1.救国の女神
お読みいただきありがとうございます。
第3章です。
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轟々と音を立てる黒い雲が、蛇のようにとぐろを巻いている。叩き付ける豪雨が街を押し流し、吹き付ける暴風が生命を蹂躙し、駆け下りる稲妻が終末の閃光のごとく走る。
海の荒波が届かない高台にある避難施設に篭った人々は、身を寄せ合って震えていた。
「もう何日も嵐が止まない」
「ヤクス山脈が広い範囲で崩れるかもしれないのでしょう?」
「あの大山脈が崩壊したら終わりだ。防衛霊具ももう保たないとか」
「ここだって一瞬で押し潰されるわ」
「けど、低地には移れないよ。海が荒れてるし、この国一帯に広がるホルドー大河だってあちこちで決壊してる」
ヒソヒソと囁き合う大人たちに混じり、子どもの泣き声が響いている。
「無事な国に避難民の受け入れを要請してるみたいだけど、近くの国も同じような状況だから対応が追い付かないんだって」
「避難者の数が多すぎるのよ。我先に逃げようとしたらパニックになるから、転移霊具での国家間移動も制限されているし」
「裕福な奴がいる避難所から優先して受け入れてるって話だ。こんな民間の施設なんか後回しだろう」
小さな声で話す大人たちは、疲れ切った顔をしている。光のない瞳の奥には、もう助からないだろうという悲壮感があった。
ズン、と地鳴りが響く。
「うわぁ!」
「地震か!?」
「いや、雨で地盤が緩んだんだ――ヤクスが崩れる!」
雨風に叩き割られそうな窓越しに外を見ていた皆が悲鳴を上げる。巨大な山河を擁するこのエイリスト王国だけでなく、近隣諸国にまでまたがって広がるヤクス山脈。その広範囲に渡る部分が、低い鳴動と共に崩落しようとしていた。
激しい揺れと化け物の絶叫のような轟音。幼児たちが一斉に泣き叫ぶ。
「うわあああん!」
「ママ、助けて!」
「怖いよパパー!」
涙をこぼしてしがみつく小さな体を精一杯握りしめ、大人たちは唇を噛み締めた。
「ごめんね、怖いわよね」
「パパはここにいるからな」
誰かがポツリと呟いた。
「もう、終わりだな……」
微かな声量のその言葉は、不思議とこの騒音の中ではっきり響いた。瞬く間に諦観が広がり、皆が目を閉じかけた時。
上空で紅碧の輝きが炸裂した。弾丸のような雨滴を物ともせず、神秘的な紅掛空色の光が、絶望を象徴するような暗天を鮮やかに引き裂いて翔ける。
「な――何だ? 流れ星か?」
目を白黒させる人々の中で、一人が上ずった声を上げる。
「……違う。俺は一回だけ帝都に行った時に見た。あれは大神官の聖威だ」
「大神官? 帝都と皇都の神官府だけにいらっしゃるっていう聖威師様?」
「神様だから世界規模の災害でないと動けないんだろ?」
「出動できるための条件がものすごく厳しくて、滅多に出られないって聞いたわよ」
「いつだったか、巨大な隕石が世界中に落ちて来た時は、顔色一つ変えずに半瞬で全部消し飛ばしたらしいが……」
信じられないと瞠目して見上げる視線の先で、淡い紅碧の光が瞬いた。精緻な刺繍が入った神官衣を翻し、流麗な痩躯が輝きを纏って滞空する。絹糸のような金の髪が、暗い空で煌めいた。
「おい見ろ、光の中に誰か人がいる」
「じゃあ本当に大神官なのか?」
にわかに希望が生まれ、波濤のように拡散していく。
「聖威師様が動いて下さったんだ!」
「何とかなるのか!?」
熱のこもった眼差しに気付いているのかいないのか、人影は場所を開けるように、やや後方に退いた。
次の瞬間、紅葉色とアクアマリンの閃光が走り、宙に静止した。
「今度は何!? 別の聖威師様?」
「大神官の御子様方じゃないか? 娘は海底にある神器が暴走した時、大海を真っ二つに割って引きずり出して鎮めたとか。息子の方は神器を取り込んで凶暴化した悪霊の群れを瞬殺したって聞いたが」
「おい、ミレイにテッド。お前ら視力はピカイチだろ。何か見えねえか?」
「えっと――雨風が酷くてはっきりとは分からないけど、新しい光の中にいるのは若い娘みたいよ」
「ホントだな。赤と水色の聖威を持つ若い娘って……一番新しい聖威師様たちなんじゃないか?」
その推測を肯定するように、二色の輝きが華麗な曲線を描きながら空を舞い始めた。
紅葉色の光を纏う少女が天に向かって腕を振るい、岩盤のような分厚さの雲を豪快に吹っ飛ばす。同時に、アクアマリンの煌めきを帯びる少女が両手を合わせて打ち鳴らし、崩れ落ちんとするヤクス山脈をピタリと押しとどめた。
散り散りになった雨雲の狭間から、青空と陽光が覗いた。赤い聖威が真円を描いて世界に広がり、嵐と雷雨、荒れる海原を瞬時に鎮める。水色の聖威も放射状に輝きながら国々へと浸透し、崩れた山や氾濫した河、叩き潰された街を元通りに復元していった。
僅か数拍後、日差しが降り注ぐ快晴の下、数日前と何も変わらない街並みが復活していた。
雨風が無くなったにも関わらず、針が落ちる音すら聞こえそうな静寂が満ちる。誰もが状況を理解できず、息も忘れて空に魅入っていた。
やがて、凪いだ湖面に一滴の雫が落ちるように、さざめきが生まれる。
「……った……助かったんだ!」
「おーい、俺たち生きてるぞ!」
「嵐が消えて街も戻ったわ!」
「信じられない、こんな――聖威師様!」
「ありがとうございます聖威師様!」
歓喜と歓声が伝播し、次々に避難所から走り出た人々が拳を振り上げて天を仰ぎ見る。気が抜けてへたり込んでいる者たちもいた。
上空に留まっていた三色の光が、放たれた矢のように飛翔した。暴威に耐え抜いた国民たちを讃えるように大きく旋回し、残像を引きながら瞬き一つの間に彼方へと駆け去る。
歓声が大きくなった。皆が涙を滲ませ、口々に感謝と安堵の言葉を述べる。遥か蒼穹に色濃く刻み付けられた残光が消えるまで。
後日、帝国による公式発表により、天災を収めたのは次期大神官アマーリエ、各国を復元したのは次期神官長リーリアであると報された。
次代を担う若き聖威師たちの奮励により、10億人にも迫る数の命が救われたのだった。
ありがとうございました。
誤字報告ありがとうございます。とても助かっていますm(_ _)m