2.属国神官の憂鬱 前編
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ガシャンと重い音が響いた。部屋に飾っていた、陶器製の花瓶が割れた音だ。
(……霊威で修復できますかしら。特殊な加工法を使っていたら難しいかもしれませんわ)
床で残骸と化している元花瓶は、帝国の属国であるこのテスオラ王国で指折りの職人が作った名品だった。
「レアナ、何故すぐに出迎えをしない!?」
秀麗な美貌を歪めた青年が怒鳴っている。一瞬風を感じたと思った瞬間、ピシリと音が弾け、頰に鋭い痛みが走る。
「私が姿を見せた際は、即座に敬意を表して迎えろと申し付けてあるだろう。木偶の坊の如く突っ立っているとは……何度同じことを言わせる気だ!」
そう言われても、彼はいつ何時顕れるか分からない。自分の好きな時に姿を現し、好き勝手に振る舞って消えるのだ。こちらが仕事に集中していれば、出現に気が付くのが遅れることもある。
―― などという反論を口にするわけにはいかない。そんなことをすれば、叩かれるくらいでは済まない。
「リーリア・レアナ・アヴェント。王国の権門たるアヴェント侯爵家の娘でありながら、何という無作法か」
「申し訳ありません……」
ジンジンと痛む頰を抑えることも許されず、床に平伏して頭を下げる。返って来たのは、辟易したような溜め息だった。
「謝罪ではなく行動を変えて示せ。これを言うのも何度目だと思っている。お前ごときを見初めてやった私の寛大さにひれ伏すべきだ。お前など選ぶのではなかった。今からでも寵を取り消してやろうか」
「そ、それだけはご勘弁下さい、ゲイル様!」
リーリアが顔を上げると、腕組みした青年――ゲイルがこちらを睥睨しているのが目に入った。見た者を忘我の境地に至らせるほど美しい容貌に、侮蔑が滲んでいる。
(神に愛された者が失寵するなど前代未聞ですわ。そんなことになれば、我が家門の立場も評価も地の底に……!)
「あなた様に寵をいただけましたこと、我が家族一同この上なき誉に思っております。どうかわたくしをお見捨てにならないで下さいまし」
ゲイルが勝ち誇った表情を浮かべ、口の両端をつり上げた。目の前で這い蹲る娘が、己には絶対に逆らえないことを――己の情に縋るしかない立場にあることを、確信している笑みだった。
「ふん、お前への愛想などとうに尽きている。実に疎ましい。だが、仮にも一度は情をかけた女だ。捨てることだけは許してやろう。ただし、これ以上愚鈍な真似を繰り返せば、その慈悲も尽きると思え」
言い捨てると、優雅に体を反転させて踵を返す。身に纏う壮麗な衣がフワリと翻った。酷烈な言動とは裏腹に、彼の所作は品が良い。
「興が削がれた。散策の供を申し付けようと思っていたが、もう良い。次はもう少しマシな出迎えをせよ」
その言葉を聞き、結果論だがこれで良かったのかもしれないと思った。散策に同伴させられていば、きっと一挙一動に難癖を付けられて、もっと手酷い扱いを受けていただろう。
最後はリーリアに目を向けようともせず、ゲイルはフッと姿を消した。
「…………は、ぁ……」
震える吐息が漏れた。床に蹲っていた体が萎縮している。
いつもこうだ。自分の絶対的支配者である彼は、気まぐれにやって来ては暴言を吐き、こちらをズタズタに傷付けて去っていく。
(どうしてこんなことになってしまったんですの?)
