来て下さると伺って、ここが自分の腕の見せ所と張り切って作ったと言うのが、はい種明かしです。本当は夫が台所で作ったものをわたしが運ぶ方が良かったんですが、お二人共わたしの夫を毛嫌いされているので、泣く泣く諦めて本屋辺りをうろついている事でしょう」
二人共それこそくちをあんぐり開けて聞いている。
「へええ、この料理を、あの、あの、大学教授が、哲学を教えている大学教授が作った、作っただなんて
これが許されるの、本当に」
「許されないわ、カントもニーチェも絶対許されないわ」
「案外。二人共料理作るの好きだったのかも知れないわ。背に腹は代えられぬって言うし」
「そ、それってカントが言ったの?」
「ううん、カントじゃないわ、じゃあニーチェかな」
「ああーあ。もう一杯紅茶貰えるかな、じゃあ大学教授の、哲学者のあなたのご主人は部屋を掃除し、料理を作り、留守を守り、娘を守りあなたを愛するのね。羨ましい!」
「羨ましい!」
こうして二人の訪問者は羨ましいの二重唱のコーラスと共に帰って行った。
電話が鳴った。柏木さんだった。
「あのさ、あれから色々調べたんだけど・・水戸には行けるのよ、当たり前だけど。でもさあ、それからが問題なのよ、アクセスには水郡線に乗ればいいと書いてあるの。確かに水郡線はあるけど乗りたいと思うのは、常陸大宮どまりだったり、常陸太田行きだったり。じゃあバスと言うてもあるじゃないかと考えたわよ。うんそれこそ七転八倒の苦しみよ、あれはみんなが車で行く事しか考えていないんだねえ。わたしみたいな公共の移動手段しか考えないのは現地に行って、あ、これ以上いけない、あ、今日中に帰れないとか嘆き悲しまなきゃならない。で思い出したのが三宅女史よ。滝と言ったら我が会では三宅女史しかいない。そこで、恐る恐る電話をしてみたの」
「そうね、三宅さんなら知ってるわよねえ、袋田の滝」
「ええ知ってたも何も彼女はれっきとした関東人ですからねえ、とっても良くご存じでした。でねえ、彼女さあ、彼女も是非一緒に行きたいわ、うーん、そうね、あ、待ってて水戸で会員の子に電話してみる、そしたら彼女の車で行けるかも知れないわ、ですって。今その返事を待ってるとこなの。わたしの今までの苦労なんだったのかしら」
「でも、水戸の会員の子・・・えーっと中根さんよ、きっと。彼女も時たま滝を描いてるわ。袋田の滝じゃないけど」
「ああそう、確か、袋田の滝は素晴らしけど、掴まえ所がなくって難しいって言ってたの思い出したわ」
その翌日になってまた電話があった。
「そうあなたが言った通りよ、中根さんだったわ。三宅さんの指導が受けられるのはとてもラッキーだと言って、直ぐオーケイよ。それにあなたやわたしとお近づきになりたいとも言っていたんだって」
「梅の花ならそりゃ柏木さんよ、何て言ったって花を描かせたら、我が会の中では右に出る物が居ないんですもの。当然一日目も来るんでしょう、彼女?」
「ええ、勿論よ。大っぴらに出かけられるから嬉しいとも言ってたって」
「ああ、それから、あのさあ、霊とか幽霊とかの話は他のいる人たちの前では厳禁ね。あなたが変な事言ってるって噂になってるわよ」
「えーっ、つい嬉しくって喋っちゃうのよ。イケナイイケナイ、お口にチャック」
「この間から言わなくちゃと思っていたの。良かった、ここで思い出して」
彼女との話はついた。ウーム、これを杉山さん達に連絡せねば。それにこの間のソバ教室の話もどうなったのか気になる。
六色沼に降り立つ。今日は風が冷たいようだが、この間よりずっとましだ。
杉山君が先ず現れる。少し遅れて良介君、誠君、久君が現れた。石森氏の姿が見えないと言う事は、この間のソバの話は没になってしまったのか?と内心がっかりしている所に石森氏、蕎麦屋の店主の恰好で現れた。そう言えばみんなの今日の服装はまちまちだ。誠君さえテニスウエアを着ていない。その弟子である久君も誰が見立てたのか、小ざっぱりしたシャツの上にセーターと下はジーンズ姿だ。
「みんな来たのね、何時ものメンバー」
「いえ女性軍は京都組と熱海組に分かれています、お父様は勿論熱海派ですが」
「あー、良いの良いの、もう暫くは長崎弁も京都弁も聞きたくないのよ。心静かに旅をしたいものだわ」
「はあ、あのおばあ様とお仲間の長崎弁、我々も相当参りました。参らなかったのは何と本来なら長野弁を使うはずの石森氏だけです。平気どころか長崎弁、使えるんじゃないですか」
「いやいやまだそこまで行ってないですよ、おばあ様方に合わせているだけです」
石森氏ニコニコ思い出し笑い。
「その恰好から推測するとお蕎麦の件、上手く行ったのね」
「ヘヘヘ、上手く行きましたよ。今日は材料となるソバを粉にしてる最中でして、それですこうし来るのが遅くなれました」
「粉を引く所からやるなんて凄く本格的」
「粉が大事なんです、まあその粗さや細かさで、それぞれ舌ざわり喉越しの感じが違うんで一概にどれが良いとは言えないんですが、今回は一番標準的な奴から行こうと決めてるんです。それも自分で引いて確かめなくちゃあ、達人を目指すソバ職人とは言えません」
「あなたの情熱におじいちゃんも打たれたのね」
「アハハハ、いやーここにいるみんなが上手く立ち振る舞ってくれたんですよ。おじいさんはソバを毛嫌いなさって、初めは傍にいや、このそばは近くにと言う意味ですよ、はいソバの近くにより付こうともなさいませんでしたよ、なあ杉山」
「はいそこでですね、おじい様は生きてる時甘いものがお好きと伺っていたものですから、何かおじいさまのお好きな物を、ええ、長野のです。長野と言えば信玄餅と言う事で信玄餅を手に入れまして、誠君にテニスの練習が終わった後、どうです、石森さんの屋台で信玄餅でも食べませんか?信州名物で美味しいですよ、と誘ったんです。おじい様は信玄と言う言葉に反応なさって、ああ、武田信玄、風林火山、あの映画を由美に見に連れて行ってもらったよ、とおっしゃり、是非食べてみようと誠君と連れ立って、石森さんの所にやっていらしたのです」
「やれやれねえ。ふーんお母さんがおじいちゃんを映画に連れて行ったのか。初めて聞いたわ。あんなにおじいちゃんを嫌っていたのに」
「おじい様も当然嫌われているものと思われていたから、喜びも一塩だったでしょうね。そこで久があ、このソバ、すっごく美味しいと言ってソバを食べる。俺も良介もどれどれと言ってたべる。それが本当に旨いんだよ。今まで散々ご馳走になったけど、あれは本当に旨かった、なあ良介」
「ええ、僕もそう思いました。演技でなく本当に美味しかったです」
「あたぼうよ、おじいさんによう、旨いと言って貰う為にソバだけじゃなく、そばつゆも苦労したんだ。長崎のアゴ、鹿児島のかつ節、昆布は利尻の昆布だよ。その三つの比率が大事だ、お互いが喧嘩しないように、互いを引き立てるように何回もやり直したんだ。ま幽霊は寝なくて良いからこれは助かるねえ」
「だからいい匂いが漂って来てたんですねえ、テニスコートまで漂ってましたよ。うーん、そうか、それもあっておじい様は石森さんの所に行ってみたいとお思いになられたかも知れません」
「まあ、それもあるかも知れないわねえ、出汁の匂いって食欲をそそるのよね」
「俺達が旨い旨いと食べてると、おじい様も少し触手を伸ばしたくなられたんでしょう、信玄餅を食べるのを辞めて、みんなが食べてるのをじっと見つめられ、やっと俺も少しだけもらってみようかなとおしゃって、へへへ、大成功でした。一口食べて、うんこりゃ旨い、石森さんが死んだ後も精進して来ただけのことがある、あんた、只の酒飲みとは違うよ、立派なもんだと言われてお代わり迄なさったんですから」
「まあ、多分只の酒飲みと言うのは、わたしの父の事ねえ。で、ソバ打ち教室の話は出来た訳」
『へー、恐る恐る切り出しましたよ。こ、これを、この作り方を興味のあるやつらに教えてやりたいんですが,如何なもんでしょうかって」
「そう、それでお爺ちゃんも承知したのね」
「はい、しばらく考えていらしゃいましたが、そうだなあ、テニスは駄目でもソバ打ちは旨い奴がいるかも知れない、ソバ打ち教室を作れば幽霊諸君ももっと充実した毎日が送れるだろうって。それから暫く立ってから、俺も一つソバ打ちって奴、やってみようかなと、ぽつりとおしゃいました」
「ほらね、そう来るだろうと思っていたわ」
「ヘヘヘ、それからはとんとん拍子で事が運びまして、ええ、ありがたい事です」
「で、それで思い出したのだけど、今父は如何してるのかしら?熱海や伊豆だけがここいらの観光地じゃないわ。子供達にはデーズニーランドなんかの方が楽しいんじゃないの。静香さんも恵さんも当然そう思っていると思うけど、おばあちゃん達に遠慮して言い出せないのよ。ねえここはあなた方からデーズニーランドを紹介してみたら?おばあちゃん達は九州の長崎のハウステンボスしか知らないのよ、面白いですよと勧めてやって。父は・・親友がこの遊園地を作る時に設計に携わっていたんだけど、無理して体を壊し亡くなったの。それで俺は絶対にデーズニーランドには死ぬまで行かないぞと言ってたから。でもさあ、もう死んじゃったんだから、行っても良いよねえ、とわたしが言ってたと伝えて頂だい」
多恵さんはみんなに一応今度の旅行の日程を伝えた。
「えー、柏木さんだけじゃないんですかー」
「御免、どうしても電車の都合がつかなくて、三宅さんに相談したら私も行くって事になちゃたの。もう一人は車に乗っけてくれるありがたーい人」
柏木さんは多恵さんが霊や幽霊と見たり、話すことを知ってる数少ない人間の一人。だから彼女だけだったら、幽霊さん達も自由がきいて伸び伸び出来ると思っていたのに残念無念。不服だらだら。
当日になった。良く晴れて風もなく、まるで春が来たかと思うような2月だった。これで多恵さんの晴れ女の名が一段と轟く事間違いなしだ。
朝早く上野駅に三宅、柏木。多恵さんの3名は落ち合い水戸を目指す。
