56.その力を解き放てば
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全ての次元、全ての宇宙に、サァッと神威が流れていく。黒い砂のような光がキラキラと吹き抜けた後には、何も残らない。ただ無だけがあった。
疫神が宙を滑り降り、アマーリエの方へと指を向けた。
『アマーリエ。神に戻らんならば、我がお前を守護してやろう。その身を縛る絶望の神罰から』
放たれるのは、今までの猛り狂う神威とは真逆の、どこまでも静謐な御稜威。ただ一陣の煌めきだけで全てを終わらせる。無数に存在する世界と宇宙次元の全てを半瞬で無に帰してしまえる、絶対存在の力。
あの黒砂に僅かでも撫でられれば、聖威師は知覚する間もなく廃神となるだろう。神格を持つがゆえに無に帰されることはないが、神の性を抑えたままでは心を保っていられない。
『っ…………!』
地面に這ったラミルファが唇を噛んだ。アマーリエの方に手を伸ばそうとするが、最古の神の力に完封されて身動きが取れない。
「……いいえ……出て来なくて大丈夫です……あなたは最後の切り札ですから……今、念話しましたから、はい、もう少し待って下さい……」
同じく大地へと押し付けられたフルードが、何故か自身の胸を見ながらぶつぶつと呟いているが、小さすぎてアマーリエたちには聞こえていない。
『……ここまでか。止められなかった――すまんなぁ』
双子神の様子をじっと見ていた葬邪神が呟いた。
『聖威師を神に戻す。滞留書はもはや更新されん。この事実をもって、聖威師の昇天を決定する。次に太陽が昇る時、もう聖威師たちは地上におらん』
そう述べた直後、『まぁ、もう太陽自体がないんだがなぁ』とひとりごち――ふっと息を詰めて一点を凝視した。
「…………?」
アマーリエも視線だけを動かし、目を瞠る。
(フレイム)
フレイムがいつの間にか起き上がり、アマーリエと疫神の間に割り込む形で佇んでいた。睨み付けてもいなければ、身構えてもいない。ダラリと両腕を垂らし、無表情で暴れ神を眺めている。
だが、噴き出す気迫と威圧が違う。これまでとは大きさと強さと深さの意味が根本から異なる神威。熱くも温かくも力強くもない――そんな言葉で表現できる次元はとうに超えている――力を放ち、山吹色の目を炯々と光らせて眼前の神を見据えていた。
『――おぉ!』
獰猛な獣のごとく見開かれた疫神の双眸に歓喜が宿り、興奮に満ちた口調でフレイムを指差す。
『そうこれだ! この熱この色この波動! 我ら有色の神々が有する神威の片鱗! 世界などに合わせて縮こまらせておらん真の御稜威、その一端! そのまま解き放て、己が本来の力を!』
(フレイム、フレイム)
アマーリエは心の中で呼びかけた。ワインレッドの髪に山吹の瞳。見知った様相であるはずのフレイムが、何故かとても遠い存在に見えた。よく目を凝らせば、いつだって自分を優しく包み込んでくれる体躯には、うっすらと虹がかかっている。
天界最強の神。
そんなフレーズが脳裏に閃く。
行ってしまう。このままでは彼が行ってしまう。自分の手の届かない、高く遠い果てより先にある絶域に。
『フレイム……駄目だ、抑えろ……全部焼け消えるぞ……』
ラミルファが苦しげに呼びかけるが、フレイムは反応しない。ただ無言で疫神を見ている。
《アマーリエ!》
アマーリエの脳裏に、フルードからの念話が弾けた。彼とて限界を超えて神威を受けているはずなのに、どこにそんな力が残っていたのか。
《焔神様を止めて下さい!》
《い、行きたいのですけれど、疫神様の神威で動けなくて――》
《あなたにかかっている神威は私が引き受けます》
《ええ!? そんなことをしたらフルード様が!》
アマーリエより遥かに多くの神威を受けてくれている彼に、これ以上の負担はかけられない。本当に潰されてしまう。
《数瞬の間だけならばどうにかなります、いえ、どうにかします》
その言葉で、もう一度視線だけを上げてフレイムを見る。気のせいか、彼はさらに高みに昇ってしまったように感じた。どれだけ腕を伸ばしても伸ばしても、決して掴めない距離へと。長身に帯びる朧な虹は濃度と明度を増し、はっきりと視認できるようになっている。
「い……いや、いや……」
(フレイム、行かないで)
胸の奥から衝動が突き上がり、喉が震えた。視界がぼやけ、目のふちに雫が盛り上がる。喜色を浮かべていた疫神がアマーリエに視線を移し、表情を変えた。
「やめて、やめて――お願い……いやああああああああ!」
叫びと共に、双眸からポロポロと涙が溢れ出る。疫神が瞠目した。場を圧倒していた絶対的な神威が、フッと消える。
直後、大気に亀裂が走って砕け散った。
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