47.置いて行けない
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「シュ……シュードン!」
小さな紙切れが虚しく宙を踊る光景を眺めながら、アマーリエは叫んだ。
「あなた、まさか神託を隠して……破り捨てたの!? あ、有り得ないわ! 神に対してどれだけの非礼になると思っているの!?」
「だ、だって、こんなことになるなんて――」
蒼白な顔で小刻みに震えるシュードンが、声を裏返して言う。いつの間にか、彼の周囲から人が消えていた。皆、信じられないという顔で遠巻きにしている。神から届いた託宣を隠蔽するなど……しかも道端で破って廃棄するなど、神官としては考えられない行動だ。
「あの時託宣を降ろして来た神が、レフィーに寵を授けた神だなんて思わねえよ!」
ラミルファが9年前に勧請した神であるという話題が出たのは、星降の儀の後、サード邸での出来事だ。あの場にシュードンは同席していなかった。
虚空の映像が揺れ、消える。下を向いたラミルファの表情は見えない。
その時、ピーピーという場違いな音が響いた。焦った様子で法衣の胸元を探っているのはダライ。音は、彼が引っ張り出した小型の通信霊具から鳴っていた。
「何ですかそれは。儀式中は音が出ないようにしておくのが規則でしょう」
オーネリアが厳しい口調で叱責した。ダライが目を白黒させながら頭を下げる。
「も、申し訳ありません、失念しておりまして……」
(朝まで酔い潰れていて、慌てて出勤したせいよ)
冷ややかに見つめるアマーリエの視線の先で、霊具を持った父は身を縮めて神官たちの一団を抜け、こちらの方にやって来た。フレイムが嫌そうな顔になり、アマーリエを自分の方に引き寄せる。ダライが霊具を起動し、ボソボソと小声で会話を始めた。
「私だ、すまん今は立て込んでいる」
出るんかい。
神官たち全員が内心で突っ込んだ。
『おい、そりゃねーだろダライ。昨日の約束覚えてるよな。こっちも緊急事態が起きて急いでるんだよ』
「いいから後にしてくれ、切るぞ!」
『はぁ!? ちょっと待てよ俺の話を聞け!』
(あら? あの声は確か……)
通信霊具から流れて来た中年のダミ声には聞き覚えがあった。アマーリエが瞬いた時。
言い訳を探すように目を泳がせていたシュードンが口を開いた。
「……お、お前が悪いんだアマーリエ! お前の霊威が貧弱だから……そもそも、リサッカを野放しにしたお前の母親の実家が諸悪の根源だろうが! そのせいで悪神が降臨しちまったんだぞ!」
「それと神託を握り潰したのは別の問題よ! 話をすり替えないで!」
即座に父からシュードンに意識を切り替えたアマーリエが強い口調で返した時、フレイムがボソリと声を漏らした。
「マズイ……」
「自分が一体何をしたか分かって――え? 何か言った?」
「これはマズイぞ。フォローのしようがねえ。バカ婚約者がやったのは神の意向に正面から楯突く行為だ。意図的に、明確に神託を廃棄した。どれだけ温厚な神でも怒る。まして悪神となれば――」
珍しく焦燥に満ちた様子でまくし立てるフレイムを遮ったのは、玉を転がすような笑い声だった。
『ふ……ふふふ……』
俯いたラミルファが肩を震わせている。ダラリと両手を下ろし、脱力して佇む足元の影が異様に濃く、黒くなっていく。邪神の神威が周囲に拡散し、瞬く間に一帯を制圧した。
『ダライ、お前ふざけんなよ、いいから今すぐ――』
ダライが持った通信霊具の向こうでがなり立てていた声が、ブチリと途切れた。霊威の通信が強制的に遮断されたのだ。
ラミルファが口元に手を当て、喉の奥からくつくつと声を漏らす。
『これはまた……随分と面白いことをしてくれるじゃないか……。たかが人間が高位神の託宣を握りつぶした――? 人間、ごときが、この僕の、神託を、無視した、だって……?』
フルードが弾かれたように立ち上がる。後ろで血泡を吹いたままひっくり返っていたミリエーナをアシュトンに向かって放り投げ、迷うことなく口を開いた。
「――退避! 国王及び王族、官僚は退避を! 神官も今すぐ逃げなさい!」
発されたのは、鋭い避難命令だった。
「霊威は使わないで! 高位神のご神威が満ちる場では発動しません! 緊急時の訓練を思い出して行動しなさい!」
霊威が使えない――つまり、転移や飛翔、身体強化による高速移動などを用いて避難することはできないということだ。素の身体能力で走るしかない。指示に従い、皆が一斉に動き出す。
「私に続け!」
ミリエーナを担いだアシュトンが避難の先頭に立ち、皆を先導する。
通信霊具を乱暴に法衣に突っ込んだダライが、我先に駆け出した。アマーリエの方を気にする素振りは僅かも見せない。
だが、その胸元から、今しがた入れた霊具がポロリと落ちる。急いでいたためにきちんとしまえていなかったのだ。
落下した霊具は持ち主に気付いてもらえないばかりか蹴り飛ばされ、地を滑ってアマーリエの足元に転がった。
「お、お父様、通信霊具を落としました!」
このままでは神官たちに踏まれる。反射的に霊具を拾い上げて呼び止めるが、逃げるのに必死なダライには届いていない。
(ああ、もう……!)