「やっぱり晴れたわねえ、柏木さんから電話をもらった時、本当は乗り気じゃなかったんだけど、河原崎さんが一緒だと聞いて、これは是が非でもと思ったのよ。即中根さんに電話したわよ、あなたが晴れ女だって事も力入れて話したの。彼女もそしたら安心して梅の絵が画けるって喜んでいたわ」
「そうなのよねえ、この人と日光に行った時、わたしが雨にあって酷い目にあったて言ったら、彼女はわたしはそんな目に会った事ないって言うじゃないの」
「あ、それは、今まであまりスケッチしに出かけなかったからって言ったじゃないのよ」
多恵さん、堪りかねて口を挟む。
「兎も角今までは殆ど雨に降られてないのは真実よ。ありがたいありがたい」
「この間の京都旅行の時、打ち上げも終わって帰る時、この人が雨に濡れたお寺も描きたいとか言ったら。今度はぽつぽつ降り出して、みんなで慌てて駅まで走ったと聞いたわ」
「えー、やだそんなとこまで話してんの。ホントに注意して話さないと危ない危ない」
おんやー、いるいる3人組に誠、久の指定組、それにだ、な、何とおばあちゃん3人組迄いらしゃる。
おばあちゃん組は多恵さんににこやかに、大きく手を振ってる。仕方がないので多恵さんも小さく、特に三宅さんには気づかれないように手を振る。
「いるの、いる?」柏木さんが多恵さんの折角の気遣いをふいにする発言。
「え、何、何がいるの?」当然三宅さんが尋ねる。
「あ、ちょっと体が痒かったもので」
『ああ、虫ね。虫がいたの?」
「いえ、いませんでした。ご安心下さい」
「そう、良かった、わたし、虫にさされやすいから、この間の時も体中に虫よけ塗りたくっていたの。今回は冬だと思って持ってこなかったわ、でもこの馬鹿陽気でしょう、虫も驚く温かさ、よねえ」
朝食は水戸駅に着いてからと言う事で電車の中ではこういった話で終わる。
水戸駅で降りる。その前に偕楽園前と言うのもあるが水戸駅の方に中根さんが待ってるのでそちらの方で降りる。
駅の改札口で彼女が手を振っている。
今日はロッカーに荷物を預ける必要がない。何しろ車だ。必用品や貴重品は勿論別にしてバックバックの方に入れて、車外に出る時は携帯する。
「悪いけど、わたし達はまだ朝ご飯を食べていないの、どこか食堂、うんそれじゃああなたに悪いはねえ喫茶店、そう喫茶店に入ってわたし達は朝食取るから、あなたはコーヒーでも飲んでいて頂だい。モチコーヒー代はわたし達が払うわ』
水戸と言ったら、納豆?違う違う、黄門様だ。その黄門様の銅像を横目でチラリと眺め、喫茶店に入る。
こじんまりしたお店だが同じ思いの人、いやいや、それぞれの思いで朝食をとる人で結構込んでいる。だが朝の忙しい時だ客足は速い。
丁度空いた席が4人分、どうぞと言われて窓際の席に腰を下ろした。
おなかの空いた3人はトースト定食、スクランブルエッグとゆで卵、目玉焼きから卵料理を選ぶのだが、多恵さんはスクランブルエッグ、後の二人も同調。それにハムとたっぷりのポテトサラダ、コーンのポタージュスープも付いているのがありがたい。
「今日は宜しくお願いします、わたしも柏木さんも水戸は初めてなので」
「あ、こちらこそ、まだ絵の方描きだしてそんなにたっていないのに、こんなお偉方とお近づきになれるなんて感激です。色々教えてもらって構いませんか」
見れば多恵さんと同じくらいの年頃だ。人の好さそうな顔立ちをしている。
「ええ、わたしは全然構いませんよ、と言っても、滝と言ったら三宅さん、花と言ったら柏木さん。わたしの出る幕はないけれど」
「何を言ってるのよ河原崎さん、その両方ともに旨いのがあなたじゃないの。今我が会の中で一番の人気で売れっ子なのよ、この人」
「飛んでも八分よ、何が一番で売れっ子なのよ。飛んでもありませーん。やっと知り合いのお情けにすがって細々と絵を描いてるわたしに、良くそんな事言えたわよねえ。あなたこそ何時も美術展の時、人だかりが出来てるのはあなたの絵の前じゃない。画廊の人があなたを放さないの、分かるわー」
「まあまあ二人共喧嘩しないで。二人が我が会のホープであることは間違いないのだから.かたや画廊受けでは一番人気なのが柏木さん、それに対して画家仲間では何だか分かんないけど不思議な魅力があるって評判が高いのが河原崎さん。これで良い?」
「で、では三宅さんはどうなる訳?」
「三宅さんは画廊受けも一番なら、我々画家仲間の間でも崇められる存在だわ。これにて一件落着」
中根さんチーズケーキとコーヒーを食しながら、目を白黒。
「ほら、あんた達、喧嘩してないでさっさと食べちゃいなさい。未だモデルさんにも逢えていないんだから」
三宅さんの言葉に、この中の良い二人はスープを飲み、スクランブルエッグをトーストに乗せてパクリつくのだった。
「わたし、先に出て、車取って来ます。あ、ケーキとコーヒーごちそうさま」と中根さんは先に出て行った。多恵さん達もそのあと少ししてから喫茶店の外へ出て、彼女を待つ。
車が来て乗り込む。助手席には三宅さん、後部にはあとの二人。
「ね、来てるの?」と小さい声で柏木さんが尋ねる。
「ええ、まあね」と多恵さんも頷く、
「この車に乗ってるの?」
「ううん、自分達で大きな車を用意したみたいよ。何しろ7人の大所帯だから」
「ええっ、七人もいるの?」吃驚して彼女が思わず声が大きくなる。
「なあに、何が7人なのよ?」三宅さんが聞き咎めた。
「あ、いえ、娘の今度の演劇について話していたもんですから」
「あ。お嬢さんねえ、お嬢さん、劇の台本書いてるって聞いたけど、将来が楽しみねえ」
「はあ、ありがとうございます。でも台本書くの中学校までで止めるんです。他の事をやりたいと思っていますから」
「あらそうなの、じゃあ今度こそお母さんを見習って絵に力を入れるつもりなのかしら。そしたらわたし達の会に入るわよねえ」
「い、いいえ、絵はあくまでも趣味の域を超えない程度に留めて・・母の、わたしの母の後を継ぎたいと思っているみたいです」多恵さんは頭の中に汗をかきつつごまかすのに必死だ。
『ああ、お母様は薬剤師、薬店開いているとか」
「ええまあ、そうです」
「薬剤師をめざすのかあ、折角台本書く才能が有りながら残念だわねえ」
ちょっと話は三宅さんの考えとは違っているが、ここはそれにあがらう事は止めておこう。
どうも着いたらしい。有料駐車場だ。勿論それも多恵さん達が払う。
「ここは水戸門前なんです。ここからまずは右回りで見晴らし広場を左に見て梅林の方へ行きましょう」
陽気は好い、梅は見ごろを迎えているらしく、ウイークデイにも拘らず、見物人も多いようだ。
「ほら、咲いてる咲いてる、どの色がお好みですかー?」
さし示すその先に、白を中心に赤や薄紅色の梅の花が重なり合って見えている。
「き、綺麗だわ、こんなに梅の花が華麗に咲いてるの、何だか始めてみたい」三宅さんが叫ぶ。
「そう、そうですよね、梅って桜と違ってひっそりとかリンと咲いてるとか言って、あんまり、賑やかにとか豪華に咲いてるとは言いませんよね」柏木さんも同調。
「まあ画家にとっては、地形的には平坦過ぎるのが玉に瑕だけど、単に見物するのには最高よね。まあここで描かないのもおかしいわね、ここいらでスケッチタイムとしましょうか?」
三宅さんの言葉に従って自分の場所や木。花を探す。
多恵さんは一本の白い木に狙いを定めた。その幹や枝ぶりが実に良い。背景に赤やピンクの花が重なり合って見えるのが、白い色の寂しさを補っていて、これもありがたい。
やって来た、やって来た、おばあちゃん達と幽霊さん達。
「ここが有名か水戸の偕楽園ねえ、ほんとに梅ん花が一杯あって綺麗かー」
「熱海にも梅林あったでしょう?」
「へえさ、あったよ。でもさあ、やっぱり本家ば見んと、なあんも自慢出来んもん」
「そうそう、本家ば見らんばなんも言えんたい」
「あ、そう言えば太宰府に老人会で言ったやろが覚えているね?」
「うんうん、行った行った」
「真田さんは行ってなかやろ?でもさあそこは白か梅の木が中心で、こんげん、賑やかじゃなかもんねえ、こっちの方が赤チョコして、ずーっと良かばい。うち達長崎人は派手かもん好き、賑やかもん好きやっけんねえ、ハハハ」
「そうばい、しけたのは好かんもんね。賑やかとが良か、派手でさあパアーっとしたもんが好きなのが真の長崎人ばい」
いやー、ほんとにこの3人(ほんとは二人)が来たおかげで静かなはずの梅林も賑やかになり、鶯、否、メジロも逃げだすんじゃないかと多恵さんは思ったが、それは霊たちの話が聞こえる多恵さんだけであった。
「うわーよかねえ、目の付け所が違うもん、この梅の木の枝振りって言うか、幹のうねり具合が何とも言えんばい。これは白梅やろ、でも折角あっか色も咲いとるもんば、白を赤に変えられんとやろか」
「そんげん事の出来るもんね、白は白、赤は赤って決まっとるとよ」
多恵さん大きな溜息。それを見かねた杉山君が助け舟。
「えー、おばあ様方、梅の花は上空から見ると、一層綺麗ですよ。それに好文亭や仙波湖も見に行きましょう」石森氏や他の男性たちも一緒に薦める。
「そんげん言うなら見に行こうかねえ」とおばあ様達は杉山君達と一緒に飛び去って行った。
やれやれ、と多恵さん絵に専念する。
「どう?」と柏木さんがやって来る。
「まあ大体描けたわバックの花、もすこうし色を濃くしたほうがいいかな?」
「どれどれ、あらあ素敵、これ油絵にするんでしょう?だったらこのままの方が好いと思うわ。水彩では少し物足りないかも知れないけど」
「まあそうね、そうするわ」
「幽霊さん達どうだった?」
「ああ、おばあさん達が煩くて煩くて、困り果てたわ」
「それで・・」
「そこで杉山君と言う幽霊さんが」
「ああ、あなたに片思いしてたと言うか、今も片思いしてる幽霊さんね」
「彼がここより好いとこがあると連れて行ってくれて助かったわ」
「霊が見えたり話したり出来るのも善し悪しねえ」
「どちらかと言うと悪い方が多いわよ」
「でもあなたが描いてる梅の木は本当に好い曲がり方してるわ、不自然さがなくてすんなりした曲がり方よ、さすがの河原崎画伯」
「そう言う柏木画伯はどういった梅を選んだの?」
柏木さんがスケッチブックを開く。
