59.別れの時
お読みいただきありがとうございます。
「フルード様!」
「神器の気が消えたと……!」
荒れかかっていた秘奥の神器が鎮まったことを察したらしく、アマーリエとリーリアが駆け込んで来る。アシュトンたちもだ。きっと、神官たちの避難誘導を終えた後、すぐに飛び込めるよう待機してくれていた。
「えっ、フレイム……」
今しがた還ったばかりのはずの夫の姿に瞬きしたアマーリエだが、側に転がっているフルードを見つけると悲鳴を上げた。隣にいたリーリアもだ。
「フル、ド、様……っ」
どうかそんな顔をしないでくれと思うが、無理な話だろう。右目は切り裂かれているし、フレイムの外套で首から下をすっぽり覆われているとはいえ、凹凸などをきちんと見れば分かる。この身が今どういう状態になっているか。ここまで這いずって来た軌跡に沿って、血潮やら臓物やら体液やらが飛び散ってもいる。
だからフレイムは、自分の肢体を覆ってくれたのだと悟った。全身を見せてしまえばショックが大きすぎるから。途切れそうになる意識を繋ぎ止め、聖威を振り絞って念話する。
《皆は無事に退避できましたか? 帝都や周辺の被害状況は……》
《全員避難は済んでいます。あなたが抑えて下さっていたので、目立った被害も出ていません。ご心配なさらず》
《そうですか。ありがとう。あなた方に任せておけば問題ないとは思っていました》
フルードとアシュトンの会話を聞いているアマーリエとリーリアの顔色が悪い。今くらいは自分のことを心配して欲しいと、声無き声で訴えている。
《アマーリエ、リーリア、そんな顔をしないで下さい》
「て、手が……足も……す、すぐに治して……」
《いいえリーリア。聖威で対処できる傷ではありません。最高神の神器によって付けられたものですから。念のために言っておきますが、天威でも無理です》
この程度の怪我であれば、ガルーンに幾度も刻まれて来たし、聖威師の務めでも多々負って来た。聖威師の任は正真正銘の命懸けなのだ。
しかし、従来は治癒や復元で対応できていたが、今回はそうはいかない。何しろ、相手が最高神の神威という最悪の代物だった。そんな力で負わされた傷であれば、霊具はもちろん、聖威や天威でも治療が難しい。癒し切れない損傷を負えば、聖威師や天威師とて耐えられず、人としては落命する。
「ならフレイムの、フレイムの力ならっ」
『ユフィー、それは無理だ。セインの体自体が元から限界だったんだ。聖威師をこれ以上延命させることは認められねえ。むしろ、この程度で済んだことが信じがたい奇跡だ。さすがは選ばれし神に見初められた特別な愛し子ってトコだな』
普通の聖威師ならば、骨屑が残っているだけで僥倖だっただろう。フルードの身が原型を保っているのは、神器の暴走が前駆段階にすぎなかったことと、自身が色持ちの神格を持つがゆえ。天威師ほどの耐久力と持久力は無くとも、聖威師もまた、荒ぶる神の神威を受け止めて宥めることができる。選ばれし神の愛し子であればなおのこと。
《ローナ、フェル、アリア、お義父様……》
フルードは家族を一人ずつ呼んだ。続けて佳良たちのことも。
《……アマーリエ、リーリア》
最後に若き同胞の名を読んで締める。
《はい、セイン様》
代表して応じるアシュトンは顔色を変えていない。だが、本当はこちらに取り縋って慟哭したい衝動を抑えていることは分かる。これでも十数年は夫婦をやって来たのだから。
(ローナ、ごめんね)
気丈だが本当は泣き虫な妻。彼女が未だに男装姿を解かないのは、フルードの余命が幾ばくもないと知っていたからだ。最愛の伴侶を喪っても緊張の糸を維持するために、男装という鎧を纏い続けている。防御が無い素のままでそれができるほど、私の心は強くないと、彼女自身が言っていた。
(フェル、アリア……あなたたちが大きくなっていく姿を、もう少しだけ見ていたかった)
ランドルフとルルアージュも、無表情の中では激情を波立たせている。自分はこの子たちの父親なのだ、それくらい分かる。
(僕が地上でやりたかったけれど、もうできないこと。ローナが男装を終える瞬間に居合わせること。子どもたちが成人する姿を見ること。先代たちの昇天を見送ること。同世代たちと一緒に進み続けること。次代たちを最後まで導くこと。それから……)
こうして数えると、たくさんあると思う。だが、もうどれも掴むことは叶わない。自分の前に続く道は、もう無い。まだ先がある道を進んでいく皆と一緒に歩むことはできないのだ。
そのことが悲しく、悔しくはあるが、仕方ないのだと覚悟していた。最後まで自分の思うままに走らせてくれた皆に、今はただ感謝の言葉だけを伝えたい。
《今までたくさん支えてくれてありがとう》
それでもこの場にいる者たちには、ただ人のような悲壮感はない。聖威師にとっての死別は永久の別れではなく、昇天して天界で再会するまでの一時の別離に留まるからだ。アマーリエとリーリアが取り乱しているのは、まだ人間の感覚が色濃く残っているためと、単純にフルードの損傷が激しいせいだ。
神は同格以上の神威を食らわなければ痛みを感じないが、精密に人に擬態している聖威師の場合は例外で、人間と同じ痛覚がある。この重症で治癒も回復もできないとなれば、フルードを苛む苦痛は一体如何程になるか。想像するのは容易いことだ。
次代を担う後進たちを、これ以上悲しませたくない。フルードはもうほとんど動かない顔面に、それでも精一杯の笑みを纏った。
ありがとうございました。