36.応じてはいけない
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「これから子どもの神官たちに人形劇を見せるのです。あなた方も見ていかれますか?」
発されたのは、穏やかな青年の声だった。身長からしておそらく成人だ。アマーリエは驚いて彼を見つめるが、黒い外套を纏い、頭にはフードを被っているため、顔が見えない。
「あ、ああ……」
「はい……」
夫婦がコクンと頷き、ぺたんと座り込む。まるで何かに操られたように。
(ちょっと待って、子どもの神官が勤務するのは10の時から16の時までよ。何でこんな遅い時間に?)
なお、聖威師の場合は例外で、幼児であっても大人と同じだけの勤務をこなす。だが、ここに集っているのは確実に聖威師ではない。
(神官は貴族の子女が多いのよ。こんな時間まで帰っていなかったら、邸が大騒ぎになっているのではないかしら)
心配げに子どもたちを見回し、明らかな違和感を覚えて瞬きした。
(あら……この子たちの気、おかしいわ)
そこで視線を感じて顔を向けると、外套を着た青年がこちらを見ている。
「お前は呼んでいない。何故来た」
先ほどより若干不機嫌な声。改めて聞いて、やはりと思う。聞き覚えがある声だった。だから先ほど驚いたのだ。
「あなたは……」
「帰るか? それとも聞いていくか?」
青年が、広場の出入口と地面を指を交互に指す。
「こ、こんなものを見ておいて帰れるわけがないでしょう。こんな時間に人形劇なんて」
「帰らないならそこで聞いていけ。私の邪魔をしなければ構わない」
「ちょ、ちょっと! こちらの話はまだ終わって……」
アマーリエの言葉を無視し、青年がパチンと指を鳴らす。舞台に光が差し、どこからともなく人形が飛び出して来た。
◆◆◆
「…………っ」
全身から血の気が引くような感覚と共に、フルードは床に手を付いた。赤系の色で統一されたこの空間には、紅蓮の気が満ちている。現在はフレイム専用の神殿として献上しているここは、自分にとって絶対の安全圏だ。
「応えて下さいませんか……」
認証が終わってからずっと一の邪神の勧請を試みているが、反応がない。高位神を喚び続けるのは、いかに聖威師であっても心身の消耗が激しい。
なお、この場にラミルファはいない。神殿に入る前に別行動を取ったのだ。
『僕は神官府の中を探ってみる。一の兄上が邪霊に接触していたら、残滓か何かだけでも手がかりがあるかもしれない。何か分かれば連絡する。君も兄上から反応があったら報せろ』
そう言った末の邪神は、最後にこう命じた。
『僕が戻るか僕から呼ばれるまで、君はこの神殿にいろ。他の誰に呼ばれても、何を言われても、応じてはいけない。良いな、これは神命だ』
だから、勧請している時にライナスやオーネリアから緊急の念話が来ても、佳良と当真たちが急用だと連絡を寄越しても、『神命を受けているので今は対応できかねます』とだけ答えて突っぱねた。
自分以外には応じるなと、ラミルファが言ったからだ。あの神がそう言ったから。
今日の勧請はここまでにした方が良いかもしれない。
床に膝を付いたままそう考えた時、不意にラミルファの力が閃き、目の前にひらりと紙片が現れた。
反射的に手を伸ばすと、宙を舞う紙切れは、狙ったようにその掌中に収まった。悪神とは思えぬ流麗な文字が踊っている。
〝面白いものを見付けた。裏庭にある四阿で待っている〟
フルードをこの場から動かせる唯一の存在からの連絡だった。
「裏庭……?」
神官府の裏庭とその付近一帯は、きちんと手入れこそされているものの、使う者は多くない。日当たりが悪くジメジメしているからだ。
だが、言い換えれば悪神が好みそうな場所ではある。一の邪神か邪霊、もしくは別の何かの痕跡があったとしてもおかしくはない。
神殿から裏庭に転移すると、疲れた体がふらついた。目眩を堪え、暗い空間に視線を投じる。聖威師は夜目が効くため、真っ暗闇であろうと不自由はない。
「邪神様、参りました」
声をかけるが、返事はない。四阿の四方には帳がかけられている。使用者がほとんどいないこともあり、埃や汚れが溜まりやすいからだ。
ざっと辺りを見回すと、懐かしさが込み上げる。神官に、そして聖威師になったばかりの頃は、よくここに逃げ込んで泣いていた。思えば、フレイムと初めて会ったのもこの四阿の陰だった。自分にとって思い出深い大切な場所だ。
「邪神様?」
帳をめくって中を覗くと、広々とした空間が横たわっていた。どう考えても四阿の面積より広い。
異空間だと察した時には遅かった。身を引こうとする間もなく、中から伸びて来た黒い蔓に全身を搦め捕られて引きずり込まれる。
舞い上がった帳が再び降り、後には静寂だけが残った。
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