70.彼らの現在
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「なぁ、さっきの本……」
パタパタと軽い足音が去って行くと、フレイムが呟く。優雅な仕草で紅茶のカップを持ったフルードは、涼しい顔で言った。
「端的に言えば、歴代聖威師たちの惚気を集めた本ですね。各聖威師が、ひたすら己の神に愛されているだけの自慢話です」
口内に流れ込んだ紅茶は熱いままだった。ポットやカップに保温霊具が組み込まれているのだ。
「だよなぁ」
フレイムはククッと肩を震わせた。ラモスとディモスがそろって尻尾をピョンと振る。
「あれが聖威師たちの最大の宝か」
おかしそうに笑うフレイムに、澄まし顔で頷く。
「何より慕わしい己の神との思い出が詰まった本です。これ以上の宝があるでしょうか」
聖威師と神は相思相愛なのだ。
「――ああ、なるほどな」
「アマーリエも近くそう認識するようになるでしょう。こんな本アホかと思うのは最初だけです」
「……思ったんだな……」
「初めのうちだけですよ。すぐに、自分も既巻の内容に負けないものを加筆してやろうという気になりますから」
茶菓子を見ると、色とりどりのチョコレートと何種類ものフィナンシェ、クリーム入りの一口パンケーキだった。すぐに分かる。アマーリエが好きなものばかりを揃えているのだと。
そして同時に、自分の好物でもある。視線に気付いたフレイムが声をかけて来た。
「遠慮せず食えよ。あ、クラッカーやチーズも出せるぞ。お前そういうのも好きだったろ」
「お気遣いなく。このままで構いません」
音を立てずにカップをソーサーに戻したフルードは、さらりと続けた。
「今日は苦い話になりますから。甘味の方がいいでしょう」
一瞬で部屋の空気が変わる。フレイムから笑みが消え、聖獣二匹が耳を立てた。
「そうだろうな。お前、必死でユフィーをここから追い出そうとしてたもんな。――何があった?」
静かな問いかけが放たれる。詰問口調ではない。フレイムは決してフルードを追い詰めたり威嚇したりしない。それが分かっているため、フルードは落ち着いたまま神官衣の懐から三通の書簡を取り出す。
「こちらを。サード家当主ダライと当主夫人ネイーシャ、そして次女ミリエーナから届いたものです」
牢獄に収監中のダライとネイーシャ、神官府の奥で軟禁されながら治療を受けているミリエーナ。アマーリエは、既に彼ら全員を見限っている。だがそれでも、彼らなりの言い分があるならば聞くだけは聞いてみたいと言っていた。
その意向を汲み、フレイムは神官府を通じて、内密に書面での弁明の機会を設けていた。彼らがしたためた内容によっては、アマーリエに見せてもいいと考えていたのだ。
「見るぞ」
「どうぞ」
フレイムの手元を、ラモスとディモスが覗き込む。書簡を共に読むつもりなのだ。
書簡の中身は、大雑把に言えばこういうものだった。
ダライは、『アマーリエに私の娘を名乗る資格を与える。何か誤解があり、意地になっているようだが、今回は特別に許してやる。父の厚意をありがたく受け入れ、今後は聖威師として一層励むように』という内容だった。
ネイーシャは、『私はミリエーナに騙されていた。本当の出来損ないはミリエーナだった。これからはアマーリエだけを可愛がってあげる。何でも買ってあげる。甘えさせてあげる。だからお願い、許して』という内容だった。
ミリエーナは、『アマーリエと私の運命は逆だったはず。こんなのおかしい。アマーリエは邪神をたぶらかし、焔神様を騙して運命を入れ替えたの。焔神様の真の愛し子はこの私よ』という内容だった。
一読したフレイムの手から炎が迸る。だが、寸前で書簡が消えた。
「…………」
炎だけが虚しく燃える手の中を見た山吹色の目がスゥッと細まり、フルードに向けられた。聖威で書簡を己の掌中に転送させたフルードが、静かに頭を下げる。
「お許し下さい。お気持ちは十二分に分かります。しかしこの書簡は、アマーリエに有利な証拠となる資料です。正式な処断が決まり実行されるまでは、何卒ご寛恕を」
室内に沈黙が落ちた。
理由はどうあれ、高位神が手にしていたものを強引に取り上げる。非常に無礼であり、怒りを買いかねない行為だ。だが、フルードは平然としていた。にっこり微笑んでいる。
見つめ合いが続き、根負けしたのはフレイムの方だった。
「……俺が持っていたら怒りで燃やす。神官府で適切に保管するようにしておけ。ただしユフィーの目には触れさせるな。この返事は見せない」
「お慈悲に感謝いたします」
重く長い溜め息を吐き出したフレイムは、ソファに背を預けて呟いた。
「アイツら、俺が懇々と説教した内容分かってんのか?」
ミリエーナは未だに邪神の寵から逃れられてはおらず、ダライとネイーシャも神使として狙われている。