「先ずは目に付いたものを色々描いてみたんだけど・・」
スケッチブックをめくる。白梅もあれば紅梅もある。
「でも私の押しはこれ」と3枚目を開く。
うん成程、柏木さん好みの梅の花。やや薄緑がかった白地にうっすらと紅を指して中に行くに従って濃い紅に変わって行く花。
「良くこの広い庭園からこの花を見つけたわねえ、凄い」
「ヘヘヘ、花一筋うん十年、蛇の道は蛇とも言うわ。何となく遠目でも何となく分かるのよ。わたしにお出でお出でしてるのよねえ。でも嬉しかった、この花を見つけた時は」
多恵さん広い梅林を見回す
「ねえ、三宅さん達何処行ったのかしら、ここから見える範囲にはそれらしいい人影は見当たらないわ」
「そう言えばあの二人暫くごそごそやってたけど、その内姿見えなくなっちゃった」
『まあ、その内現れるでしょう。好文亭の方へ行ってみましょうか?」
「そうね、もっと他の所に行けば、あなた好みの景色に会えるかも」
「ありがとう。でももし、あなたの心惹く花が有ったら遠慮しないで言って、今日はここだけしか行かないんでしょう、時間はたっぷりゆったりよ」
「そう言えばそうね、時間があれば仙波湖へスケッチしに行っても良いけど」
『まあ後の事は今は好いじゃない。さあ行きましょう」
二人は立ち上がり好文亭の芝前門へ向かう。
「あ、中々風情のある門なのねえ」
「ええ、趣味人の匂いぷんぷん。これが日本の文化だと言ってるみたい。他所の国だったら、財力に任せ、金ぴかにするとか権力を誇示するためにもっと大きくてがっちりした門をこさえたでしょうけど,侘び寂びの日本そのもの。これに続く垣根も素晴らしいわ」
「日本人の感性にピッタリよねえ」
背中をポンと叩かれた。吃驚して後ろを振り向くと、三宅さんがにこやかに中根さんと一緒に並んで立っていた。
「この門素敵よねえ、一本だけ白梅が植えられているのも良いわ」
「あなた達、一体何処へ消えていたのよ、あの梅林にはいなかったわね」
『ああ御免なさい、探した?」
「探しはしなかったわ、いずれは何処からか湧いて出て来ると思ったから」
「ふーん酷い言い方。まあこんなおばちゃんだから誰も誘拐したり、誘惑してどっかに引っ張り込むなんて事は皆無でしょうからね」
「あ、そう言う事もあった訳だ。いえいえ、人の好みも十人十色、おばちゃん好みの人もいるかもよ」
「本当?も少し身ぎれいにしている時は、こいつ金になりそうだと声かける輩もいるかも知れないけど、こんなスケッチ旅行の姿では、残念ながらだーれも声かけてくれないわ」
中根さんが笑っている。
「実はこの奥の方に竹の林がありまして、三宅先生はその竹林を描きたいとおっしゃったので、そこに案内しました」
「ああ、案内のパンフレットに書いてあったわねえ。わたしは花専門だから構わないけど、河原崎さんは竹林、興味あるんじゃないの?」
「え、わたし?この間京都に行った時、嵯峨野の竹林の小径を通ったの。その時時間を割いて描いたから今回は時間が有ったら行くけど、パスしても良いと思っていたわ」
「そう良かった。この三宅、何時も断崖絶壁の滝を描きなれているじゃないの。だからこの広場にダダっと植えられた梅の花には、中々食指が動かないのよ。で、それよりは竹林の方が丈は高いし、風に揺れる所は滝に似てない事もないと、思って彼女に案内してもらったのよ」
「じゃあ中根さんは折角の梅園で全然梅の花を描けなかったって事?」
「良いんです、梅の花ならこの先にも沢山咲いていますから」
「ほうら、それを聞いたから、わたしも案内してもらったのよ。幾ら私でもそんな横暴な事しないわよ」ここで一旦三宅画伯行くへ不明事件は収まった。
「でさ、この門描きたい人いないの?わたしは少し心惹かれるな」と三宅さん。
「描きますよ。わたしだってこの白梅をドアップにして、侘び寂び門を背景に描いてやろうじゃないか」
「そう来なくちゃあ花の柏木が泣くわよ、待ってました柏木大統領!」
多恵さんも笑いながら勿論これに応じる。中根さんも慌ててスケッチブックを広げる。
あっという間にそれぞれのスケッチは描き上がる。
「さあて好文亭にお邪魔しましょうか」
「でも待って、何かお腹空かない?」
「うん、トーストは腹持ちしないからねえ」
「じゃあ好文亭にお邪魔する前に、広場の方でパンなど食しましょう」
もう一度広場の方に戻り中根さんが持参したシーツを広げて腰を休める。
「はいどうぞ」
何と中根さん、バックバックより風呂敷包みを取り出して、それを広げる。中には小さく握ったお結びと、卵焼きやお煮しめ、ソーセージ、ハムなどがぎっしり。
「わーこれ頂いて良いのかしら」
「わ、悪いわねえ、車には乗せてもらった上にこんなものまで用意してもらって」
「遠慮しないで下さい。わたし嬉しいんです、こんな先生方とご一緒できるなんて夢みたい」
「この二人は確かに画廊も付いてる大御所だけど、わたしは画廊に声掛けられた事もないのよ」
多恵さんが口を挟む。
「いいえ、わたし、先生の画、大好きなんです。先生の絵見てると何かこう胸の奥がジーンとして、思わず涙が出ちゃう」
「ほうら、ここにも居た河原崎さんの隠れファン」
「ええ、わたしも何故画廊から彼女に声がかからないのか不思議に思っているのよ」
「中には声掛けたくてもご主人が哲学の教授をやってるて聞いてビビッているんだと噂する人もいるわ」
「あんまり偉いご主人がいるのも奥さんの足を引っ張る事になるのねえ」
多恵さんは何時もの事だからもうこういった話にあえて反論する事は飽きた感じで無視しようと決めた。
所がそ云う風には問屋は降ろさなかった。
「えー、河原崎さんのご主人、大学の教授なんですか?そ、それも哲学の」
その多恵さんの決心を翻させねばならない伏兵がいたのだ。
「あのう、あのねえ、わたしの夫は大学で哲学教えてますけど、ごく普通の人間で、しかも決して教授ではありません」
「え、では講師?」
「まそれに毛が生えたようなもので、准教授をやってるの」
「そ、それでも凄いじゃありませんか、いずれは教授になれるんでしょう?」
「さあ、それは決まってないのよ。だから困るんだなあ、そんな噂を立てられるの」
彼女の持って来たお重は空になり、みんなが持って来たパンも底をついた。
「じゃあ、はらも満ちたし、新しい絵を描くためにシュッパーツ」
三宅さんの号令の下、皆立ち上がる。
芝前門をくぐると梅林とは趣が全く違う日本庭園が現れる。その向こうの方には、やはり雅趣に富んだ好文亭の屋根がチラホラ。ちなみに好文亭と言う名は、梅の木を別名、好文木と言うのにあやかって名付けられたらしいが、ここの庭園には松がメインに設えられている。
成程、先程三宅さんがスケッチして来た竹と目の前の立派な松、それにここの呼び物梅の花、日本人がめでたいと喜ぶ松竹梅がめでたくも揃うと云う訳だ。
「ここにも、ほら老木だけど梅の木があるわ」
「あらあ、凄い老木。曲がりくねってるしホロになってる所もあるわ」
「ええ、そうね、髄分曲がってるのねえ、何だかわざと曲げたみたい。幹はボロボロだし少し可哀そう」
「でも、天然に曲がったものを配置したんじゃない。何しろ侘び寂びの世界だから」
「あ、わたし、これを描かせてもらうわ」
この老木、三宅さんの心を捉えたらしい、一人そこに陣取ると持って来た小さな折り畳みの椅子を広げ、スケッチを始めた。
「三宅さんと老木。良く釣り合ってるわ」柏木さんが憎まれ口を叩く。
「え、何、何か言った?」三宅さんが聞き直す。
「うううん、何も言ってないわよ」
「そう?梅の花と三宅さん良く似合ってるとか聞こえたけど、違う?」
「まあそんな事、言ったような言わないような」
みんなで笑う。
「あら桜の花?そう桜の花よ、桜の花が恥ずかしそうに咲いてるわ」
「冬桜ね、華やかさには欠けるけど、やっぱり桜、結構目立っているわ」
「うん、わたしも三宅さんの向こうを張ってこれ描くわ」
今度は柏木さんが桜の前に陣取りスケッチを始める。
「少し先の方に行ってみます?仙波湖も見えますよ」
中根さんが多恵さんに声をかける。
「ええそうしましょうか」
「昔はぎりぎりまで行けたらしいですけど、今は危ないとかで手すりがずーっと手前の方に設けられているので、そんなに絶景かな絶景かなと云う訳には行かないのですが」
『ああ、成程ね。見物人が多い時は押せや押せやで確かに危ないわ、子供もいる事でしょうから
「昔の人はこの景色を眺めながら、将棋や碁を指したり打ったりしたんですよ」
「え。ほんとう?」
「ほらそこに将棋盤や碁盤が残っていますよ」
「あらこの二つね、微かにマス目が残っているわ」
「先生はここではお描きにならないんですか?」
「そうねえここからの景色、とても素敵だから仙波湖入れて描こうかな。あなたは?」
多恵さん、人の好さそうな中根さんの顔を伺った。
「わたし、あんまり遠景得意じゃないんです。どれに焦点を合わせれば好いのか分からないし、見える物全部を描くとなると大変そうだし、面倒臭いんですもの」
「そうねそれは言えるわ。中にはそういったものが好きで書いてる人もいるけど、普通はあまり好きでないのが当たり前よ」
「絵を描く人間がそう言った事を言うのは不謹慎だと思ってました。折角絵を描くんだったら、遠景を描いてみたいと言う憧れはあるんですが・・何しろ面倒臭いのに弱いもんで」
「あなたってとても正直物、正義感強いのよ。見た物全部描かなきゃならない、って言うのがあって、省略することが出来ないのよ」
「その省略の仕方が分からないのですが・・」
「どう省略するか、人それぞれだけど、どう省略するかを考えるよりその特徴を捉えて描こうと思えば罪良いんじゃない?遠くの花を描く時、一々葉っぱだ枝だ、花も細かく描かないでしょう?家だってそうよ、こうやて見るでしょう。家は一杯あるわ、その中でのっぽさん、おちびさん、色の特徴のあるものに目星を付けて描けばいいのよ。一緒にこの景色描いてみましょう。そうした方が教えやすいわ」
「わあ嬉しい。描きます描きます」
二人は並んでスケッチブックを広げる。
「こうやって見てあなたはこの景色の中で何を描きたい?」
