46.兄は謝る
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『悪かった悪かった、お兄ちゃんが悪かったよ、ラミ』
燃え上がる黒炎がチリチリと空間を焦がしている。ラミルファの愛称を呼び、両手を上げて降参のポーズを取りながら、葬邪神が数歩後ろに下がった。
『フルードに危害を加えるつもりは塵ほども無かった。実際何もしとらんだろ。こうして隔離させてもらっただけだ』
『無体な事は何もしなかったのですね?』
『ここに引っ張り込む時にちょこっと縛ったくらいだな。だが、すぐに解いてやったぞ』
『縛った……?』
『いやぁ、その、ここで逃したら厄介だと思って、つい』
『つい……?』
眦を上げるラミルファを、フルードが背後から宥めた。
「良いのですラミ様! ついやってしまうのは誰にでもあることです。僕も一つだけにしようと決めていたフィナンシェが美味しくて、二つも三つも食べてしまったことがありますし!」
それと今の話に何の関係性があるのだろうかと葬邪神は思ったが、ラミルファは一気に機嫌を直した。
『そうか。君は相変わらず甘いものが好きなのだな、セイン。今度フィナンシェとマフィンを作ってあげよう』
漆黒の炎がシュンと消える。穏やかさを取り戻した灰緑の双眸が、念押しするように兄を見た。
『大好きな兄上なので今回は目を瞑りますが、以後お気を付けを』
『分かった、よく分かったとも。お兄ちゃん超絶反省中だ』
邪神同士の兄弟喧嘩をする気はないと、葬邪神はひたすら弟を宥めた。
数千兆年以上の悠久を在る一の邪神にとって、顕現してから200年と少ししか経っていない末弟は、孵化したての雛も同然だ。だが、同じ選ばれし神であり神位も同格である以上、戦闘力を含めた強さは対等。本気で戦えば全くの互角だ。この末弟は性格がとても温厚なので、普段であれば苛烈な長兄が勝る。だが、己の最愛が関与する場合はその限りではない。そのことを、葬邪神はよく知っていた。
加えて、一の邪神とラミルファは神々の中でも特殊なのだ。戦闘態勢に入った彼らの神威に抗せる神は、至高神を除けば同じく特異な神々くらいしかいない。
『本当に分かったのですね?』
『ああ、もちろんだ。頼む、機嫌を直してくれよ〜。ほら、茶も入ったし飲もう。フルードは腹ペコなんだぞ』
『分かりました』
渾身の宥めすかしが効いたか、フルードを引き合いに出したのが正解だったか、剣呑な気配がパッと消失した。
『セイン、僕はこれから兄上と話をする。君も聞いていれば良い』
『はい』
地上では出さない優しい声が促す。頷いたフルードは、素直に椅子に座った。
『それで、何故セインをここに引き込んだのです?』
別の椅子に腰掛けたラミルファが、カップを持ちながら言った。
『もしや、泡神様が来たのも兄上の差し金ですか?』
『それは違う。……俺たちが動くのと泡神様が降臨を決意したのが、偶々同じタイミングになっただけだ。だから少しだけ手伝いをお願いした。ガルーンの件でフルードが無理をしていないか、側で見守ってくれと』
一の邪神は、狼神が邪霊を利用してガルーンに与えた制裁のことを説明した。聖威師になったという歓喜から一転、彼は地獄に突き落とされるのだと。
さらに、フルードに課した試験についても話す。ガルーンが寵を得たという報を受け、大きなストレスと心労を抱えるであろうフルードが、その胸中を誰かに曝け出せるかを試していたことを。
だが、すぐに打ち明けられるとは限らない。相談するか否か迷う期間もあるかもしれない。即日言わなければ失格は厳しすぎるため、数日は様子を見ることにしていた。
その猶予期間の間、心細さと焦燥でフルードの精神が潰れそうになっていないか、過剰に追い詰められていないか、近くで直に見守ってもらう役目をフロースにお願いしていた。
『ふぅん。それで泡神様は、やけに熱心にセインの所に泊まろうとしていたのか』
不安が最も高まるのは、仕事の緊張から解放され自邸で素に戻った時。特に注意を払うべきなのは、神官府ではなく邸にいる時間だ。
『だが、ガルーンが独自に脅迫を送り付け、それを読んで動転したフルードが狼神様でも焔神様でもなくお前に助けを求め、お前が大至急で特別降臨の許可をもぎ取って地上に突撃した。その時点で予定がポシャった』
ガルーンが聖威師になったことを予定外の経路で知ったフルードが縋った相手は、ラミルファだった。
『いや〜、あれは俺たちにとってもまさかの展開だったなぁ』
不安と恐怖に怯える宝玉のため、電光石火で特別降臨したラミルファは、その側から片時も離れず守り始めた。精神的に衰弱しているフルードにこれ以上負担がかからないよう、フロースを邸に泊らせないようにもした。
〝やっぱり、パパさんは私が見ていなくても大丈夫ですよ。骸邪神様が張り付いていますから〟
とは、宿泊を阻止された後で密かに念話して来たフロースの言だ。
『僕には最初から全容を説明していれば良かったのでは?』
『お前は徹頭徹尾フルードの味方だ。掌中の珠が不安に駆られている様子を目の当たりにすれば、迷わず全てを暴露していただろ』
『あぁそうか、そうですね。ふふふ』
フレイムと同じ理論をかまされ、ラミルファは清々しいまでにさっぱりと頷いた。悪神とは思えぬ潔さである。
『しかし、ガルーンとあの夫婦が同時期に聖威師になり、しかも認証してみれば邪霊憑きで、その邪霊には兄上の神威がかかっている……この情報が出揃った時点で、朧げにではあっても大方を察しましたよ。フレイムや聖威師たちも同じでしょう』
大人しく聞いていたフルードが、ココアバター味のフィナンシェを食べながら首肯した。先ほどから一心に菓子を食べている。ずっと高位神に喚びかけていたため、体力を消耗して空腹なのだ。
『それでも確証がない以上、まずは俺か邪霊に直接コンタクトを取ろうとする。そこで種明かしをしようと思ってたんだ。焔神様の所には狼神様が向かっている。他の聖威師たちには、それぞれの主神からタイミングを見計らって真相を教えてやるよう頼んでおいた。今頃は答え合わせをしているだろう』
『もっと早く教えてあげれば良かったのに。セインは僕に相談したのですから、その時点で合格でしょう?』
『いや、そこは即決せず、数日くらい置いてみるつもりだったんだ。最初は勢いで相談できても、後で我に返り、甘えすぎたら駄目だと抱え込み始めるかもしれないだろう』
一の邪神が末弟を見据えた。
『合否を判定するのはお前だ、ラミ。お前は降臨してから耐えずフルードの側にいた。その間、フルードはきちんと心中を出せていたか? 神官府では仕事中ということもあり、難しかっただろうが、邸ではどうだった?』
ありがとうございました。