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86.最古神の御言葉

お読みいただきありがとうございます。

 何回か瞬きした疫神が、あっさりと撤回した。


「焔神様、雛たちに無理強いする、駄目、言ってた。それに――ラミも、念話で何度も言ってた。雛たち、嫌がることする、困らせる、駄目って」


 弟の名を出した瞬間、つぶらな目に温かな光が宿った。いつの間にやら愛称で呼ぶことを許してもらっていたらしい。こちらの知らぬ間に、兄弟で交流を行ったという成果だろう。


(ラミルファ様が……)


 フレイムだけでなく、ラミルファも密かに個別念話で釘を刺してくれていたようだ。


「アレクも同じこと、言ってた。まあ、アイツどうでも良い。ウザいし」


 ばっさり切られる葬邪神である。


「焔神様、ラミ、アマーリエ大事。もちろん、雛たち全員大事。一生懸命、守ろうとしてる。子猫、シャーッ、してるみたい」


 顕現してからたった数百年の若神たちなど、生まれたての子猫が必死で毛を立てて威嚇しているようにしか見えないのだろう。


「けど、焔神様、ラミ、荒神。その気になる、子猫から獣に変貌する、喉元に食い付かれる。相手の器、見誤る、愚かの極み」


 ちっちっちと指を振り、幼子の姿をした神は再び眼差しを優しくした。


『けど、ラミが獣になること、ほとんどない。普段、すごく小さい。とっても大人しい。そして…………。我の弟。可愛い、可愛い。小さな小さな、か弱い弟。我、守る。――そうだ、あの子は我が守ってやらねば』


 刹那だけ、あどけない声が底の見えぬ凄みを帯びた気がして、アマーリエは肩を竦める。だが、疫神は即座に無邪気な様相を取り戻した。


「可愛い弟、こう言ってた。悪神と雛たち、嗜好違う。こっち、善意でやる。冗談で揶揄う。でも、雛たち、本気で傷付くかもしれない。誰かにとっての軽いジョーク、別の誰かにとっては刃物。雛たちの心、よく見る。想い、よく感じる。傷残す、言語道断。何度もそう言ってた。我、絶賛共感中」

(そんなことを……仰ってくれていたのね)


 そのような素振りは欠片も見せなかったので、全く知らなかった。初対面と再会時が最悪だった末の邪神が、ここまで頼もしい味方に変貌するとは。それに共感しているという疫神も、誤解が解けて冷静にこちらを見るようになってくれさえすれば、十分対話ができる神なのだろう。


「アマーリエ、嫌言う。仕方ない、毒虫ベッド、やめる。……気持ち良いのに」

「ごめんなさい……お気持ちだけありがたく受け取らせていただきます」

「謝るない。嗜好違う、仕方ない。考え方、感じ方、それぞれある」


 ガックリと肩を落とした疫神が、コロンとベッドに丸まった。そのままでんぐり返りを始める。


「人間のベッド、硬い。けど、遊び場所、ちょうど良い」


 このままずっとコロコロしていて欲しいと思いつつ、アマーリエは家系図のファイルを置き直そうとした。その拍子に、腕がデスク上のペンに当たった。


「あ……」


 ペンが落ち、絨毯の上を滑って姿見の前で止まる。


(落としてしまったわ)


 アマーリエは足早に姿見へ歩み寄った。磨き抜かれた鏡に自身が映り込む。ついでに、背後のベッドで転がり虫になっている疫神も映っているのを流し見ながら、膝を付いてペンを拾い上げる。そして、ピカピカだと思っていた姿見の隅が曇っていることに気付いた。


(角が少し汚れているわ。ここ数日は寝ていたから……この部屋には形代の清掃を入れていなかったものね。拭いた方が良いかしら)


 聖威を使えば一瞬で綺麗になるが、実家でずっと家事を担って来たアマーリエは、自分で動く癖が付いている。


(確か、新品の布がチェストに……)


 考えながら立ち上がり、ひょいと顔を上げる。



 ――心臓が止まりそうになった。



 鏡の中でコロコロしていた幼児が消え、葬邪神に似た面差しを持つ青年が佇んでいた。鏡面ごしに目が合うと、異次元の美貌がチラリと流し目を送って来る。どこか気怠げさを帯びた艶冶(えんや)な視線。


「アマーリエ・ユフィー・サード」


 いつの間にかすぐ背後に立っていた青年姿の疫神が、軽く腰を屈めて囁いた。艶を含んだ声と、甘い吐息が耳朶(じだ)にかかる。


「……何でしょうか、疫神様」

「名で呼んでも構わんのだぞ? ディスシェル様、と」


 スラリとした指が虚空を這い、前を見たまま硬直しているアマーリエの髪を一房すくった。普通の女性であれば夢見心地になるのだろうが、あいにく自分はフレイム一筋なので効果はない。真面目な顔で返す。


「いえ、古き神々の御名をお呼びするのは恐れ多いことですので」


 ラミルファやフロース、ウェイブのような若神たちのことは名で呼べるが、狼神や葬邪神、この疫神など、どこか底知れぬ雰囲気を纏う太古神はそうはいかない。


 とはいえ、聞いたところ神々の間では、名で呼べば親しく、神格で呼べば余所余所しいという感覚はないらしい。後者の方が若干真面目に感じるだけで、その時の気分でどちらも併用しているそうなので、これは元人間独特の感性なのだろう。


「連れんなぁ」


 口端を持ち上げて笑った疫神が、指を離す。そして、再びアマーリエの耳元に顔を近付けた。長い睫毛を僅かに伏せた眼が、官能的な色香を帯びる。


「我の可愛い弟が授けし助言、無駄にするでない」

「え?」

「後に事が起こってから気付き、しまったと嘆いた時には既に手遅れやもしれんぞ」

「……何のお話でしょうか?」

「我が弟の言葉をよぅく思い出せ。忠実に実行するのだ。自己判断で変えてはならん」

「ラミルファ様のお言葉? ……ええと、今までたくさんお話ししているのですけれど、どのお言葉でしょうか?」


 末の邪神が、あの軽薄な笑みでペラペラと喋っていた内容は、多岐に渡る。その中で疫神が知っているものといえば――と考えていると、歌うような美声が鼓膜を震わせた。


「その血に継がれし運命(さだめ)が絶えたと思うな。聖威は所詮不完全な切れ端。神の力に隠されれば、視えぬことも出て来よう。決して見落とすでない。救いたいならばな」

(……!?)


 不穏な御言葉(みことば)に、アマーリエは弾かれたように振り返った。


「あの、どういう――」


 だが、顧みた先には誰もない。一度瞬きし、ふと視線を下に落とすと、幼児がトコトコと歩いて行くところだった。


「ふぅ。我、そろそろ帰る。アレクのとこ、行く」

「疫神様っ……」

「バイバイ、また明日」


 呼び止めようとするアマーリエに無垢な笑みを向け、幼子の姿に戻った太古の神は、幻のようにその姿を消していた。


「な……何なの、一体……?」

(どういうこと――?)


 広々とした自室に、静寂が満ちる。針が落ちる音も聞こえそうな(しじま)の中、アマーリエは途方に暮れて立ち尽くしていた。

ありがとうございました。

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