「はい広場の梅林を描きたいです」
「梅林良いわね、じゃあ梅林をどの位の割合で何処に持っていくか、空の割合も大事よ。全く入れないって言う事もありだし・・」
こうして思いがけない絵の描き方講習が始まった。
もともと絵を描きたくて美術会の仲間に入って来たのだし、力量があるから会員にも慣れたのだから、呑み込みも早く、教え甲斐もある。
「そうそう、そうよ、旨いわねえ、。梅の花のぼやかし方なんてとっても素敵だわ」
「少し手前の木なんか大きすぎません?」
「うーんそうね少し色を抑え気味にするか油絵だったらグレーとか淡いブルーを上にかけると好いわよ」
「成程、そう云う手もありですね」
「アラー、二人すっかり仲が良くなって」
後ろから声がかかった。三宅さんと柏木さんだ。
「仲が好いだなんて、遠景の書き方を教わっているんです」
「遠景なら河原崎さんよねえ、秘密の技法迄教えてもらったら」
「秘密の技法があるんですか?わたし、まだまだ初歩の初歩で、秘密の処方なんてとんでもありません」
「何言ってるのよ柏木さん、秘密の技法なんてありはしないわ。あったらこっちが知りたい位だわ」
「ううん、確かにあると私もあると思う。怪かしの技法、我々の心を虜にする不思議な魅力。何かあると常々考えていたんだ」と三宅さん迄が柏木さんに同調する
「困るなあ、わたしは見たまま感じたまま描いてるのに・・感謝しながら描いてはいるけど」
「も。もしかしたら、それがあなたの秘密よ、モデルに対する感謝の気持ちがわたし達、足りないのかも知れない」
「それは・・うーん言えるかもねえ。今度ははっきり自分のモデルになる木や花、そうよ滝にだって感謝しなくちゃあね。こいつ絶対わたしのものにするぞなんて思わないで、今度からありがたいこんな素晴らしい姿を見せてくれてとね」
後ろを見ると静かに好文亭が佇んでいる。
「じゃあここはこのありがたい弘文亭をみんなで描いて、次に行きましょう」
「そうよ、この弘文亭を作った斉昭さんがいなくちゃこの偕楽園は存在しなかったんだから」
皆、一斉にスケッチブックを広げ、それぞれの流儀に従って好文亭を描いて行った。
「さあ、みんな良い、心残りはない?仙奕台を経て下へ戻るわよ」
「あ、わたし仙波湖描いてないわー」
柏木さんがひめいをあげる。
『ああ、仙波湖は仙奕台の方が良く見えますよ」と中根さんが声をかける。
「あ、そうなの?良かった、あなた方がさっきスケッチしてたから、あそこからしか仙波湖は見えないと思って」
「大丈夫よ、もしダメなら仙波湖に行けば良いんじゃないの。時間はまだ十分あるわ」
三宅さんが締める。
「ほら、仙波湖が良く見えますよ」
中根さんが指さす方に輝く湖が見える。
「ホントここからは仙波湖が良ーく見える。それに下る階段とここに植えてあるる梅の木とが相まって、画家心をくすぐるわ」
「両方とも頂きまーす」3人はそれぞれ場所を決めて描き始める。中根さんも慌てて、きょろきょろ見ていたが、仙波湖からにしようと決めたらしく、階段を背に向けて鉛筆を走らせて行った。
多恵さんも仙波湖の方から描き始める。キラキラ日を浴びて湖は今日と言う一日を祝福している様にも見える。
「あー又、わたしは晴れ女の異名を刻んでしまうのか」多恵さんは暫しそれを疎んだが、頭を振った。
「いけないいけない、飛んでも無い事だわ、晴れてるからこそこうやってスケッチ出来るんじゃないの、わたし、何て馬鹿な事を思ったのかしら、天気の神様いらしゃるなら、何時も天気にして下さってありがとうございます。わたしって罰当たりだわ」
仙波湖には渡り鳥がまだ頑張っているのか、その姿が遠目にも良く判る。
こちら側は描けた。少し階段を下りて行った所に、多恵さん好みの梅の木が一本植えられている。
「あれが良いわ、あれを描こう」多恵さんは場所を決める。勿論構図的に見て一番好い所を陣取りたい。それは山々だが、梅の観光の邪魔をしてはならないので、ギリギリの端っこを選ぶ。
中根さんがやって来る。
『ああやっぱりここを選んだんですね」
「あなたもここを描きたかったの?」
「ええ、ちょっぴり」
「じゃあ、私の横で描いたら?少し日も落ちかけて来たから、くっ付いて描いた方が暖かいわよ」
「で、でも・・先生の画、素敵すぎるんですもの、恥ずかしいわ」
「絵はね,自画像よ。そして唯一無二、世界に一つの物。他人が何と言おうと、私が描いてる絵が一番素晴らしい、と思わなくちゃ行けないの。自分の絵をより良くするためのアドバイスとか、自分がどうしたらスムーズに描けるかとか、そう言った事は受け入れても良いけど、他の事には耳をふさぎなさい。堂々と今わたしが表現できる最高の物として描けばいいのよ」
「そうですね、比べる物ではないんですね。先生の絵は先生の絵、わたしの絵は私の絵。後は見る人が好きか嫌いか、勝手に決めるんですね」
「じゃあ、並んで描きましょう。わたしもあなたも並んで描けば暖かいわよ、お互いに」
「ホント、少し暖かいわ」
二人は笑い、自分の絵を、自分の世界をスケッチブックに写し取って行く。
「あらら、やっぱり仲が好いのねえ,今度はくっ付いて」
三宅さんの声。
『三宅さんもう描けました?」
「仙波湖はね。梅も少し。でも何かしっくりいかなくて、どこか良いとこないかなと探していたら、二人が目に付いたのよ」
「ここの場所、良いでしょう?彼女始め遠慮してたけど、くっ付いて描いた方が寒くないからと無理やり傍で描いてもらったのよ」
「フーム、わたしもくっ付いて良いかな?年寄りには寒さは応えるのよ」
「ハハハ、何を言ってるのよ、氷瀑を描きに行く人が」
「ばれたか。でも傍で描かせて」
三宅さんは多恵さん達よりもほんの少し上の所に場所を決めて描きだす。
暫くして柏木さんもやって来る。
「なあに三人でお結びみたいになって」
「三人ともここがお気に入りの場所なのよ」
「ふーん、成程、確かに構図的にワンダフーねえ・・・わたしも描こう!」
柏木さんも三宅さんと並んで描き始めた。
「これ描き終わったらさあ、出口の所に料理屋あったわよねえ、何屋だか確かめなかったけど、暖かい麺類食べたいなあ」
柏木さんが呟く。
「あ、蕎麦屋さんもありますよ、冷えて来ましたから、暖かいソバ良いですね」
中根さんがそれを受ける。
「そうと決まったら、早く描き上げてしまいましょう。わたしもお腹空いて来たわ」
4人とも笑い頷きせっせと絵を仕上げる。
4人とも絵が仕上がった。さっさと荷物をまとめて広場を横切り、出口へ向かう。
成程ソバ屋がある。出口にあるので繁盛してるようだが、時間的に今の時間帯空いてるかどうか少し心配だ。
良かった、今開けた所だとか。
「ラッキー、暖かいもの食べたいわー」
「もちわたしもよ。うんメ、メニューは?」
目の前の献立表を見る。
「わ、わたし、天麩羅ソバ」
「わたしもー」
「わたしもそれ、中根さんは?」
「じゃあわたしも」
「決まりね、天麩羅ソバ4つお願いします」
「これも私たちモチだからねえ、みんな良い?」
三宅さんの声が飛ぶ。
「ハーイ、納得でーす」
柏木さんの声。
『ああ明日はいよいよ袋田の滝に会えるんだわ、うれちいな」
三宅さんの思いもかけない幼児語に、皆、一瞬固まり、次の瞬間爆笑した。
「明日何時に迎えに来ましょうか?」
中根さんが尋ねる。
「あんまり早いのは主婦である中根さんに悪いわねえ、言っとくけど、今日みたいなお弁当、ありがたいけど、明日は絶対に持って来ちゃ駄目よ。本当に、絶対にね。自分用のだけしか駄目なんだから。そうじゃなきゃ、今度から頼めないの、分かった?じゃあ、10時にお願いします。ガソリンは明日、我々が行ってからスタンドで満タンにしてね」
「はい解りました。でも明日の10時は遅いと思います.せめて9時でなきゃゆっくりスケッチ出来ませんよ」
「ありがとう、あなたがそう言ってくれて助かるわ。じゃあ9時に旅館の前で待ってるわ」
明日の出発の時間が決まった。
中根さんんは3人を旅館まで送り届けると、帰って行った。
「彼女、好い人ね。素直で気が利いていて、わたしとは大違い」
柏木さんが彼女の車が消えて見えなくなると呟いた。
「ホントホント、あなたやわたしとは大違い、人の為に弁当を作るって発想は、まるっきり浮かばないもの。元々そう言う考えが存在しないんだから」
「わたしだって耳が痛いわ、夫の弁当は今まで一度も作った事ないし、娘は幼稚園の時作ったけど、まあいい加減なものだったわ」3人は笑いながら旅館に入る。
旅館の方が好きというのもあるが、ホテルだと一人が簡易ベッドになる恐れがある、それを考慮に入れても、旅館の方が好いのだ。夕ご飯の心配も無用だし、お風呂は大浴場がある。昔多恵さんのお母さんが香港に行った時のことだが、男性は二人か一人部屋なのに、女性は三人、一部屋になってしまった。夜、ホテルに帰ってお風呂に入る事となった。所がお先にどうぞと言われて先に入った人が全然上がってこないのだ。母達は勉強しに香港に行ってる。講義をして下さっている向こうの先生達がご馳走をして下さる。当然帰るのが遅くなる。洋式だからトイレも洗面所もバスルームの中にある。彼女がお風呂に入ってる間、歯磨きも顔も当然洗えない。そして何よりトイレに行けないのだ。
1時間しても、一時間半しても、やがて2時間たった。でも彼女は出てこない。時計は3時を回っている。もう一人の人が堪りかねてバスルームの外から声をかける。それからどうなったか、あまりの眠たさの為か歯磨きと顔だけは洗ったらしいとだけ、覚えているが他の事はよく覚えていない。兎も角随行人の人に抗議したらしい。しかしここは香港、女一人では危ないらしい。良ーく三人で話し合ってくれと言われてしまった。
どうも彼女自身も病的に優柔不断であるらしいと知っているらしい。朝も着て行くものを選ぶのに時間がかかって随分待たされてしまった。余談だがこの彼女、帰国後仏教の本を何冊か母に送り、その後あの世に急な病で旅立って行ったらしい。異常な優柔不断さが病気から来ていたのかどうかは、今となっては知る由もない。
