38.邪神様はアマーリエが心配
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『保管していた委任状が盗まれた? 有り得ない』
白髪に灰緑眼の少年神が、ほっそりした面を顰めて吐き捨てる。
「本当に申し訳ありません、ラミルファ様」
言い訳のしようもない。アマーリエはしゅんと肩を落として謝罪する。途端に、末の邪神は眼差しを和らげた。
『アマーリエを責めているのではない。高位神の領域にある物を無断で持ち去る行為が有り得ない、という意味だ。盗んだ側に対して言っている。邪神謹製の茶を淹れてあげるから元気を出すが良いよ』
そう言って、ポットから湯気の立つ茶を注いでくれる。内輪で話がしたいと打診し、ラミルファの従神は全員下げてもらっているので、この場にはいない。雑用係をこなす形代は配置しているが、それを使わず手ずから給仕してくれた。かつて特別降臨していた時のように。
『精神的に疲れているだろう。砂糖を多めにしてあげよう』
「ありがとうございます。いただきます」
一口含むと、ふんわりとまろやかな味わいが広がった。疲労を癒してくれる味だ。ふぅと力を抜いてソファに体を沈めると、苦笑が返る。
『少しはリラックスしたようで何よりだ。神威で視た限り、随分と固くなっていたようだから案じていたのだよ』
「すみません……委任状の件もありますし、悪神の神域にお邪魔するのは初めてだったので緊張していました」
(思っていたのと全然違う。私から見てもとても綺麗な場所だわ)
カップを傾けながら、そろりと室内を見回す。狼神の御前を辞去した足で訪れたここは、末の邪神の神域だ。
悪神の領域とはどのようなものか戦々恐々としていたが、黒を基調に赤黄を混ぜた神殿が並ぶシックな光景が広がっていたので安心した。神殿の内部も壮麗で美しく、出て来る茶菓も絶品。神苑もフレイムの領域にあるものと変わらない庭園だった。
「もっとおどろおどろおどろしいと言いますか、地獄のような場所なのかと思っていたのです」
『本来はそうだ。ヴェーゼのような元人間を除けばな。だが、僕はセインがいつ来ても良いように、領域内の一部を人間の基準に合わせて創っている』
ここはその一部の場所に該当するのだよ、とラミルファは笑った。
『普通の悪神にとっては居心地の良い環境ではないから、僕の従神たちは本来の悪神用の場所にいさせようとしたが、彼らも同胞たるセインのためならばと慣れてくれたよ』
悪神は清廉な物を忌み、汚穢を好む。だが、きっっっっったないと撥ね付けていたアマーリエと親しくしたり、人間の茶菓を飲食できるように、その気になれば一般的な神基準で美しい物の中に身を置くことも可能だ。
『一の兄上や鬼神様、怨神様、彼らの従神たちも同じだ。ヴェーゼのために自身を変えた。神にとって、自身の〝特別〟はもちろん、同胞というのはそれだけ大切なものだ。ほら、クッキーもお食べ』
今日の邪神はいつにも増して優しい。アマーリエが深く落ち込んでいることを察しているのかもしれない。
『スノーボールクッキーはオススメですよ。私も大好きなのです』
フルードが微笑み、真っ白な粉砂糖をふんだんにまぶしたクッキーを取り分けてくれた。コロンと丸いそれを一つ食べてみると、さっくりした生地が砂糖を纏いながらほろほろと舌の上で崩れ、頰が緩みそうな甘さが口内に広がった。
(美味しい……!)
アマーリエがうっとり目を細めているのをにこにこと眺めていたラミルファが、個別でフレイムに念話した。
《フレイム、この間抜け。自分の領域で何をさせているんだ》
《すまん、油断してた》
呆れ声を投げられたフレイムは、今回ばかりは素直に自分の非を認める。
《まさか焔神の領域に侵入して盗みを働く奴がいるとは想定してなかった。ユフィーは悪くねえ、俺のミスだ》
《当たり前だ、アマーリエは被害者だろう。地上滞留が懸かっている重圧、新米たちの前で弱気な姿を見せられない立場、慣れない天界で逆らえない天の神々に囲まれる緊張。全てがのしかかる中で、君の領域は唯一気を抜ける安全地帯だったはずだ。そこで盗難が起こるなど考えもしていなかっただろう》
こんなことになって可哀想に、と呟いた末の邪神の声に、フレイムへの嫌味はない。純粋にアマーリエのことを気遣っている。
《だが、君の言い分にも同意できる。高位神の神域で窃盗を犯す輩など前代未聞だ。しかも天の会議で使う重要書類を持ち去るなど、予想の範疇を超えている。加えて、今は領域の門の施錠を解除している時だ。だから君を責められない》
《疫神様なら何か知ってると思うか? アリステルとお前、どっちに相談するか考えたんだが、お前は疫神様の弟だから、繋ぎが取りやすいってことになったんだ。だが、俺は疫神様じゃないと思う。だって……なぁ》
《そうだな。僕も君と同じ予想を立てているよ。兄上ご自身に直接聞いたわけではないから、真実は闇の中だが。あと、二の兄上はヴェーゼも猫可愛がりしている。塩対応をするのは一の兄上に対してだけだよ。まぁそれは今の話に関係ない。とにかく二の兄上に会ってみよう》
目の前では、そんな念話が繰り広げられているとは知らないフルードが、アマーリエを元気付けようと菓子の話題を振っている。ラミルファが肉声を発した。
『これから二の兄上に連絡を入れる。単にそちらに行きたいと伝えるだけではなく、神域の内装を、人間の感性を色濃く持っている聖威師にも耐えられるものにして欲しいと頼まなければならない。二の兄上の領域は生粋の悪神仕様だ。セインとアマーリエにはショックが大きすぎるだろうからね』
「お手数をおかけします……。あの、そんなことを頼んで、怒って暴れたりなさらないでしょうか?」
『それは問題ない。二の兄上もヴェーゼを鍾愛している。あの子が自領に来る時は人の感覚に近い内観に変更しているというから、その要領で対応してくれるだろう』
葬邪神の言うことは中々聞かない疫神だが、ラミルファが頼むかアリステルが懇願すれば、コロリと態度を翻してよしよしと応じてくれるそうだ。そのため、ラミルファとアリステルは時折、葬邪神に依頼されて疫神の元にお使いに行くらしい。
『そもそもの話、今は聖威師たちが還っている。悪神に挨拶しに行く者は多くないだろうが、もしかしたらということで、人に耐えられる内装を既に準備しているかもしれない』
それほど心配することはないよ、と言い置き、末の邪神は視線を宙に投げた。
(どうか委任状が見付かって……!)
念話を始めたラミルファを見ながら、アマーリエは心の中で願った。
ありがとうございました。