29.僕のお兄様 前編
お読みいただきありがとうございます。
◆◆◆
『おかしいな。何だか世界が回っている』
発した言葉が大気に溶けて消えていく。緩やかな風がさやさやと肌を撫でる中、ほろ酔い気分で吹き抜けの回廊を歩く。ここは共有領域ではなく、自分の神域にある神殿だ。慣れない酩酊感が心地良い。酒に強くない自分だが、今日はそれなりに飲んだ。
――セイン、今宵はしっかり休むのだよ。明日はまた元気な姿を見せておくれ。君があの穴に落ちた時、僕の心臓は一瞬で数千回くらい回転したのだからね
フルードの領域まで送ってくれたラミルファが、過保護にそう言っていた。随分と回転率が良い心臓である。
――気分が悪ければ酔い覚ましの神威を使いなさい
これはラミルファと共に送り役をしてくれた狼神の言だ。なお、いつもであればフレイムも付き添ってくれるのだが、今日はいなかった。アマーリエと共に帰ったからだ。
(お兄様はもう、僕ではなくアマーリエを最優先になさる)
アマーリエに対する愛情よりもフルードへの親愛が小さいわけではない。両者は比較対象にはならない。
かつてフレイム自身が明言していた。妻と弟への想いは別個であり、それぞれ独立したものだと。双方共に特別で唯一無二であり、序列や順位はない。どちらも同じくらい大切だと、そう言っていた。
だが、それでも。妻と弟の両方が同時に危機に陥り、どちらか一方しか助けられないならば。どうしてもどちらかを選ばなくてはならないならば。その時、フレイムはアマーリエの方に行くのだ。今宵、その事実がはっきりと証明された。
(お兄様、どうかお幸せに)
フレイムがフルードを〝特別〟として懐に抱いてくれるように、フレイムもまたフルードにとっての〝特別〟だ。かけがえのない存在が無上の幸福を掴んだ。それはそのままフルードにとっての至福でもある。
愛し子を得る前のフレイムは、いついかなる時もフルードのことを第一にしてくれていた。だが、今はもう違う。それが明示されたことに、悲しさや寂しさは感じない。嫉妬や恨みも抱かない。何故なら――
『変だなぁ』
《何が変なんだ?》
小首を傾げて呟くと、応えがあった。自身の内から。
『足元がふわふわするのです。おかしいですねぇ』
己の神域の内部は、主たる神の一存で自在に変えられる。だが、地面が綿菓子になるよう改造した覚えはない。何故だろうと呟くと、苦笑が返った。
《それはお前が酔ってるせいだ。ついでにお前の部屋はこっちじゃない。どこへ行くんだろうと不思議だったんだが、自分がどっちに歩いてるのか分かってないんだな》
『僕、素面ですよ?』
《酔っ払いは大体そう言うんだ》
紅蓮の神威が踊った。ワインレッドの髪と山吹色の目を持つ青年神が顕現し、フラついていた体をそっと支えてくれる。フルードは相好を崩した。
『こんばんは、僕のお兄様』
かつてフルードに修行を付けていた頃、フレイムは非常に重要な問題に思い至った。いつの日か自分が愛し子を得たならば、有事の際は愛し子と弟のどちらかを選ばねばならない事態になるかもしれないと気付いたのだ。どちらかなど選べない、選びたくない、選ぶつもりもない。
だが、如何にしても一方の側にしか行けない場合は、それでも選ばなければならない。
考えたくもない可能性に到達すると同時に、神の直感で悟った。その時、自分は弟に背を向け、愛し子の方へ走るだろうと。だが、それは有り得ないことだった。弟を見捨てることは、フレイムの中では決して起こらない。フルードには狼神もラミルファもいるということは理由にならない。フルードが誰の愛し子であろうが誰の宝玉であろうが関係ない。フレイムの弟である時点で、切り捨てないことは絶対の確定事項だ。
ゆえに、自分を増やすことにした。己の全てを完全複製し、いつ如何なる場合であろうとも弟を第一かつ最優先にする別の自分を顕現させたのだ。それは神器という体裁でフルードの魂に宿り、火神により『もう一柱の焔火神』の銘を付けられた。
(僕の……そう、僕のお兄様)
フルードは二柱の兄の呼称を使い分けている。一方は『お兄様』、もう一方は『僕のお兄様』と。
目の前にいる彼は、後者の『僕のお兄様』――つまりフルードのフレイムだ。選ばれし神であり生来の荒神であり、フルードの心身だけを基準にして行動する存在。フルードが昇天した現在も、分離することなく魂中に留まり、ずっと共にいてくれている。
その神格は当然ながら焔神だ。だが、フレイムであると同時にフレイムから独立した一柱の神として顕現した瞬間、両者の神格は自然と細分化した。『お兄様』は真焔神、『僕のお兄様』は正焔神。どちらも真正の、本物のフレイムだ。言葉の上では複製という語を用いているものの、正しく言えば『本物のフレイムが二柱になった』というのが実態である。
ありがとうございました。