まあそんな人は余りいないだろうが、世の中色んな人がいる、常に用心し、それなりの覚悟をしていなくちゃいけないと、そのエピソードは教えてくれる。
先ずはそのお風呂に三人ではいる。
「今日はそんなに歩いてないから、あまり疲れてないわ」
「ええ、この間の京都では良く歩いたわ。城下さん相当バテたとわたしは思ってるんだ」
「ご明察!その後電話をもらったのよ、彼女疲れた疲れたと言ってたわよ」
「でしょうねえ、張り切ってみんなのリーダー勤めてたから、後からどっと疲れが出ると思ってたわ」
「でも紅葉、凄かったんでしょう?」
「ええ、凄すぎて溺れそうだった。三日ぐらいは夢の中が真っ赤かだったわ」
「そうかもねえ、画家と言う職業で行くからには、当然紅葉ばかりを追いかけて描く事になるから、そう言う事になるわよねえ」
「そうかあ、私も行きたかったなあ。少し紅葉もわたしのレパートリーに入れてみたいなあと考えていた所だから」
『ああ、御免なさい、わたしが一言電話すれば良かったのに」
「頻繁に私が電話しとくべきだったのよ、あなたが謝る事じゃないわ」
「うん、わたし達、も少し良く連絡するべきよねえ。宗旨替えをしたら特にね」
お風呂から上がって少し粗熱が取れる迄、今日描いたスケッチを見せ合う。
「思った以上に梅の花も油絵に会うんじゃない?」
「そうねえ、今まで何だか油絵にはし難いと思ってきたけど、考え直さないと」
「でも、三宅さんの竹林の絵、迫力満点。まるで滝が竹になって流れ落ちて来てるみたい」
「そうそう、そんな感じよねえ、この間の嵯峨野の竹林とは少し違うなあ、そう、こっちは雄々しい感じで、向こうは柔らかい感じ、なよなよとした感じと言えばいいのかしら?」
「それはあると思う、こっちは武士好みの竹林なんだから」
そうこうしてる間に7時近くなったので食堂に行く事にした。
もうだいぶ客で席が埋まっていた。
「こちらの席が空いてますからどうぞ」と係の人から案内される。
「お酒も一本つくらしいわよ」と柏木さんがウイングした。
「本当、あら結構料理も美味しそうじゃないの?」
「茨木は海有り県だから、海産物が豊富なの」
「そう言えばさっき食べた天麩羅ソバの天麩羅にしたお魚、美味しかったわ」
「本当、このお刺身もぷりぷりして甘くて美味しいな」
「うん煮魚も美味しい」
「野菜も取れるから、野菜も美味しいわ」
「残念ながらわたし達殆ど料理には関心がないから、これが何という魚か、何と言う野菜かはっきり分からいのが悲しい」
「そうそう、マグロやイカ、エビ、タコは分かるけど、他はサッパリ」
「これは‥サザエよ。だって貝が付いてるもの」
『ああ、そうだわ、サザエぐらいは分かるわねえ、ハハハ」
普段は飲まない三人だから、お銚子一本でも結構ハイテンション。
すっかり気分も良くなり部屋に戻った。
『ああ、少し酔っ払ったみたい。これじゃあスケッチの品評会、上手く出来そうにないなあ」
「そうよねえ、私ねえ、河原崎さんの絵の秘密を知りたいと、何時も思っているんだけれど、毎回、何故か失敗して盗めないのよねえ」
「わたしも同じ、どうしてかしら?」
「元々秘密なんてなーんにもないからだわ」
「反対にわたし達の乏しい絵画技法は、あ、これわたしの技法だわ、って思う事あるから、完全に彼女に盗まれてる。これ不公平だわ」
「思う思う、不公平だって。おまけにあんな好い旦那や娘までいて、不公平の2条だわ」
「とんでもない、2条所でないわ、3条よ、3条よ」
多恵さんより二人はかなり酔いが回っているみたいだ。多恵さんの父はアルコールにてんで弱く、それでいて大好きという困った人間だが、その妻である母は反対にアルコールに対して非常に強い。強いけれど年を取ってからは殆ど飲まない。どうも多恵さんは母の血を受け継いだらしい。
よってその夜は品評会なしで、うだうだと過ごし、早めにみんな寝てしまった。
そんな訳で、翌日3人とも早く目覚めた。今日も好い天気の様だ。
『ああ良く寝た、昨日の一本位で酔って寝てしまうなんて、わたしも年取ったなあ」
三宅さんの第一声。
「本当、でも夕べのお酒、美味しかった」
柏木さんが次を受け持つ。
「頭がすっきりしてたら良いお酒です。頭がもわっとしてたら悪いお酒」
「うん?そうね、すっきりしてるような、もわっとしてるような。どっちつかず」
「そうね、わたしもよ、河原崎さんは?」
「わたしはすっきりです。行きの運転は道分からないから、彼女に任せるとして、帰りは私とお二人にも少しお願いしますからねえ、なるべく頭をすっきりさせといて下さい」
二人は互いの顔を見合わせる。
「あー三宅さん、顔、浮腫んでる」
「そうお、元々なんじゃあないの」三宅さん自分の顔を撫でまわす。
「ふーんそうかも知れないし、そうじゃないかも。でも三宅さんよりうんと若いわたしが頑張らなければいけないだなあ」
「うんと若いとこだけ余計よ」
「はいはい喧嘩はそこまで、一応おにぎりを4人分、調理室に昨日の内にお願いしておきましたから、朝食後、忘れないようにしましょう」
「あら、ちゃんと4人分頼んで置いてくれたの?助かるなあ、お酒の強い人がいて」
「わたし達が弱すぎるんじゃないの?」
「そ、それは言える、たったお銚子一本ごときでねえ、情けない」
『まあ好いじゃないですか、少しそこいら散歩しませんか?今日も好い天気ですよ」
「そうねここでおばちゃん同志で戯れているより、新鮮な空気吸いに行く方が好いわね」
そこで朝食前に三人は散歩に出かけた。ここは偕楽園だけでなく梅の木が多い所らしい、旅館の近くの公園にも梅の木が植えられており、好い香りが漂っていた。
「柏木さんには悪いけど、昨日はお負け、今日が本番と思っていたの。袋田の滝をずーっと描きたいと思っていたから、あなたから電話をもらって嬉しかったわ。でも、あそこにはあなたを喜ばすような花は聞かなし、如何して行こうと思い立ったのかしらと聞いてみたら、梅園だけじゃ河原崎さんに悪いと思って、袋田の滝の事を思いついたと言うじゃない。と言う事は河原崎さんが行く、つまり雨が降らないと言う事。この話に乗らない手はないと舞い上がっちゃったわ。わたしは余り梅の花は絵としては描かない主義だから、それを何とかやり過ごせば良いと思ってたの。でもそれは杞憂だったわ。竹林も素晴らしかったし、松も立派だった。それより何より梅の花が、私が思っていたより数倍、素晴らしかった。ごめんなさい、柏木さん。ありがとう、わたしの偏見を叩き潰してくれて」
三宅さんのしんみりした口調、初めて聞いたと多恵さんは思った。
「いやねえ、三宅さんに謝られるなんて。始めっから梅の花は三宅さんには苦痛だろうなと思っていたわよ。何しろ梅の花には三宅さん好みの豪快さはないんですもの。良く辛抱してるなあと、思っていたわよホント」
「良かった、辛抱したかいあったわ、今日こんなに良く晴れて」
「その話を聞いて、わたし、本当に困るんだな、晴れ女の責任、ひしひしと感じるわ。ホント嫌になるくらい」
「あーごめんなさい、本とよねえ、あなたが天気を動かしてるんじゃないのに、勝手にわたし達があなたを晴女に仕立ててしまったのね」
「そろそろ宿へ帰って食事にしましょうか?」
3人は朝食をとり、支度をして宿の外で彼女の車を待つ。勿論お結びも忘れていない。
直ぐに車はやって来た。
「おまたせしました?」
「ううん、全然。わたし達も今外に出て来た所よ」
「あなたこそ家の事、ほっぽらかしにして出て来たんじゃない?」
「いえいえ、大丈夫です。ちゃんと洗濯物も干しましたし、戸締りもきちんとして来ました」
「では今日も宜しくお願いします」
みんな乗り込み、先ずはガソリンスタンドへ。
道は空いていた。
「どの位かかるのかしら?」
「そうですね、2時間弱位かしら」
「思ってるよりかからないのね」
「良かったら袋田の滝の近くに、月待の滝があるのでそこを初めにスケッチしたら如何でしょう?」
「え、他にも滝あるの?」
「はい、この月待の滝は袋度の滝と比べると全然小さいですが、風情があってわたしは好きです」
「月待って名前が素敵ねえ」
「ええ、昔、女性たちが二十三夜に月の出を待って、何かやってたらしいですが、詳しい事は分かりません。それにこの滝は衣服を濡らすことなく、滝の裏側に行く事も出来るんですよ」
「へええ、そう、所謂裏見の滝と言われるものね。洋服が濡れないなら見てみたいわねえ、大した服ではないけれど」
「あ、わたしがそれ言おうと思ってたのに」
「当然そう言われるだろうと思って、先手を打ったのよ」
「運転疲れない?あそこにコーヒーショップがあるわ、一息入れない?」
「うん10時も過ぎた事だし、朝のおやつタイムと行きましょうよ」
と云う訳で車を止めて店に入る。
「外は寒いわねえ、高度が高くなってるから当然か」
「滝も凍るんだから寒いのは当たり前よ」
「でも滝凍っているかしら?」
「そうですねえ、全部凍っているのは無理でしょうねえ」
「と言う事は部分的に凍っている所もある?」
「この暖冬じゃ無理なんじゃない」
「そうね、2月に入ってから凄く温かいから、わたしは全然期待してないわ」
「わたしもそう思います。それにこの所雨が多くて少し、無理かと・・でも水量は多そうですから、迫力は満点では」
「あ、その方が好いわ。凍ってる間をちょろちょろ流れる袋田の滝よりも、ドバっと流れ落ちる袋田の滝がわたしは描きたいんだから」
4人はコーヒーとサンドイッチを頼んで食する。
「さあ、ではその月待の滝まで案内してもらいましょうか」
「そうそう、みやびやかな名の滝にちょっとみやびかでない我々を案内してもらいましょう」
遠慮する中根さんを押しとどめ、ここも3人で分担する。
澄み切った川が見え隠れし、さぞ秋に来たら美しかろうと思える裸ん坊の木々がひしめく道を走る。
車が止まる。
「ここから直ぐです」彼女の声に皆降りる。やはり空気が冷たい。
「ほら、ここが月待の滝です、素敵でしょう?」誇らしげな中根さん。
「ホント、結構迫力あるじゃないの」