フレイムは先日、それぞれの場所で拘束されているダライたちに面会し、経緯を説明した上で忠告していた。
『俺の浄化の火は、お前らの魂の表層を覆っただけだ。中身を綺麗にするのはお前ら自身の努力でやれ』
『火の効力は10年保つ。お前らは今後10年で、死ぬ気で自省し努力しろ。死に物狂いで自分を変えるんだ。火がなくなっても心が清浄さを保っていれば、ラミルファはお前らを切り捨てる。愛し子の誓約を解除し、神使に取り立てることもない』
『普通の神は、一度愛し子にした相手は何があっても見捨てねえし誓約解除もしねえが、悪神は別だ。悪神にとっての愛し子は都合のいい玩具で生き餌だから、気に入らなくなれば切り捨てる』
『ただし、10年経ってもお前の性根がねじ曲がったままだったら、切り捨てるどころか大喜びで天に連れて行かれるだろう。穢れしかない悪神の領域に引っ張り込まれたら終わりだ。二度と清浄さは取り戻せねえ』
『後10年の間に、清濁どちらにも転べる人界にいる間に、血反吐を吐きまくってでも自分を叩き直せ』
『いいか、これが最後のチャンスだ。10年後、もう一度浄化の火をかけて延長することはしてやらねえからな。一度きりの機会だと思えよ』
『それから――ラミルファだって何かしてくるかもしれねえ。お前らを誘惑し唆し、穢れの神威を振りかけて、邪魔な浄化の火を中和しようとするかもな。助かりたいなら、意地でもそれを撥ね退けて俺の火を絶やすな。悪神に見限られるくらいに性根が矯正されるまでは』
強い口調でそう警告したはずだが――届いたのはこの書簡である。この調子では、浄化の火は10年も保たず、5年くらいで消えてしまうかもしれない。
「一度は情けをかけてやったんだ。それでも駄目だったなら、二度目は見捨てる」
冷たく言ったフレイムは、いそいそとチョコレートをつまんでいるフルードを見た。
「そういや、バカ妹のバカ婚約者――いや、元婚約者か――はどうだ? お前が処分を任されてたろ」
「神託を独断破棄した罪で投獄いたしましたが、『こんなはずじゃなかった。アマーリエが全て悪い。最底辺はアイツだ、俺じゃない! 俺は悪くない!』と叫んでおります。本件により、グランズ家は自主的に爵位を返上しました」
「あーあー……」
余談だが、属国にあるネイーシャの生家は、サッカの葉のサンプルを適切に提出しなかった咎と、神託をきちんと読まず別の神官に丸投げした罪で裁かれている。特に神託の件は、破り捨てて隠蔽したシュードンに比べればマシとはいえ、十分に大問題だ。貴族籍の剥奪はもちろんのこと、長期に渡る過酷な労役など相当な厳罰が下されることになっていた。
「で、お前はバカ婚約者をどうするつもりなんだ?」
「神官府で生涯に渡って重労働に従事させます。死亡時――つまり昇天時より後の処遇は、四大高位神様方にお任せいたします。改心と更生の度合いにより、適切な神の使いに割り当てて下さるでしょう」
神託を勝手に廃棄するような者を神使に選び出す神などいない。いずれの神にも見出されなかった神官は、死後に四大高位神により適当と思われる神の使いに割り振られる。
だが、繰り返しになるが、シュードンは神の意を破り棄て完全無視した無礼者だ。まともな神に割り当ててはもらえないだろう。厳しく神使に当たる神の元に追いやられ、未来永劫こき使われることになる。これはネイーシャの実家の者にも当てはまるかもしれないが。
「全っ然改心してなかったら、悪神が引き取りに来るかもな」
現在の悪神たちは、神託を隠蔽されたことでシュードンを嫌悪している。だが、仮に数十年もの時を反省せずに過ごし、最期までそれを貫いたとしたら。その時は禍神が動くかもしれなかった。
「可愛さ余って憎さ百倍の逆バージョンだな。救いようのない馬鹿さ加減が一周回って愛おしい、みたいな感じか」
「その点も言い含めておきます。それでも考えを改めなければ自己責任ですので」
「何とか助かるには、今生できっちりしっかりがっつり改心するしかねえな。別人になるレベルで。そしたら比較的マシな神の使いにしてもらえるかもしれねえ」
彼が助かるには、自身を根本から更生するという茨の道を乗り越えるしかないのだ。
「バカ婚約者だけじゃく、バカ四強は全員、その道に賭けるしかないだろう。……俺はバカ家族の処断権を持っているが、お前と同じ方針にしようと考えてる」
後半は渋々の台詞だった。フルードを見ながら内心でひとりごちる。
(本音を言えば、それじゃ全然不足なんだが……ユフィーには強力な味方が付いてるみたいだからな)
対フレイム兵器としては、アマーリエと双璧をなす味方だ。フレイムは決してこの子を傷付けない。
(ったく、厄介なことになりやがって)
ありがとうございました。