87.聖威師の滞留書
お読みいただきありがとうございます。
◆◆◆
吹きすさぶ風に、絹糸のような金髪が踊っている。
大神官室の窓を開け放ち、フルードはぼんやりと空を見上げていた。
「パパさん、ここで何をしているんだ」
涼やかな声と共に、フロースが転移で姿を現した。
「体を休めないと。今日は仕事は無いんだろう?」
「はい。昨夜緊急の神鎮めが入ったので、振り替えで本日が休みになりました」
「なら邸に戻るか、仮眠を取った方が良い」
「少し前までは横になっていたのだがね、眠れないと言って起き出してしまったのだよ」
フルードの側で、窓辺にもたれていたラミルファがやれやれと呟く。
「パパさんは寝付きが悪いのかな。私はいくらでも眠れるのだけど、愛し子を得てからは眠気が吹っ飛んでしまった。不思議だ」
「ふふ、時空神様も同じことを言っていたよ。愛し子の力は偉大だ」
「やはり考察しがいがある。私はこれからどう変わっていくのかな。自分のどこが、どういう風に、どのくらい変わるのか。検証するのが楽しみだ」
「もう変わっているじゃないか。引き篭もりだった君が外に出て、リーリアとデートしたのだよ。水神様も感無量だろう」
「それもそうか。……ねえパパさん、私はレアナとずっと一緒にいたい」
微かに色付いた双眸に見つめられ、フルードは穏和に返す。
「泡神様とリーリアは主神と愛し子になられたのですから。これからはずっとご一緒ですよ」
「だけど、特別降臨は有期限だ。いずれはレアナを置いて天に還らないといけなくなる」
「リーリアが寿命を終えて昇天するまでのご辛抱です。それに、少し間を置けば再降臨することも可能でしょう」
「僅かな期間でも愛し子を手放したくないんだ」
きっと、フレイムも同様に思っているだろう。このままずっとアマーリエの隣にいられれば良いのに、と。
「いや、レアナだけじゃない。パパさんとも、アマーリエとも、他の聖威師たちとも離れたくない。もっと言えば、天と地に分かれて在る現状自体がもう嫌だ」
淡々と言の葉を紡ぐフロースを囲むように、神威の泡がコポコポと漂う。
「天の神々もそう思っている。これ以上、同胞と離れていたくないって。特に、聖威師たちの主神はどれだけ苦悩し煩悶していることか」
「泡神様――」
「パパさん、滞留書を出してくれないか」
「聖威師の滞留書……僕たちにとって最も忌まわしいものの一つだ」
黙り込んだフルードの耳に、邪神の軽快な笑い声が滑り込んだ。
「地上にいる聖威師は、人間としての寿命が来るまで下界に留まることができる。だが、何もしないで無条件に許されるわけではない。一定期間ごとに、神々が定めた所定の滞留書に自身の名を署名する必要がある」
「うん。署名の更新を忘れれば、あるいは滞留書が破損すれば、その時点で寿命が残っていても強制昇天になる。今は大神官か神官長が、聖威師全員分の署名をまとめてしているんだよね」
太古の昔からそのような決まりがあったわけではない。正確に言えば原型のようなものがあるにはあったが、もっと曖昧で緩いものだった。
このように厳格化されたのは、聖威師が今の形で地上に留まることになった時――つまり帝国と皇国が創建され、聖威師が神官府の長になると決まった時だ。その後も、幾多の協議と紆余曲折を経て多少の変更や修正が追加されていき、現在の形になった。
なお、滞留書に署名をしなくても良い例外も一応はある。神に喚ばれて天に召されている期間などは、署名無しでも許容されるのだ。だが、そういった特例を除けば、更新は必須だ。
「私は穏便に済ませたいんだよ。聖威師たちの命を無理矢理奪うことはしたくない。滞留書を破棄できれば一番良いと思ってるんだ」
フロースが一歩前に出た。フルードは表情を崩さず、見守るラミルファはニヤニヤしたまま動かない。
「滞留書は、天界の原紙と地上の複製の二通。複製に署名すれば原紙にも同じ内容が反映される。複製は、パパさんとママさん、当真と恵奈が一年交代で管理しているはずだ。今はパパさんが持っている」
なお、アリステルは復讐を終えればさっさと昇天する予定だったため、複製の管理には携わっていない。スラリと細い指が、フルードの胸を指した。神の眼に光が閃く。
「滞留書は管理者が肌身離さず持っている。パパさんの懐にあるんだろう。天界にある原紙は厳重に保管されているから、破り棄てられるなら複製の方だ」
そこまで言った泡の神は、ふぅと溜め息を吐いた。
「繰り返すけど、私は本当に手荒なことをしたくないし、するつもりもないんだ。――だから圧をかけないでくれないか、焔神様」
ありがとうございました。