61.魂が還る場所 前編
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パッチリ目を開くと、青空の上にいた。下にはフカフカの感触がある。間違えようもない、大好きな狼神の毛だ。どうやら主神の背に乗って遥か上空を飛んでいるらしい。直感でそう悟った。
『私は死んだのですね』
空のように見えるここは、地上から見える蒼穹ではない。次元が違う空間だ。天界に通じる道。最愛の神の一柱である狼神の上にいれば、高い場所でも怖いとは感じない。ゆっくりと真っ直ぐに飛んでくれれば、だが。
『人間……いや、擬人としてはな。今から本来いるべき場所に行くんだぜ』
隣を飛翔していたフレイムが言う。自分の装いはと見てみれば、手足も胴体も喉もすっかり全快していた。おそらく顔面もだ。引きずるほど長い精緻な外套は新品同様に直っており、両手にはブレスレット、それに豪奢な首飾りと髪留め。大神官の正装姿のままだ。
『セイン、よく頑張ったな』
頭を軽く巡らせ、狼神が言った。灰銀の双眸が深い慈愛を帯びて据えられる。
『ああ。お前はよくやったぜ。最期の最期まで務めと向き合い、世界を守った。それでこそ俺の弟だ。お前は歴代最高の大神官だ』
純粋な労りと最大の賛辞。瞳の奥が熱くなり、ポロリと涙が零れた。誰がどのような言葉を尽くして褒めちぎろうとも、兄の言葉には敵わない。
『後は残った者たちが引き継ぐんだ』
『妻子を置いて来てしまいました』
本当はとても寂しがりやな妻。まだ12歳と11歳の子どもたち。もっと妻と共にいたかった。もっと我が子の成長を見ていたかった。
『こまめに交信すれば良い。単発でなら降臨だってできるし、向こうからも勧請してくれるだろ』
『アマーリエにも、若い身空に重荷を背負わせてしまいました。聖威師になってまだ一年も経っていないあの子に』
『ユフィーは一人じゃねえ。アシュトンやアリステルたち、リーリアにお前の子どもたちもいる。俺だって天界からガンガン支えるしな』
『セイン、お前は他者ではなく自分のことを考えよ』
狼神の言葉に、フレイムが頷く。
『お前はずっとずっとずっと、他の奴のために生きて来た。務めでは当たり前のように大怪我をし、艱難辛苦に耐え、不安も恐怖も弱音も押し込めて、世界のために尽くして来た。だが、それはもう終わった。終わったんだよセイン』
『終わった……』
フレイムの領域での修行を終えてから今まで、無我夢中で邁進し続けて来た。神官として、聖威師として、大神官として。それが終着点を迎えたのか。
右手首のブレスレットが光の粒子になって消えた。
『今後は堪える必要はない。我慢も無理もしなくていい』
山吹色の眼差しが温かい。
『もっと贅沢になれ。貪欲になれ。我儘になれ。そして溢れるくらい幸せになれ』
左手首のブレスレットも煌きながら消えた。
『俺が全部叶えてやるから。これからは甘えて良いんだ、セイン』
お前は優しい、と、兄の唇が紡ぐ。だが、と続けた。
『優しいだけではもったいない。そうだろう』
これからは自分のために生きて良いのだと、その眼差しが告げている。
首飾りが瞬きながら消えた。
『お前はもう自由だ。好きなように生きられる。天界ではずっと笑顔でいれば良い』
いつ神器が暴れるか、神が荒れるか、災害が起こるか、もう気にしなくて良い。人間たちの言動や地下世界の動向に、頭と胃を痛めなくても良い。いつ急報が入っても対応できるよう、常に意識の一部を覚醒させながら眠らなくても良い。
髪留めが鱗粉と共に消えた。
『今後はあるがままの自分でいて良いんだ』
心を切り刻まれるような葛藤と罪悪感に耐えながら、無理をして冷徹な判断を下さなくても良い。引っ込み思案で臆病な自分を隠し、澄まし顔を張り付けなくても良い。夜闇も高所も大きな物音も、好きなだけ怖がって良い。狼神やフレイム、ラミルファたちが守ってくれる。だから、何も背負わず飾り立てず、ただ本来の透明な自分でいるだけで良い。
目尻から溢れた涙が宙を舞う。外套が体から滑り落ち、風に乗って虚空へ飛んだ。そのまま粉になって消えていく。この身を縛っていた枷が全て失くなる。
『はい、お兄様』
答えた声は、常よりも細く繊細な声だった。驚いて自分の体を見ると、一回り弱ほど縮んでいる。神官衣も着ていない。フレイムの神域を出る時の――15歳の姿に戻っていた。
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