58.足掻くオーブリー
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「く、来るな、寄るなあぁ! お前は神だと言っていたではないか! じゃ、邪霊だったなど聞いていない!」
ド派手に爆炎を上げながら崩れ落ちていく神官府すら目に入らない様子で、必死に逃げている。スゥーと宙を滑り、後ろから彼を追いかけるのは邪霊だ。妙齢の美女の風貌をしていた。
ここに入って来られたところを見るに、アリステルがこの場に敷いていた結界は、既に解除されているようだ。
「ああ、大神官様! お助け下さい、邪霊が!」
「オーブリー! ……邪霊もいるのね」
「アマーリエ!?」
汗でぐっしょりと顔を濡らしながらアリステルに助けを求めていたオーブリーが、こちらに顔を向けた。
「頼む、たす、助けてくれ! この者は神などではなかったのだ、邪霊だった! 先ほど正体を現したのだ! 俺を地下に連れて行くと言っている!」
縋り付く勢いで手を伸ばすが、愛妻を腕の中に抱え込んだフレイムが冷たく弾き返す。
「助けてくれ、か。かつてユフィーもそう言ってお前の前で泣いただろうよ。助けて、やめて、許してってな。その時、お前はそれを聞き入れてやったのか?」
「は……な、何のことでしょうか?」
「とぼけんな。お前がユフィーを罵倒して暴力を振るっていたことは分かってんだ。力ずくで水に顔を突っ込ませて溺れさせたこともな」
オーブリーの顔が一気に土気色に変わった。
「あ、や、それは……」
「ごまかそうとうしても無駄だ。自分が虐げる時は、相手が制止を懇願しても聞かなかったくせに、立場が逆転したら叫び散らして助けを請うのか」
はくはくと口を動かし、しかし言葉が出て来なかったらしいオーブリーは、不意に目を血走らせてアマーリエを睨み付けた。
「……アマーリエ、貴様! 焔神様に告げ口したのだな! 愛し子の立場を濫用する卑怯者め! 見た目は美しくなったと思っていたが、やはり内面は最低な女だったか。無力な人間を虐めて楽しいか!?」
(えぇ……?)
アマーリエは呆気に取られ、目の前で唾を飛ばす青年を見つめた。
「告げ口じゃねえよ、勇気ある告発だ。あと、愛し子の立場の濫用じゃなく、被害者の権利を行使しただけな。楽しそうにしてたどころか、苦痛に満ちた顔をしてたぜ。無力な娘を虐める最低男のことを思い出す羽目になったんだからな」
フレイムが一つ一つ丁寧に言い直した。
「何より、俺のユフィーは外も内も最高に綺麗だ。喚くにしても、最低限正しい表現をしろよ」
「え、焔神様、誤解なのです! 俺は地下になど行きたくない!」
『――やれやれ、これはアマーリエに申し訳ないことをした』
溜め息を吐いたのは狼神だ。ペシンペシンと尻尾を振っている。
『帝都にいるガルーンと老夫婦への報復は、中央本府で行うことにしていた。ゆえに、オーブリーへの懲罰も同じ場所でまとめてやってしまえば良いと思い、テスオラの帝都入り後に設定したが……』
空色がかった灰銀の眼が、険呑に煌めく。
「ひぃ……」
睨め付けられたオーブリーが腰を抜かした。狼神の巨躯に驚いたか、発される気迫に圧倒されたか、次元が違う神威に当てられたか、その全てか。狼神はフレイムと違い、神威を抑制してはいない。
『こういうことになるのであれば、属国にいる間にさっさと実行してしまえば良かった』
「できれば、いえ、ぜひそうして欲しかったです。リミットを過ぎた瞬間に動き、ユフィーの知らない所でカタを付けていただきたかった」
フレイムがジト目で抗議する。
『すみませんなぁ。次回以降があれば十分に留意いたしますゆえ』
「いや、もう二度と無くて良いっすから……」
アマーリエはフレイムの腕から抜け出ると、冷たく厳しい声を発した。
「聞きなさい、オーブリー・セドル・マキシム。私はもはや神の座に加わった身。だからこそ、私を侮辱したあなたを許容することはできません」
自分の立場を振りかざすつもりも、主神の威を借るつもりもない。だが、ここで半端な対応をすればフレイムの威信に関わる。自分の身に起こることは、もう自分だけの問題ではないのだ。
「神官でありながら神を罵る愚か者。許されざる行為を犯したあなたを、神として聖威師として神官として、深く軽蔑します」
月明かりが瞬く夜空を背負い、紅葉色の聖威が幻想的に煌めく。心配そうにアマーリエを見守っていたフレイムが、魅入られたように釘付けになっている。
「また、あなたから過去に受けて来た行いを思い返すにつき、一個人としてもあなたを許しません。――不肖の神官よ。その身に慈悲は降りぬと知りなさい」
ドレスの袖を一振りして言い切ると、オーブリーは愕然とした。元々悪かった顔色が、さらに血の気を失くす。
『……なるほど。箱庭の中で守られているだけの華ではなさそうですな。堂々と主神の隣に立ち、美しく咲くでしょう』
狼神がうっすらと笑う。
『貴き神々よ』
オーブリーを追って来た邪霊が、アマーリエたちに向かって膝を折る。
『これにて神命はほぼ完遂いたしました。後は此奴を地下へ引きずり込むのみ』
「ま、待て……待ってくれ! そうだ、邪霊が望む代価を払えば、地下行きは免除になるはずだ! 何を望む!?」
オーブリーが尻を使って後ずさりながら言った。
『……しまった。代価の提示を求められた場合の対応について、ご指示を聞くのを忘れていた』
邪霊が顔を歪めて呟く。老夫婦に憑いていた男女の邪霊に視線を向けるが、当然ながら答えは分からないようで、二体とも首を横に振っている。
――その瞬間、空が割れた。輝く白縹色の光が差し込み、天と地を繋ぐ階を象る。
『中々盛大に燃えている。邪神様の炎だな』
黒炎に侵され、骨組みも残さずボロボロと腐蝕しながら消えていく神官府。それを表情無く見渡して呟くのは、あどけない子どもの声だ。
「あ、あなたは……っ」
オーブリーが裏返った声を上げる。整った顔が引き攣り、無残に歪んでいた。
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