もう幾度となく繰り返した問いを、胸中で吐き出す。
(いいえ、答えはもう分かっていること。わたくしがゲイル様に靡いてしまったから……。見る目のなかったわたくしの自業自得ですわ)
初めて自分の前に出現した時のゲイルは、慈愛深く優しい仮面を被っていた。ゆったりとしたしなやかな手付きでリーリアの髪を撫でてくれ、温かな眼差しで甘い言葉を囁いた。
『ああ、美しい人。そなたほど私の心を掴んだ者はいない。どうか私の愛し子になっておくれ。全霊でそなたを大切にすると誓うよ』
その態度にコロリと騙され、絆されてしまった。本当は、心の中に浮かんだのは別の存在であったのに。
(真に想う御方は他にいるのに、心を惑わせてしまった罰を受けているのかもしれませんわね)
だが、本当に心を向ける者とは、再び会えるかどうかも分からない。だから、不確実な未来に期待するより、目の前に現れた確実な光を取ってしまった。それが、輝かしい希望の皮を被ったどす黒い絶望だとは知らずに。
リーリアが寵を受け入れることを宣言した直後、彼はコロリと態度を変え、本性を剥き出しにした。リーリアを奴隷のごとくこき使い、絶対服従を強要し、言葉や動きの一つ一つを否定して悪罵を吐く。
視線を落とすと、左手の薬指にはまった金色の指輪が目に入った。寵を受け入れると同時に渡されたものだ。
『私の気持ちだよ。受け取っておくれ。片時も離さず身に付けておくのだよ。そなたが神に愛された証なのだから』
彼が態度を豹変させたのは、この指輪を付けた後だった。今すぐ外してどこかに放り捨ててしまいたい、忌まわしい代物。だが、決して外すなと命じられた以上、従わなければならない。主神の命令は絶対だと言われている。逆らえば寵と神格を取り上げると。
(もう時間ですわ。お父様の所に申し送りに行かなくては)
時刻を確認し、ノロノロと立ち上がる。霊威で防音の結界を張っていたので、花瓶が割れる音やゲイルの怒鳴り声が外に漏れることはなかったはずだ。
必要な資料をそろえ、意識を保ち直すと、ピンと背筋を伸ばして部屋を出た。
「リーリア様、ご機嫌麗しく」
「主任補佐、おはようございます」
「アヴェント家のご令嬢は今日も美しい」
「さすがは主任神官の娘御だ」
すれ違う神官たちが立ち止まって頭を下げる中を、仄かな笑みを浮かべ、凛とした姿勢で歩く。
『このテスオラ王国で指折りの名家たる我が家門に生まれたお前は、いついかなる時も堂々と、見目美しくあらねばならない』
物心つく前から、厳格な祖父にそう言われ続け、直々に教育を受けながら育った。
神官としての修行と並行し、王女や公爵家の令嬢が受けるような徹底的な指導を受け、休息は最低限のみ。遊んだこともろくにない。
同じ年頃の娘たちのように、甘い紅茶に綺麗なお菓子をいただきながら楽しくお話ししたい、というささやかな夢は、12歳になった頃に諦めた。
「主任神官、失礼いたします」
目指す部屋に辿り着き、ノックをして入室する。
いの一番に耳を貫いたのは、ダンと床を付く音と、ゴロゴロと低い怒鳴り声だった。
「お前がそのような弱腰だから、没落した元貴族の小娘風情に舐めた態度を取られるのだ!」
(お祖父様……)
苦手を通り越して恐怖の対象となっている祖父が、三白眼をつり上げている。若い頃は見事な金色だったという頭髪は白く染まり、強靭な意思を宿す濃青色の眼が苛立ちに燃えていた。
祖父の前では、この主任神官室の主である父がデスクに座り、小さくなって俯いていた。
「ち、父上、そのような大声を出されては外に聞こえます。皆を驚かせてしまいますから……」
下を向いたままおずおずと言う父を、太い怒声が踏み潰す。
「たわけ、防音の結界を張っておるわ。そんなことも分からんのかお前は!」
手に持った杖を掲げて迫る祖父に、父は消え入りそうな声で陳謝する。
「全く情けない。それでも儂の後継か。いい加減、我が国の主任神官及びアヴェント家の当主として相応しい威厳を身に付けよ」
「はい……」
アヴェント侯爵の地位は、既に父が受け継いでいる。しかし、実際に権力を握り続けているのは未だに祖父だ。家門の長老として老侯と呼ばれる祖父に、気が弱い父はまるで逆らえない。
蚊の鳴くような返事に舌打ちした祖父が、ふとこちらに気付いた。
「リーリア、来ておったか」
「はい、おはようございます」
頭を下げると、父も小さく微笑んだ。
「おはよう、リーリア」
「これを見よ」
仏頂面をした祖父が、デスクに置いていた紙を放り投げた。
「これは――?」
「先日、神官アマーリエに送った祝い品への礼状だ。何たる屈辱か」
ありがとうございました。