「紅葉が色づいていたら、もっともっと素敵なのになあ」彼女残念そう。
「若葉モミジだって素敵だわ」多恵さんも想像してみる。
「この人ね、この間わたし達を出し抜いて、京都に行き紅葉スケッチに行って来たのよ」
「まあ素敵」
「所がね、どこへ行っても紅葉だらけでね、辟易したらしいわ。だから今の彼女には赤いモミジより緑のモミジが魅力的に感じるのよ」
柏木さんが憎々しく説明する。
「じゃあ、ここを描かせてもらうわ。枯れ木だって好いじゃないの、あなたも言ってるじゃない、花も枯れた花に趣があるって」
三宅さんが柏木さんチクリと刺す。
「そうね、その通り、枯れ木と滝も好い組み合わせかもしてない」
柏木さんも描き始める。勿論多恵さんも描く所を決める。3人を見て、中根さんもスケッチブックを広げる。
あれから、おばあちゃんや幽霊さん達は如何したろうか?と多恵さん、すっかり頭から抜け落ちていた別の随行者達を思い出した。
ここいらでちょっと様子を伺うとするか、と杉山君に念を飛ばす。
「はい、やっと俺達の事、思い出したんですねえ」杉山君不満そう。
「ごめんなさーい。何しろ密なもんで、中々連絡できないのよ」
「ハハハ、分かってますよ。実は昨晩、覗かせてもらったんですが、あれじゃあ、俺達が入るスキはありませんでした。で俺達は先に袋田の滝に行く事にしたんです。もうみんな、大はしゃぎですよ。何しろ俺達は寒さも冷たさも関係ないですから、凍っている所を滑り降りたり、轟音響かせて流れ落ちている水と一緒になって、どれが霊やら滝だか分からない状態です」
「あらそれ前も聞いた事あるわ、そうよ、あれは京都の夜、芸妓さんや舞妓さんのいるお座敷だわ。あの時も誰がお客さんか霊なのか分からない位、ごちゃごちゃになって騒いだとか聞いたけど」
「ええ、あの時も楽しかったけど、今度のはスリル満点、と言っても別に怪我をする事も皆無ですからねえ、それでもスリル満点なんですよ。水が激しく流れている所もあれば水が無くってうっすら凍っている所もある、油断大敵です」
「水が無い所が凍っているの?」
「いや凍っているんですから元々は水があったんでしょう。水が少ないから凍っているんでしょうね」
「と言う事は流れている所は凍っていないんだ」
「は、まあそう言う事ですね。何か残念そうですが、凍っていたら何かなさる積りだったんじゃないでしょうね?」
「いえ、まさか。只絵をね、凍っている所も描きたかったなあと思ったの」
「え、凍った滝の絵ですか・・」
「あ、あなた、北海道に行った時みたいな事、考えてんじゃないでしょうね。風を止めたり、吹かせたり、最後には牛さんまで動かしたでしょう」
「あれは、傑作でしたねえ、牛が何が起こったのか分からなくって、まごまごしたりして、ハハハ」
「今度は駄目よ。正に凍ろうとするのを早めたり、ちょっと位置をずらすのは目を瞑れるとしても、こんな好い天気の日に、朗々と流れる滝を凍らせるなんて、飛んでもないことよ」
「ハハ、俺達にはそんな力はありませんよ。みんなの力を合わせても薄い氷の所を広げたり、溶かしたりするぐらいですよ。例え誠君の力を借りてもです」
「良かったあ、出来なくて」
「酷いなあ、こっちは河原崎さんの為を思ってやってるのに」
「それは分かってる、感謝してるのよ、本当に」
「では現状維持で良いんですね。じゃあ、河原崎さんが来るまで楽しむようにと言っときます」
「あ、肝心の事聞くの忘れてたわ、その滝と戯れている中におばあちゃん達も含まれているの」
「ええ、いつの間にかあの銀座のドレスは脱ぎ捨てて、ハイキング服になって我々と一緒になって楽しんでいらっしゃいますよ」
「そうか、銀座の呪縛からはやっと解き放たれたのね」
『ええ、でも、アクセサリーと言うか宝石類は着けられたままですが」
「うーん困ったおばあちゃん達ねえ、死んでも虚栄心は捨てられないのね」
「では向こうでお待ちしてます」
杉山君が消えて行った・
二人の会話は、いや多恵さんの独り言は少々大きな声で呟いてもえ、滝の労音でかき消され、周りには全く聞こえなかった。
「掛けた?」と柏木さんがやって来る。
「ええ描けたわ、どう?」多恵さんがスケッチを披露、
「へえええ、この滝、楽しそうに見える」
「あらそう?本当は枯れ木の中の滝なんだから、寂しさが溢れていなくちゃいけないのにー」
「来たんでしょ、彼ら?」
「ええ、一人だけ呼び出したの。みんな袋田の滝に行って、滝とたわむれて遊んでいるんだって」
「それがいけなかったのね、如何にも楽しそうな滝だもん」
「なあるほどねえ、桑原桑原。であなたは?」
「わたし?ええ描いたわよ、枯れ木をドアップにして」
「どれどれ、なあるほど、これはこれは流石の柏木画伯、枯れ木が凄く生きてる」
「枯れ木枯れ木って、この木達は生きてるんだから、ちゃんと来るべき春に備えて、新芽を守って凛として立ってるのよ」
「うーんおしゃる通り、あなたの画を見てるとそれをひしひしと感じるわ。やはりあなたは花を描かせたら、いや草木を描かせたら日本1,2ね」
「ありがとう、でもこれ画廊さん達には今一不人気よ、きっと」
「何も画廊さん達の為に描いてるんじゃないからね、良いんじゃない」
「でもおまんまがあ」二人は笑う。
「何がおかしいの?年頃の娘でも全然、全くないのにさ」
三宅さんと中根さんが傍に来る。
「柏木さんの絵は素晴らしいけど画廊受けしないって話してたの」
「どれどれ、あ、これいい。素晴らしいじゃないの。見る目のある画廊の人なら、絶対好評価間違いなし。また、柏木さん新境地を見出したのね」
三宅さんがその絵を見て唸っている。中根さんがそれを覗き込む。
「あなたのも見せて」
多恵さんのスケッチも見つめる三宅さん。
「もうすぐ春の気配を感じるわ、何か暖かいわねえ河原崎さんの画って,何時も」
『三宅さんのスケッチも見せて下さい」三宅さんのスケッチが披露される。
大迫力だ。とても及ばないと多恵さんは思った。少しへこんだ、いや、大分へこんだ。
その後一応嫌がる中根さんのスケッチも引っ張り出され、みんなのアドバイスを受ける。
「さあ、ここはここまで、好い滝を描かせてもらったわ、滝と中根さんに感謝するわ、ありがとう。さあ今度こそ袋田の滝に向かって出発」と三宅さんんが張り切った声を上げる。みんなも「おー」と応ずる。
袋田の滝の近くまで来た。無料駐車場がある。もっと近くに止めればちょっとの料金がかかる。
「どちらにする?」三宅さんが尋ねる。
「先ず無料の方に止めて、旅館からの差し入れのお結びを食べてから考えましょう」
多恵さんが提案する。
「あ、それが良いわ、自販機もあるからお茶も買えるし」
「中根さんの分もちゃんとあるわよ、決して豪勢じゃないけど、旅館の心が籠っているから、きっと美味しいわよ」
自販機でそれぞれの好みのお茶を買い、車の中に戻る。やはり滝肌も凍る所だ、外で食べるにはちと寒過ぎる。
『ああ美味しかった。ではどうする?」
「腹ごなしに歩きましょうか?」
みんな頷く。貴重品とスケッチ用品を入れた何時ものバックを肩に担ぎ、全員袋田の滝を目指し歩き出す。徒歩で10分くらいだとか。
入場料と言うか、第2展望台へ行くエレベーター代だ。
長いトンネルが続く。しばらく行くと横へ抜ける道があってオシドリのモニュメントが立っている。滝のどこかにハート形の何かが見えるらしいが、それを見つけるとオシドリ夫婦になれると言う意味だそうな。そんな事には全く疎いメンバーは無視、と思いきや滝が見えるならと、無視は出来ないメンバーでもある。4人はぞろぞろモニュメントの方へ歩いて行った。
「ここから・・ちょっと遠いけど、でも見えるわね」
ソバにはアベックらしい二人連れ。いや、多恵さんには三人いるように見える。女性が二人男性が一人。
「ほらほらあそこよ、あそこがハート形してるの、はっきり見えるわ」
若くて明るい感じの女性がはしゃいだ声を上げる。
「あ、分かった、俺にも分かったぞ、あの少し流れが分かれているとこだろう」
「そうそう、良かった。これでわたし達もオシドリ夫婦になれるかも」
「オシドリって人間が思っているほど、仲の好いもんじゃないわ」ともう一人の女性が呟く。
「そうオシドリって、雌鳥は卵を産むとそれを雄に任せ、さっさと次の雄と交尾すると聞いた事があるわ」
多恵さん、思わずその顔色の悪い女性につられ呟いてしまった。
「え、なーに、水音が大きいから聞こえないわ」
柏木さんが聞き咎める。
『ああ、御免なさい。オシドリについてちょっと聞いた事話してただけ」
「だれと?あ、もしかして例のやつ?」
「フフフ。そう、例の霊、どちらかと言うと幽霊的霊ね」
「ここにいるの?」
「ええ、ほら、あのカップルの近く。どうもこの幽霊さん、その男性が好きだったらしいわ」
くるりと幽霊さんがこちらを振り向く。
「あなた、わたしが見えるの?」
多恵さん頷く。
「わたし、今でも彼が大好きなの、とても」
「どうしてあなた、死んじゃったの、自殺?」
「自殺じゃないわ、自動車事故よ」
「自動車自事故、どんな交通事故だったの?」
「彼がさあ、あんまり冷たいと感じたから、無理して新車を買って、彼に自慢しに行ったのよ」
「ふーん、新車で彼を釣ろうと思ったのね」
「そう。あ、彼がここから離れるみたい。わたし、行かなくちゃあ」
カップルが自撮り写真を何枚か取ると、トンネルの方に戻って行く。幽霊さんもその後を追う。
「どうなったの?」柏木さんが尋ねる。
「まだ何にも分かんないわ」
「さあここは描かなくて良いわね。次の第一展望台が凄いらしいから、早くそこに行きましょう?」
三宅さんの言葉にみんな異存はない。
音が段々強くなっていく。
「わーす、凄い、凄すぎる」
「この所雨が良く降ってたから、水量が十分で迫力満点です」
「ホント、早速スケッチしなくちゃあ。わたしあそこにする」
三宅さんが描く場所を確保した。
「わたし、三宅先生の傍で良いでしょうか?」中根さんが多恵さん達に尋ねる。
『ああ、好いわよ。滝ってなかなか難しいから、三宅さんからここはちゃんと色んなことを盗まなくちゃあね」