アマーリエは仕方なく、自身の法衣に父の通信霊具をしまい込んだ。
「国王と王族はこちらへ!」
「官僚も後に続いて下さい」
「王族の護衛たちは、散開せず固まって付いて行くように!」
恵奈と当真とオーネリアが、国王や王族、官僚たちの避難を補助している。
「列を乱さないで、冷静に行動しなさい」
神官たちが走る列に並走し、佳良が声を飛ばす。他の聖威師たちも、佳良と共に皆を落ち着かせていた。
「大神官!」
次々に撤退する神官たちの中から一人が飛び出し、フルードの方に駆け寄った。星降の儀の本祭において、フルードが目礼していた初老の神官だ。
「大神官も避難を!」
そちらに目を向けたフルードが、穏やかに語りかける。
「私は後から合流します。あなたは先に行って下さい。……あなたは既に知恵の神という名高い神の神使として選ばれている身。万一のことがあれば、知神に申し訳が立ちません。早くここから離れて下さい」
「それは承知しておりますが……大神官もどうか私と一緒に」
初老の神官が手振りをまじえながら必死に言い募る。その動きに合わせ、彼が首から下げている玻璃のメダルが澄んだ音を立てて揺れた。それを眺めたフルードが小さく微笑み、美しい所作で会釈する。
「あなたは私が神官府に入府した時から指導して下さった恩師。あなたに命令したくないのです。――どうか従っていただけますようお願いいたします」
「っ……」
初老の神官がはっと息を呑み、苦しげに手を引いた。
「……失礼いたしました。――では私は先に退避します。何卒ご無理をなさらず」
「ええ、私も後から行きます」
その返答を聞いた初老の神官は、後ろ髪を引かれるような顔をしながらも撤退の流れに戻っていった。走り去る彼の背に向け、フルードが小さく呟く。
「ありがとう、先生」
それを横目で見ていたフレイムが、ちらりとラミルファに視線を向ける。
『ラミルファ様、いかがいたしますか』
『我らの主よ、あなた様のご意思のままに』
顔を手のひらで覆い、狂ったようにケタケタ笑うラミルファに、背後に控えた従神たちが問いかけた。
『どうするって……そんなもの決まっているだろう……ふふっ。僕の神託を引き裂いた無礼な小僧に、天罰を与えてやるのだよ』
乾いた失笑と共に、黒い火柱がラミルファを中心に顕現し、蠢く蛆虫が無数に噴き出した。
フレイムが切羽詰まった表情を浮かべ、アマーリエを促した。
「ダメだ、ラミルファがキレる! ここにいたら危険だ!」
「でもディモスが!」
アマーリエは半泣きで叫ぶ。
この場で一人……いや、一頭だけ、撤退の動きに付いていけないものがいた。重傷を負っているディモスだ。懸命に体を起こし、足を引きずりながら進もうとしているが、とても皆の動きには追い付けない。
「ディモス、頑張って! お願い、ディモスを運んであげて!」
フレイムが苦渋の表情になった。
「ラミルファの神威に場が制圧されて、この場では聖威が使えねえ。今の俺は神性を抑えてるし、腕力も人間並みに抑制した状態なんだ。霊威も聖威も無しに大型の獅子を運ぶのは……無理だ」
この状況では、アマーリエ一人を守りきれるかすら怪しい。かといって神に戻れば、ディモスを助ける間も無く瞬時に天へ強制送還だ。
神格を出した状態でも、短時間かつ単発ならば降臨可能だが、今回の場合は単発ではなく今までから引き続いての継続と見なされるため、降臨は認められない可能性が高い。つまり、今還ってしまえば、一定時間地上には来られなくなってしまう。
「そんな……」
(置いてなんか行けない。私の家族なのよ!)
◆◆◆
『うーん……これは、ちょっとマズイかな。フルード君がいるから大丈夫だとは思うけど、念のために行った方が良いかも』
中空で様子を見ていた桃色の小鳥が、小さな目を細めてさえずる。
『でも、困ったな。私は今遠征中だし、義兄様に頼むしか――ブホェッ!』
だが、疾走する神官たちが蹴り飛ばした石が胴体に当たり、あえなく吹き飛ばされた。
ありがとうございました。