3-2
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今日一日の練習を終えて、フルートの入ったハードケースを肩にかけて、校門に向かう。
職員室から戻ってきた夏希は、そのまま買い物に行くらしく、音楽室で別れた。
空を見上げると、雲のかかった夜空が広がっていた。いまもまだ織姫と彦星は会えていないようだ。少し雲の厚さが薄くなったのに。
学校からアパートまで歩いて帰られる距離。立派な校門を過ぎて、右に曲がった直後、
「お疲れ様です」
「ひゃあああ!」
突然背後から声が聞こえて、悲鳴をあげてしまった。近所迷惑だと、咄嗟に両手で口を押さえる。
くるりと振り返ると、街灯に照らされた福岡くんが立っていた。
「あれ? 帰ったんじゃなかった?」
「ちょっと用事があったんで」
「用事?」
高校生が二十一時までどんな用事があるのだろう。
そして、次に頭に浮かんできたのは、夏希の愚痴だ。
「そいや、夏希から聞いたよ。福岡くん、お家の人、厳しいんでしょ? 早く帰らなきゃ」
「はは」
「笑い事じゃないって」
困った。これでは、夏希にまたクレームが入りそうだし、福岡くんにとっても良いことにはならない。
どうしたものかと悩んでいると、
「お姉さんの名前はなんと言うんですか?」
「私の名前?」
「お姉さんと呼ぶより、名前の方が呼び易いんで」
「あ、ああ、そういうことね」
無駄にドキッとする。歳だな。
とりあえず、私達は歩き出した。
「眞野しほりだよ」
「眞野さん、ですか。宜しくお願いします」
爽やかな笑顔が向けられる。眩しい。眩し過ぎる。そんな若い子に名前を呼ばれて嫌な人が、この世にいるだろうか。いや、いない。
ジンジンと高校生という若さを全身で噛みしめる。
「眞野さん、いつもこんなに遅くなって、危なくないですか?」
『いつもこんなに遅くなって』という言葉に一瞬引っかかる。
「もう慣れっこだから。それにこんなおばさんを襲うような物好きはいないでしょ?」
「いや、この前の人、いましたよね……」
「あ」
冷静に福岡くんに言われて、ハッと思い出す。そういえば、そんな物好きが一ヶ月前くらいにいたな。
すると、どちらとともなく笑い声が漏れる。声を抑えながら、「忘れてた忘れてた」と正直に自分のミスだと白状した。
「あれからは大丈夫なんですか?」
改まって福岡くんに言われ、思い返してみる。
「んー、怖い思いはあれっきりかな」
「それはよかったです」
「でも、またあんなのがあったら」
怖いな。
寸前のところで口を閉じる。いかんいかん。また甘えようとしている。この言葉を言ってしまえば、相手に期待していると思われてしまう。
「連絡、交換しときます?」
優しい声色。
思わず、足を止めて、福岡くんの顔を見上げた。
夜風が二人の間をすり抜けていく。それは冷たく、心地よかった。
「じょ、冗談……? からかってるんでしょ」
もっと違う言い方があるだろうに。
福岡くんも立ち止まって、私を見据える。彼はニコッと笑った。
「冗談じゃないですよ? またなにかあった時は——」
照れ臭そうにはにかむ福岡くん。
「助けに行きますから」
王子様に見えた。
こんな私でも助けてくれるの?
でも、口に出したくても言えない。
「あ、あのね! 別に、あま、甘えたいわけじゃ、ないんだよ? 私の方が年上なんだし、もっとしっかりしなきゃって。だから、助けてほしくて、その、言ったわけじゃ、ないから」
〝またあんなのがあったら〟て言ったわけじゃないんだよ。
きちんと伝えた。
だって、『甘えるな』て言われたくないから。過去の亡霊達に言われた言葉を。
ああ、穴があれば入りたい。潜り込みたい。私、高校生を前になにを言っているのだろう。大人らしく、堂々としていればいいのに、それすらできない。
私はハードケースを抱えて、それで顔を隠した。それはひんやりとして、火照った顔は心地よかった。
すると、急にハードケースが宙に浮かぶ。いや、取り上げられた。
「これは没収します」
そう言って、福岡くんは、私の楽器ケースをさも自分のもののように肩から掛ける。
「ちょ、ちょっと!」
「眞野さんは眞野さんらしくいればいいのに」
慌てる私をよそに、福岡くんは自分のスマートフォンを取り出した。「眞野さんも早く出してください」
「本当に連絡交換、するの?」
「はい」
恐る恐る出したスマートフォンを福岡くんは手に取って、慣れた手つきでIDと電話番号を入力していく。流石若者といったところか。
「俺の入れときましたんで、何かあったら連絡してください」
「助けに行くって言うの、ちょっとキザですかね」そう言って、彼はスマートフォンを返す。画面を覗いてみると、確かに彼の名前と連絡先があった。
「家まで送ります」
「いや、悪いよ!」
「ちなみに、俺の家、駅方面なんで」
「同じ方向だね。でも……い、いいの?」
甘えてもいいのだろうか。
「女性一人で帰らせるわけにはいきませんから」
いまだけ、甘えてもいいかな。
「星、綺麗ですね」
「え、星、見える? 雲が邪魔してない?」
福岡くんにつられて私も夜空を見上げる。
「見えますよ。雲と雲の間。ほら、飛行機が飛んでるじゃないですか」
「飛行機って、どれ?」
目を凝らすが、どれが飛行機の光かわからない。首を傾げていると、福岡くんは指差した。
「ほら、あそこ。月の近くで雲が途切れてるでしょ? いま、ちょうど光がチカチカしてる。あれが飛行機ですよ」
「あ! あの点滅してる奴? 確かに動いてる。あんまり空とか見ないからわからなかったなぁ。仕事場近くだと、ビルの光が強いから星も見えないし」
「この辺は比較的都心から離れてますからね。見ようと思えば見えますから、たまになにも考えずに星を眺めると落ち着きますよ」
そう言って、柔らかな笑顔を向けてくれた。
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