「あ、はい、盗めるかどうかは分かりませんが、少しは学びたいと思います」
ニッコリ笑って彼女は三宅さんの下へ。
「さあてわたしはどうしようかな、こんなにデ、デ、デーンと目の前に滝に迫られると、滝そのものを描かざるを得ないわ」
柏木さんぶつくさ。
でも意を決したみたいで、やはり右寄りに位置をずらして描き始める。
多恵さんも滝の迫力に負けてはいられないとやはり右側の場所を確保した。
あ、いるいる、目の前の一番大きな滝の上から、杉山君が手を振っている。
うーん、とても邪魔だ。彼らがちらついて絵に集中出来ない。
杉山君が現れた。
「あなた達とっても絵の邪魔なの、早く撤収してくれない?」
「はいはいお安い御用です」杉山君二つ返事で引き受けた。
暫くすると多恵さんの周りに、ずらりとおばあちゃんの仲間や幽霊さん、それに誠君師弟も現れた。
これを見ていたのか、さっきの女性がふーっとやって来る。
「あら、あの二人、見張らなくて良いの」
スケッチブックを広げながら聞いてみる。
「悔しいけど、わたしの力ではあの二人をどうすることもできないの」
「どうするって、あなた、良からぬことを考えていたんじゃないでしょうね」
「ええ、あの子、わたしが死ぬ前から、彼を誘惑して、悔しいったらありゃしない。今日滝を見に行くって言ってたから、滝壺に落としてやろうと思っていたんだけど、幽霊って情けないほど力がないのねえ、幾ら押してもビクともしない。悲しいわ」
「そんな事して、もし彼女が亡くなったら、あなた地獄行きよ。力が無くって良かったのよ。それにその女性、あなたに何も悪い事してないじゃないの。完全にこれはあなたの逆恨みだわ」
「おうちさあ、なんば恨んで幽霊になったとねえ?」
「へえさ、そんげん好か男でもなかし、女の方も大したことなかよ。あんげん二人に焼き餅ば焼くのは、馬鹿馬鹿しか、早よ目ば覚ませんね」
「うち達は幽霊じゃなかとよ、少うしの間、こん人に誘われて遊びに出て来たと。早よおうちも目ば覚まして、良か霊になってあの世に行くなり、守護霊ば目指した方が良かと思うばい」
突如の長崎弁の嵐に彼女、目を白黒。
『ねえ、さっきは話、途中までになったけど、何故あなたは亡くなったの?」
多恵さんが聞き直した。
「えー、それが彼も新車、購入してたんです」
「あらまあ、それでどうなったの?」
「この無駄遣い女とののしられました」
「でもあなたのお金で買ったんでしょう?」
「はい、そうです。でもそんなお金があるなら、俺に貸してくれれば他の事に使ったのにいと怒りました。彼、実は賭け事、大好き人間なんです。だから多分賭け事に使いたかったんでしょうね」
「それでどうしたの?」
「その挙句に、なんか気になる女がいるとか言うじゃありませんか」
「そりゃ酷か話ばい」おばあちゃん達が又割り込んで来そうだったのを、多恵さん必死で手で止める。
「それが今いる女性です。新車も彼女の気を引くために買ったとか言ってますが、彼女が買わせたに違いありません。悔しくて悔しくて、もう二人の関係もここまでねと言ったら、じゃあさいならねと、あっさり終止符を打たれちゃいました」
「渡りに船と言う所ね、それでどうしたの」
「その日、あまりの悔しさと突如の別れに呆然として帰りましたが、後になって考えれば考える程、悔しさが募りました。腹も立ちます。腹が煮えくり返るとはこう言う事を言うんだろうと思いました。そんなうつうつとした気持ちでのまま、2,3日して買い物に行きました所、二人を見ちゃったんですねえ。二人を轢き殺そうかとも考えましたが、やっとの思いで留まりました」
『ああ、良かった」聞いていたみんなが胸を撫で下ろした。
「思い留まったのは良かったんですが、感情はもうがたがたです。めちゃくちゃに走って気が付いたら高速に出てました」
「高速に乗っているのも気が付かなかったの」
『ええ、暫くは。でも、はっと気が付いたんです。何をしてるんだろう戻らなくちゃいけないと。そのまま次の出口まで行けば良かったんです。その日は道は結構空いていたんですね、それがいけなかった、逆走して戻れると、ふと悪魔が囁いたんですね」
みんなの顔から笑いが消え、多恵さんの顔色が青ざめた。
「そうです、新聞にも載りました、トレーラーにぶつかってわたしはあの世行き、ではなく、ニックキ彼と彼女に復讐を果たすべくこの世に留まったんです」
みんなの口からため息が漏れる。
「それでこの滝壺へ何とかして彼女を突き落とそうと考えたんですね?」良介君が聞く。
「何か良介の時の話に似てない事もない」杉山君が言う。
「え、良介の時とは全然似てないよ、ま、交通事故で死ぬのは同じだけど」石森氏。
「そうだなあ、相手を物凄く好きな所も一緒だし・・でも相手の女性は、初めから良介を利用しようと思っていたし、良介は悲嘆にくれてはいたけど相手に復讐しようなんて、これっぽちも思っていなかったもんな」
「大体良介は人が良さ過ぎるんだよ、あん時、二人をひっ捕まえて慰謝料をブン取る交渉をするべきだったんだ、酒を飲んでる場合じゃなかったんだよ」石森氏思い出して怒りを爆発させる。
「だって、あの時は何も考えられなかったんです、目の前のビールを飲んで飲んで飲みまくる以外」
『まあ、その気持ちわかるけどさ」落ち込む良介君を男性二人が慰める。
「あ、あのう、これからわたし、如何すれば良いんでしょう?」
彼女が溜まらなくなって割りこんで来た。
「ねえ、あなたのお名前を聞かせて、もしわたし達とお付き合いをしたかったら?」
彼女は暫く多恵さんの顔を見詰めていたが、決心がついたらしく口を開いた。
「わたし、山崎アカネと言います。彼らに幾ら復讐しようと思っても、力はないし、良い考えも思いつかない。だと言って彼らを許すなんて出来ないわ、それでも私を仲間に入れてくれますか?」
「アカネさん、好いお名前ね。仲間は本当はもっと沢山いるの、今は京都で舞妓か芸妓だか知らないけれど、踊りの稽古をしてる若手の女性達もいるし、子供がいて、デーズニーランドに遊ばせに行ってる女性もいるのよ。彼女達はそれぞれ、悲惨な前世を送っているの、今度会ったら聞いてみて。でも、彼女達は前向きに幽霊になった事を捉えて、あの世に行く事を考えたり、守護霊を目指してそれぞれ、多分修行を積んでいるの」
多恵さん、じろりと杉山君を睨む。
「お、俺は・・ええ、はい、毎日、守護霊になるように日々、努力してますよ」
石森氏と良介君が下を向いて笑っている。
「杉山さんは、その存在がみんなを和ませ、笑わせ、励ましています。立派な守護霊になられる事、間違いないと思います」
何とその時、今まで一言も発しなかった誠君が天使の助け舟。杉山君もニッコリ。
「あなたの恨みを捨てなさいとは言わないわ。みんなそれぞれ生前の恨みは大なり小なり持っているの、
それでも、前に進もうと考えているの。だって恨んでも仕様のない事でしょう?あなたにも分かったでしょう、幽霊って全然物理的力がないの、あるのは・・うーんこれを言って悪用されたら困るんだけど・・幽霊が持っている冷気、それしかないわ。修行を積んで行けば結界とか風を部分的に起こせるとか、出来るらしいけど、悪い幽霊のままならそれも出来ないわ」
「冷気?そうか、だからか、彼の傍によると寒い寒い、俺冷え性になったみたいだと言っていたわ。冬だから、誰も不思議がらなかったけれど」
「これを悪用するとね、守護霊の反対の地縛霊になっちゃうのよ、気を付けてね」
「えー、知らなかったから。決して悪用しないと誓います。これで仲間に入れますか?」
「勿論良かに決まっとるばい。と言ってもうち達は幽霊さんとは違うとよ、杉山さんにオーケイば出してもらわんね」おばあちゃんが喋る。
「はい、仲間にようこそ。でもさ、俺達の事訳分からないんじゃないの、説明してあげるね。ええっと、先ずこの女性軍、本当は亡くなった時が100歳から90歳の女性なんだけど、霊だから自分の好きな年頃になれるんで若く見えるんだ。この人が多恵さんのおばあさんで、他の二人はお友達。でさあこの人は川で溺れる子供を助け、自分は心臓マヒで亡くなったんだけど、又その場所で子供が無くなるかも知れないと、その場所から離れないで数年過ごし、お地蔵さんが出来ると言うので、やっと俺達の仲間になったと言う本来は天使になるべき人なんだ.その他はここにいるのは全部幽霊集団、身の上話は又、おいおいね」
そう話してる時、三宅さんや柏木さん達がやって来る。
「どう描けた?」三宅さんが尋ねた。
『まあある程度はね」
多恵さんの滝を描く心得、男になって描くべし、特に目の前にある滝、これを完全なる男の気持ちで描かなくて如何する。しかし、彼女の話に気を取られ、完全所か、半分も男の気持ちになっていなかったのだ。うーん参った、参った。
「アラー、何だか何時もの滝とは違うわ、そうか、あの半分溶けかかった氷瀑に気を取られたのね。何時もより滑らかに描いてるわ。でもこれもありかもね、溶けかかった氷瀑、あまりみんなが注目しない所を描くなんて、河原崎さんらしいわ」
此方三宅女史のは如何と言えば、ため息が出る程迫力満点、まさに男が描く滝だ。完全に女を捨てている絵だ。
「参りました、素晴らしい迫力です。一方、わたしこの絵を描く時ボーとしてて、本気でこの滝に集中していなかったんです。この絵がもしなよってしてたら、それはわたしの心構えが足りなかったんです」
三宅さんが笑い、柏木さんが笑い、中根さんもつられて笑った。
「じゃあ、第二展望台では是非、河原崎さんの本気の絵を描いてもらわなくちゃあね、みんな」
「この絵だって河原崎さんが言うようには、決してなよってなんかしてないわよ。あなたが本気出したら一体どうな絵になるか、楽しみだわ」と柏木さんが付け足した。
「さあ、エレベーターに乗って第二展望台に行きましょう」
みんな、三宅さんの後に続いた。
エレベーターが開く。それ迄途絶えていた滝の轟音が再び響き渡った。
「もう一段上の展望台があるわ、如何する?」
「もち、今日はウイークデイ、見物人が少ないんだから上でスケッチしても構わないと思うわ」
