60.さようなら
お読みいただきありがとうございます。
《僕の人生は、物心付いた時には最悪の一言でした。絶望と不幸と苦痛が、僕の世界を構成する全てだった》
どうして自分はこんな世界に生まれて来てしまったのか、どうしてまだ生きているのか、どうして早く死ねないのかを自問する日々。だが、そういうことを考える余裕がある時はまだマシだった。両親から虐待され、ガルーンから拷問を受けている最中には、そんな余裕すらなかった。
《ですが、それを相殺して余りあるほどの幸福を、あなたたちがくれました。そのおかげで、今こうして晴れやかな気持ちで目を閉じることができます》
笑って良いんだよ、好きなことをして良いんだよと、佳良たち先代と天威師が導いてくれた。一緒に頑張ろう、共に進もうと、当真たち同世代が励ましてくれた。あれを教えて下さい、これが知りたいですと、アマーリエたち次代が慕ってくれた。妻子と義父たちが、そして最愛の神々が、無償の愛で抱き締めてくれた。
皆が自分のことを褒めてくれた。誰かを愛し、誰かに愛されることを、彼らが教えてくれた。
《僕に生きる意味を与えてくれて、存在する理由を与えてくれて、本当にありがとう》
辛うじて機能を残している左目が――かなり霞んではいるが――、自身と同じ容貌に正反対の瞳を持つ者を映す。自身が生まれる前に生き別れとなった実兄。奇跡の再会を果たしてからも、互いの価値観と思考が根本から違いすぎるため、相入れることはなかった。
だが、神の時は無限にある。永き流れを揺蕩い、幾条もの岐路を超えた果てで、いつかは彼とも道が交差する日が来るだろうか。アマーリエの提案で彼と卓を共にした時、何となく距離が縮まった気がした。決して埋まらないと思っていた溝が。
(感謝します、アマーリエ)
胸中で呟いた時、穏やかな声が響いた。
『名残惜しいだろうが、そろそろリミットなんだぜ』
その言葉で、自分の聖威はとっくに切れていたことに気付く。それでも未だに失血死していないのは、フレイムが温情で代わりに傷口を抑えてくれていたからだ。念話網も代わりに張ってくれていた。
《……はい》
義兄の方を向き、頷く。もう少しだけ、とねだれば、どこまでも優しいこの兄は、二つ返事で待ってくれるだろう。だが、それではキリがない。引かれる後ろ髪は、どこかで振り払わなくてはいけない。
《分かりました、お兄様》
誰かが小さくすすり泣く声が聞こえた。誰だろうかとは考えない。そちらに目をやることもしない。そうしなければ、また振り返ってしまうからだ。ここで後ろを向いてはならない。
『良い子だ』
優しく微笑んだフレイムが、色々な物をそぎ落とされたせいですっかり小さくなったフルードを抱き上げ、腕の中へと大切に包み込んだ。整った唇が開き、あの時と同じセリフを紡ぐ。
『俺はお前を迎えに来たんだ。お兄様と一緒に天に還ろう、セイン』
傷口を抑えていた神威が外れる。とうに感覚を無くした体から温かな液体が飛び出す音が聞こえ、全身が光に包まれた。そのまま粉となって散り消えていくのを最後に、視界が暗転した。
黒に塗りつぶされた光景の中、虹を帯びた色とりどりの輝きが幾つも飛び回る。天威師たちが慰労と別れの挨拶を送っているのだ。お疲れ様、よくやってくれた、また会おう、と。それらに精一杯の思念で応えていると、ひび割れるような感覚と共に思考が薄らいでいった。
(――さようなら)
砕け散る意識の最後の一粒が消える寸前、地上に向かって別れを告げる。
汚いのに澄んでいて、醜く在りながらも美しい。残酷なまでに清らかな、愛しい故郷に。
ありがとうございました。




