3-1
あれから一ヶ月が経った。
七夕。彦星と織姫が一年に一度会える日。それなのに、空のご機嫌は斜め。いまにでも雨が降り出しそうな黒い雲が覆っていた。今夜、二人は会えそうになさそうだ。
そんなことを思いながら、タオルで手を拭き、校舎を歩く。すれ違う生徒はいない。
残業が終わってから急いで来たのだが、もう十九時前。部活は終了し、部員達が帰った後だ。
女子トイレから音楽室に帰る。夏希は、仕事が終わらないようで職員室に篭ったまま。いまは彼女が来るまで音楽室で個人練習。
誰もいない音楽室。防音もしっかりしている為、ドアを閉めてしまえば、そこは無音の世界だ。耳鳴りのような音が聞こえてくる。私はこれが嫌い。だから、すぐにピアノに置いていた楽器を手に取って、リッププレートに唇を乗せた。
リストが作曲した『愛の夢』。
切なさもあるロマンティックなメロディ。愛する二人がお互いに想い合う、そんなイメージ。
でも、私には想う相手はいない。だから、私が演奏すると、甘美なメロディーに哀愁が漂ってしまう。
曲が進むにつれて、情熱的になっていく。視線は絡み合い、惹かれ合う男女。手を伸ばして、二人は——その瞬間、愛の夢を壊すように、外から物が倒れるような音が耳に入った。ピタリと音を止める。
誰だろう。
夏希、仕事が終わったのだろうか。
しかし、もし夏希ではなく、違う先生だったら……そう思うと、煩かったかなと不安になり、恐る恐るドアに近づき、そっと開けた。
「あ」
ドアの近くで頭を押さえながら蹲る男子生徒。
「えっと、頭、打ったの? 大丈夫?」
フルートを持っていない一方の手で、その茶髪にそっと触れると、彼は顔を上げた。
「この前の……」
「……お邪魔します」
空笑いする福岡くんだった。この前、ノートを取りに来た福岡くんとは違って、助けてくれた彼のままだった。あれは一体何だったのだろう。
「どうして、ここに?」
みんな帰ったんじゃないの? と考えていると、福岡くんは「すみません」と断ってから、改めて口を開いた。
「こっそりとお姉さんのフルート、聴いてました」
ドキッとする。まさか聴かれていたなんて。人に聴かせるような演奏はしていなかった。完全に自分の為の、自己満足の演奏を。
「えーっと、とりあえず、中に入ろ。こんな所で話すのもアレだし」
生徒がまだ校舎に残っていると、他の先生方に気づかれたらいけない気がする。
音楽室に入ると、パイプ椅子に福岡くんを座らせ、その隣に私も座る。
緊張する。若い子が、しかも異性が、こんなすぐそばにいるのは照れちゃう。
「勝手に聴いててすみません」
先に口を開いたのは福岡くんだった。
何て返したらいいんだろう。返事に迷っていると、
「お姉さん、フルート、上手ですね」
真っ直ぐに私の目を見る。お世辞かもしれないけど、そう言われて、素直に嬉しく感じた。
「そ、そうかな。でも、音楽大学とか出たことないし、ただのアマチュアだよ」
「音大出てないのに、そこまで演奏できたら凄いですよ」
嬉しい。
「て、そうじゃなくて!」
流されてしまいそうになった。
私には彼に言いたいことがある。
「この前、夜の……助けてくれたよね?」
「まあ、そうなるんですかね」
「あ、ありがとう。スマホも、助けてくれたことも……家まで送って、くれたことも」
「気にしてませんから」
「お礼したいんだけど、いまは渡す物がない」
楽器に隠れるように顔を……全く隠れられてないが。
「そんな。礼なんて大丈夫ですよ」
「じゃあ、ジュ——」
ジュースでも奢るよ。
そう言い掛けた時、またドアが開く。
「……ハハーン」
ドアにもたれたまま、こちらを見る人物—— 夏希だ。腕を組み、こちらを見て、なにやら納得したような含みのある言い方。
「お邪魔してます」
特に気にする様子なく、福岡くんは夏希に挨拶した。
「キミさぁ、下校時刻、過ぎてんだけどなぁ」
「ハハ。すみません」
「笑って誤魔化すなよぉ?」
「え? ダメですか?」
「あたしだったからよかったけど、他の先生だったら叱られるよ〜?」
「それは嫌だなぁ。じゃあ、いまから帰ります」
「気をつけて《《早く》》帰りなよ。ただでさえ、キミん家、厳しいんだから」
「はい。無駄なお気遣い、ありがとうございます」
会釈してから、彼は私を一瞥すると、急ぎ気味に音楽室を後にした。
一体何故、真面目そうな彼がこんな時間まで居残りをしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、椅子を引きずる音がする。夏希は楽譜をピアノに置いて、座っていた。
「しほり、忠告だよ」
心なしか、彼女の声には緊張感があった。
私は黙ってそれを聞く。
「あの子はやめときなよ」
「……どういう意味? 私、別に」
彼女の言葉が私に覆い被さってきた。
「彼の親、特に母親は厳しいから」
「所謂、モンスターピアレンツ、て奴?」夏希は溜息混じりに言った。恐らく彼女は、母親のクレームを喰らったことがあるのだろう。酷く疲れたような顔をしていた。
「実はさ、ついさっきまで福岡くんのお母さんから電話があったのよ」
「どうして?」
「最近、ずっと帰りが遅いんだけど、どういうことなんだ、て」
ピアノの椅子にだらけるように座る。
「そんなのあたしら教員が知るわけないじゃん? 寄り道してるかもしれないしさ。本人が学校から出て遅くなっているんだとしたら、あたしらは探しようもないし」
「まあ、そうよね」
「とは思いつつも、そんなこと言えるわけがない。ただ相手から『何か事件か事故が起きたら責任を負え』だの、『家まで毎日送り届けてこい』だの……最後は『授業料を返せ』て言われるのを受け止めるだけ……無理だよ、もー!」
苛々が募り、彼女は両手両足をバタつかせ、そしてグダッと力が抜ける。相当心身共にやられているようだ。
「先生、て大変なんだね」
「やりがいはあるよ〜」
「それってやりがいって言わないよ」
ツッコミを入れてみるが、夏希は天井を見ながら、前髪を掻き上げていた。
「息子はあんなにいい子なのに……親子とは思えん」
「まあまあ」
「てなわけで!」
夏希はガバッと体を起こし、私を指差した。
「福岡くんにはあまり関わりんさんな。絶っっ対にあの鬼婆がしほりんとこに行くから!」
「鬼婆って言ったらいけないよ」と、私は苦笑した。
その時、外から微かに物音が聞こえた気がした。視線を向けるが、そこには誰もいない。気のせいだったようだ。
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