「そうそう、その為にもウイークデイにしてるんだから」
「はいはい、兎も角上に行って様子を見ましょう」
階段を上る。滝の全貌が現れる。
「うーん、又違った迫力ね」
「あー、わたし、こっちの方が描きやすいし、好き」柏木さんが叫ぶ。叫ばないと他の人間には聞こえないからだ。
「そうね、今度こそ気持ちを切り替えて・・でもここから見る滝って少し、なよってしてない?」
多恵さんの叫び。
「ふーん、そうかも知れない。さっきは間近に見たから、大迫力に圧倒されたけど、今度は少し引いて見てるから、滝の初めから、四段階を経て、滝壺に流れ落ちる様の曲線が、何となく女性的に見えるのね」
「あー如何しようかな?男になるべきか、女になるべきか、それが問題だ!」
「ハムレットの心境ね」
「えーハムレット?ハムレットって男になるか女になるかって悩んだの?」
「違うわよ、例えよ、例え。セリフの中に生きるべきか死ぬべきか、それが問題だってえのがあるじゃない?だからそれで言ってみたの。分かった?」
第3巻瀑台の上で多恵さんと柏木さんの怒鳴りあいだが、滝の音で搔き消されがち。
「女だって怖いですよ、アカネさんと良介君を比べたら、ね、アカネさんの方が怖いです。もし、このままあなたに合わなかったら、彼女どうなった事やら分かりませんよー」
杉山君が多恵さんにそっと耳元で囁いた。
「そうね、分かった。今回は怖い女性の心で描いてみるわ。ここから見える滝壺なんて、正しく女性の執念そのものだわ」
「お、如何したの、何か閃いたのね、すっきりした顔して」
「うん、ギリギリ滝壺が見えるとこで描かせてもらうわ」
多恵さん、さっさと場所を決めスケッチブックを広げる。
あきれ返る三宅さんと柏木さん。
「じゃあ、わたし達も場所決めて、仕事に取り掛かりましょう」
三宅さんも場所を決めて描き始める。
「うーん、わたしはどーしたら良いかしらねえ」
残された柏木さん、ブツブツ言っていたが他の人には全く聞こえなかった。その時彼女の目の前を寒椿らしい花を手にした女性が通って行く。
「ま、待って」柏木さんが女性を大きな声で呼び止めた。聞こえないのか彼女は柏木さんから遠ざかろうとする。
「ね、待って」もっと大声で怒鳴る。それでも彼女、柏木さんから逃げるようにどんどん遠ざかる。
柏木さん、必死でその彼女に追いすがる。
「ご御免なさい、悪気はなかったの。あんまり綺麗だったから一枝折ってしまったの」
何と彼女の方が先に謝った。
「?」呆然とする柏木さん。彼女は柏木さんの手に赤地に赤白い縞模様の寒椿を押し付けると、今度は本当に柏木さんの元から駆け去り、階段を駆け下りて開いたエレベーターの中へ消えて行った。
「ただモデルに少しの間なって欲しかっただけなのに」
でも確かに寒椿は美しかった。リュックの上に寒椿を乗せた。これで描けると柏木さんは心の中で思い、ツバキを渡してくれた見知らぬ女性に感謝した。
「わたしはやっぱり花の絵描きよ、少しでも花の匂いのない絵なんて描けないわ」
こうやってそれぞれの思いを込めて、この第3観瀑台からのスケッチは進んで行った。
「描けた?」と三宅さんが多恵さんの傍へやって来る。
『ええ、大体」多恵さん、クルリとスケッチの向きを変え、三宅さんに見せる。
「うわー、何だかこの滝引き込まれそう。それに何だか怖いわね、滝壺の色」
「フフ、そうですね、女の執念みたいのを描いてみたんです」
「女の執念か、うんそれが良く伝わって来るわ、ひしひしとね」
三宅さんのを見る。
「おうおう、凄い凄い。堂々たる袋田の滝。押しも押されもせぬ男らしい滝だわ。どんと来い、全部まとめて面倒見てやるぜ、って感じ」
「何かセクハラに引っかかるような誉め言葉ねえ。うん、まあ、確かにそう言ったイメージで描いた事は確かよ、腕力では確かに男には負けるからねえ」
多恵さん、傍らの中根さんを見やった。彼女の胸にはしっかりとスケッチブックが守られるように抱えられている。
「さあいよいよあなたの晩よ。先ほどは何故かパスしちゃったけど、今度は私にも召せて頂だい」
彼女は何か言ってるみたいだけど、多恵さんには良く聞き取れない。兎も角スケッチブックを受け取る。
「済みません、わたし、こんな大きな滝描くの初めてなんです。だから部分的にしか描けなくて。まとまって描けてる者が一つもないんです」
もう一度彼女が大きな声で叫ぶ。
「うん、成程。でもそれで十分なんじゃないの?このあなたが細切れに描いた所が、あなたの感動した所でしょう?それが重要なのよ、それがあなたの伝えたい事、あなたが受け取った滝のメッセージなんだから!三宅さんはこの滝の雄々しさを受け取り、わたしは滝が秘めている魔性、を受け取った。人それぞれ対象から受け取るものが違うし、それを見る人も又、千差万別に受け取っているのよ」
「で、でも、ちょ、ちょと拙いんじゃないですか、も少-しつながっていなければ、絵になりませんよ」
「フフフ、それはそうね。でも何時の日かその断片的なものが役に立つかもかも知れないわ。でもさこれを部分的と思わないで、これがわたしの描きたい滝の全部なんだーって思ったら.結構面白いものに仕上がるかもよ」
「えー、そんなのありですかー?うん、面白いかも、貯戦してみます」
「じゃあ、プロの絵描きが薦める事ではないけれど、写真をたくさん撮っておくことね、きっと役に立つわ」
「皆さんが写真機を携えているの、何故だろうと思ってました」
『ええ、思い違いや辻褄だ逢わないことが有ったりしたら写真が一番よ、遠慮しないで撮りなさい」
「河原崎さん、あなたの教え方とても優しいのねえ、わたし、面倒くさくて、そんなの自分で考えなさいとか、見ていりゃその内要領掴めるわって思ちゃう」
三宅さんが笑っている。
「あともう一人は如何したかしら?」
振り向くと赤に白い縞模様の寒椿を前にしてせっせとお絵かき中。
「その花何処からひねり出したのよ」
三宅さんが柏木さんの傍に行って大声で怒鳴る。
柏木さん、顔を上げにたりと笑う。
「親切な人がいて、わたしの手に押し付けて行ったのよ。わたしは少しの間、モデルになってくれれば良いと思っていたなんだけどねえ」
「あなたの人相が凄く怖く見えたんじゃないの?」
「そうかもねえ、この滝、どう料理しようかと考えあぐねていたからなあ」
「でも良く、こんなきれいな椿が、花を描かせりゃ日本1,2の柏木さんの手に渡ったわねえ」
「わたし、駐車場からここに来る途中、この花が咲いてるのを見たわ、綺麗だったから覚えている」
「そう、多分、あそこの家のをその女性は手折ったのよ。それをわたしが呼び止めたから、わたしを係の人と勘違いし、叱られると思って、わたしにこの花を押し付けて逃げて行ったんだわ。うーん、お蔭で袋田の滝、見事に描き上がりました、如何、わたしの袋田の滝」
彼女の差し出したスケッチブック。燦然と輝く寒椿、そしてその向こうに我関せずとばかりに流れ落ちる袋田の滝。だがそのミスマッチさがなぜか心を引き付ける。色も良い、空の青、黒い岩、薄水色と白い滝、それに赤と白の寒椿。画面もツバキのお陰でグーっと引き締まっている。
「成程、素晴らしいわ。柏木さんには袋田の滝、ちょっと無理かなあと思っていたの。でもこの椿一本でこんな素敵な絵が生まれるなんて。脱帽よ、脱帽」
三宅さんが褒めちぎる。多恵さんも中根さんも勿論同調する。
「さあ、それぞれ良い絵が画き終えたと言う事で、下のつり橋を渡って駐車場へ戻って、楽しい我が家を、あるいは誰も待ってない寂しい我が家を目指して、帰りましょう!」
つり橋からも滝が見える。全員、写真をバチバチとる、名残惜しさを込めて。
途中休憩場があったので、もう一度お蕎麦を啜り、刺身蒟蒻を頂いた。モチ土産の中に蒟蒻やお蕎麦が入ったのは言うまでもない。
帰りの車の運転は中根さんの指導の下、三人が交互に運転して帰る。
水戸駅で中根さんにお礼を言い分かれ、三人は土産を物色。
「パトロンが多いと大変よねえ」と何時も聞きなれた言葉を背に受け、多恵さんは何時も通り、真剣に土産選び。
うーん、ここは水戸、しかも偕楽園に来たのだ。好きであろうが嫌いであろうが、やはり梅干を外す訳には行かない。それに男性諸君には清酒、女性には?分け判らぬままに、子供用にまずは可愛いお菓子を選び、後は適当に半生菓子やクッキーを選び、宅急便で送る。
女二人それをじっと見守る。
「ありがとう、さあ楽しいじゃなかった少し寂しい我が家へ帰りましょう!」
翌日六色沼へ出かけた多恵さんの念に応じて杉山君が現れた。又テニスウエアの出で立ちだ。
「あら又テニスの練習なの?」
『まあそうですね、2日ばかり練習休みましたから」
「それはそうね、その間おじいちゃんは他の人と練習してたんだから」
「うーん、と言うよりも、おじい様は・・・」
「何よ、何を言いたい訳」
「はい、おじい様は自分だけのけ者にされたと思っていらしゃるようですよ」
「え?のけ者ですって。どうしてそう思うのよ?」
「実をいうとおじい様も一緒に旅行に行きたかったらしいんです」
「えーおじいちゃんも旅行について行きたかったと言うの、もう」
「何しろおばあ様達はあれからデーズニーランドの方へ行かれているし、少しお寂しいと感じられているんじゃないでしょうか?」
「ふーん、そうなの?所でさそのデーズニーで思い出したんだけど、おばあちゃん達が居なくなった後、父は一体どうしたの?まさかデーズニーの方へ行ってるって事ないよね」
「はい、もっと早く報告しなくてはいけないと思っていましたが、チャンスが無くて言いそびれてました。そのデーズニーランドの話が出た後、あ、俺も一度あの世に行って、その友達の大熊を探してくるとおっしゃり、あの世の方へ行かれてしまいました」
「そう、そうだったの。まあ、この世では念願の船乗りにもなれた事だから、思い残す事もないって訳よね。あの世に行って友人と語り合うのが一番だわ」
六色沼にまだ少し冷たい風が吹き渡る。でももう春はそこまでやって来ているのだと多恵さんは思った。
続く お楽しみに