53.ルリエラの暴挙
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「……顔を上げなさい。ここで消沈していても状況は変わりません。詮無い行動は不要です」
無言で聞いていたフルードが、泰然さを帯びた面差しで言った。一方、静かに面を上げた主任は蒼白になっている。内心では相当に動揺していることが窺えた。
「そもそも、神官ルリエラは何故秘奥の神器を持ち出せたのでしょうか。あなたが管理しているのでしょう?」
「印章と同じです。私と副主任が不在の時、突発的事態が起こってもすぐに持ち出せるようにと、ルリエラに保管庫の解錠方法を教えておりました」
「何故彼女をそこまで信用していたのです。万一に備え、第三者に開封の術を伝えておくこと自体は、間違いではないでしょう。しかし、一人に多くの情報を集約させてしまえば、その者が離反や暴走をした時、今回のようなことになってしまいます」
重要事項を共有するにしても、信頼のおける少数の何名かに情報を分散させて伝えておくべきだった。印章も秘宝の神器も、どちらもルリエラに伝えてしまったのは悪手だっただろう。
「それでも彼女に託すのであれば、チョーカー型の霊具は外してはいけませんでした。きちんと手綱を取っておかなくては」
ルリエラとシュレッドに装着させていた抑止霊具を外すと決まった時、フルードを筆頭にした聖威師たちは、許される範囲で婉曲に再考を促した。それは、このようなリスクを踏まえてのことだった。だが、人間側が決定を修正することはなかった。
「大変申し訳ございません。彼女は10歳にも満たない頃、住んでいた村を妖魔の群れに襲われました。あわやという時、討伐部隊を率いて出陣した私が救助したのです。それを恩に感じたようで、文字通り身を粉にする勢いで尽くしてくれていたため、信用してしまいました」
それはもう、主任のためならば手足の一本や二本失くしても構わないという程の忠誠ぶりだったため、彼女が自分の意に沿わないことをするとは想像できなかったのだという。
「だが、マーカスから彼女を留意するようにという報告は受けていたのだろう?」
「はい、神官長様。ですがお恥ずかしい話、機を見て話せば理解するだろうと思っており、まさかこのようなことをしでかすとは予測しておりませず……」
アリステルが険相を滲ませて首を横に振った。ソファで聞いていたフレイムとフロースが渋面を浮かべている。ラミルファは笑いを堪えているような顔をしていた。中央本府の主任と副主任、そして帝国と皇国の国王は、ラミルファが密かに降臨していることを知らされているため、変化してはいない。
「私が出ます。聖威で離れに入れないか試してみましょう。最高神の神器の力が相手ですから、難しいということであれば、私の神器にお力添えをお願いして――」
己の胸に視線を落としたフルードが言葉を紡ぐが、全て言い終わる前に、ズドンと轟音が響いた。本棟全体が大きく上下に揺れる。
「きゃあ!」
アマーリエは小さく声を上げつつ、体勢を立て直した。この程度の爆発はもう慣れっこになって来ている。同時に、主任神官が瞠目した。息を呑み、宙を見て唇を小さく開閉している。そして、慌ただしく眼球を動かしてフルードを見た。
「今、副主任神官から緊急念話がありました。立て籠もっていたルリエラに出頭するよう説得していたところ、ヒステリーを起こしてうるさいと叫び、直後に離れの内部が爆発したそうです。気配からして、おそらく秘宝の神器が暴走したのではないかと……」
追い詰められたルリエラが捨て鉢になって神器をいじり回し、誤作動させてしまった可能性が高い。アマーリエは愕然とした。
「ぼ、暴走って……あの神器を止めるには専用の別の神器が必要で、停止も命懸けなのでしょう?」
「はい。停止用の神器も秘奥の神器と共に保管してあり、持ち去られていました」
消え入りそうな声で話す主任が、再び目を泳がせた。
「副主任から再度念話です。今の爆発で離れの結界が解除されたため、突入したところ、ルリエラが気絶していました。近くには秘奥の神器と停止用の神器もありましたが、暴走して攻撃性を増しているために近付けず、ルリエラを連れて退避するので精一杯だったそうです」
今はそれほど被害は出ていないが、時間が経つに連れて暴走の度合いは大きくなり、程なく世界は粉微塵になるだろうという。
「やはり秘奥の神器が狂ったのか。まずいな、聖威師が最低一名は昇天する覚悟で鎮めなくてはならない」
小さく舌打ちしたアリステルが唸った。
「私が出ます。すぐに用意をします」
フルードが微笑んだ。酷く透き通った眼差しで。アシュトンは眉一つ動かさず、何を言うこともない。この夫婦は、とうの昔に覚悟を決めているのだ。
「大神官、何かお手伝いできることは」
「不要」
恐る恐る言いかけた主任の言葉を鮮やかに両断し、艶麗な微笑を刷いたフルードが首を横に振る。最高神の神器すらも一笑の下に鎮める、別格の大神官としての気迫だ。
「あなたが今するべきことは、人間の神官たちをまとめることです。霊威師たちの頭領は主任神官なのですから。己が在るべき場所に行きなさい」
「――はい」
神妙な顔で首肯した主任が唇を噛んで一礼し、かき消える。その目が潤んでいたように見えたのは、気のせいではないだろう。きっと彼は分かっている。これが、地上で生きているフルードと見える最後の機会なのだと。
「お前が出ると言ったな、フルード。だが、先達は……佳良様やオーネリア様方は自分が行くと申し出るだろう」
アリステルが遠回しに異論を述べるが、フルードは笑みを張り付けたまま、上衣ごと神官衣の胸元をはだけた。アマーリエが息を吸い込み、リーリアが口元に手を添える。
「フ、フルード様……」
「どうなさいましたの、そのお体は」
視界に映るのは、胸元から下が青黒く変色した肌だった。なまじ健常な部分が抜けるように白いため、余計にコントラストが強調されている。
「胸下から両肘、両膝までこのようになっています。……私はもう寿命を超えています。もはやこの体は、満足に血液を循環させることもできません。今この瞬間に、心の臓が止まってもおかしくないのです」
姿を自在に変えられる神は、臓器や血液を持たない。それらに似せたものを体内に配置していることはあるが、無くなっても困らない。だが、精密に人間に擬態している聖威師の場合は別だ。肺腑も血潮も、人間のそれに限りなく近い位置付けとして、ほぼ同じ機能を持っている。
おそらく、フルードの現状は相当に辛い……常時かなりの苦痛を伴う状態なのではないかと思った。表向きは柔和な笑みを貼り付けていた裏で、彼は一体どれだけ苦しんでいたのだろうか。
衣を直しながら、フルードは長い睫毛を伏せた。フレイムが山吹色の双眸を切なく揺らし、フロースは痛ましげな視線を向けている。ラミルファは無表情だ。
「これ以上の延命は無駄です。アマーリエ、ランドルフと共に私の後をお願いします」
「あ……」
思わず手を伸ばしかけたアマーリエをやんわりと遮り、フルードは立ち上がった。その容貌に、従容とした大神官の微笑を纏ったまま。
「秘奥の神器鎮静のため、支度をします。……これが私の、大神官としての最後の務めになるでしょう」
ありがとうございました。