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次の日は、ニュースで報道されるくらい気温が上がった。エアコンの冷房機能で涼しくなったオフィスで、奈良栄先輩に仕事を手伝ってもらう。
仕事が終わると、私はある場所に来た。
いつ見ても立派な賀翔高校の新校舎。三年前に校舎の建て替えが完了し、長いプレハブ生活も終わった——らしい。
荷物を持った私は、校門前にいた。
眩しすぎるほど若い生徒達が、私の方をチラチラと見ながら通り過ぎていく。含み笑いを見ると、どうにも私が笑われているように思えて居た堪れなかった。
ああ、痛い。視線が痛い。
おばさんがこんなところになんの用なんだよ?
みたいな感じか。
溜息を吐きそうになる直前に、口を片手で押さえる。三十過ぎてから、溜息が多くなった。つい最近、それに気づいてからは、隠すようにはしている。
「早く来ないかなぁ」
溜息が出ちゃうから。
そこに鍵をクルクルと指で回しながら、一人の女性が来た。
「待った〜! しほり!」
元気な声でやって来た彼女は、日野和夏希。音楽教師の彼女は短い黒髪をさらに一つにまとめている。短い尻尾のように見えて可愛い。それを言うと彼女はいつも怒る。
「夏希、もう部活は終わった?」
ハードケースを肩からおろした。
「終わったよ。練習しよっか」
「うん」
私達は音楽室に向かった。
■ ■ ■
建て替えをしていない別館にある音楽室。
そこには、音楽界で有名な人の絵が飾られ、壁側に並べられたオルガンと、黒板の前には立派なピアノ。グレーの絨毯の上には、クッション性の高いふかふかなパイプ椅子が並べられていた。お金がかかっている音楽室には、緑のスリッパに履き替えて入る。
重たいドアを開けて音楽室に入ると、私は組み立てた譜面台に楽譜を置いた。そして、カバンからハンドタオルを取り、左肩に掛ける。ハードケースを開けると三本の筒が照明に当たって光っていた。それを組み立てると、一つの楽器になる。
「音楽室、冷房が効いてるね」
「流石に今日は暑いっしょ。特別だぜ〜?」
悪戯っ子のように、ニヤニヤと笑う夏希。私も口を三日月型に歪めて、「じゃあ、常に特別待遇でお願いします」と笑った。
「んー、これくらいの気温なら、頭部管はそこまで抜かなくていっか」
長さを調整したフルートを構えて、一通りのスケールを吹く。指は川の流れのように滑らかに動かす。音程がカチカチと嵌るように、どの音も上擦らないように息のスピードに注意する。
「口の状態も、よし」
タオルで唇を拭いた。コンディションは悪くない。
次は音を伸ばす。ロングトーンだ。
「音の伸びも悪くないね」
すると、夏希はシ♭の黒い鍵盤を押した。
私も同じ音を伸ばす。夏希は音の揺れがないことを聴き取ると、首を縦に振り、無言のままオクターブ上の同音を鳴らす。それに合わせて、私は半音ずつ素早く駆け上がり、ピアノに指定された音を伸ばした。
「ピッチ、悪くないね。ただ、ちょっとぶら下がり気味」
「んー、じゃあ、気持ち、頭部管入れとくか」
ぶら下がり気味という意味は、音程が少し低いと言っている。私は唇を乗せるリッププレートが付いた頭部管を少しだけ入れた。どれくらい音程がずれているかで、頭部管を抜いたり、入れたりするのだが、度合いは経験の感覚だ。
人によっては、ペンで書いたり、マニキュアで印を付ける人もいるようだが、吹き込み具合や、気温、奏者のコンディションで、簡単に音程が変わるので、私は無駄だと思っている。
もう一度音を鳴らすと、「吹き鳴らしたら、ピッチが上がるだろうから、そん時はまた調整して」と肯定も否定もしなかった。夏希がそういう時は、音程が合ってるということ。私は安心して、管に息を通した。空気の音がする。この風の音が、〝私の音楽が始まる〟瞬間。
当たり前のように、夏希は鍵盤に指を置く。
そして、私は大きく息を吸う。
息を吸うタイミングに合わせて、彼女も息を吸うように僅かに鍵盤から指を離した。
フルートを一瞬だけピンと上げ、すぐに戻す——これがスタートの合図。
同時に二つの音が鳴る。
とんでもない速さの音の連なり——連符は音を降りていく——『熊蜂の飛行』
リムスキー=コルサコフのオペラ「サルタン皇帝の物語」中にある一曲。熊蜂の群れが白鳥を襲い、王子がその白鳥を救うシーンに使われている。蜂の描写そのもののような曲で、テンポを上げておかないと蜂の生々しさが活かせない。難易度の高い曲。
一分ほどの短い曲だが、少しも気を緩めることはできない。一気に吹き切るつもりで吹く。
一つの音も溢さないように、転けないように。
連弾のようにフルートが四小節の連符を吹いた後は、同じようにピアノが四小節の連符を弾く。メロディだけを聴けば、繋がっているようである。これが熊蜂の来襲を思い起こさせるのだ。
私はピアノを焚きつけるように吹き切った。ピアノも負けじと弾き切る。
蜂の羽音——二つの音を繰り返す。上擦らないように、ぶら下がらないように。音は鳴っても、音程がおかしければ羽音には聞こえない。指をテキパキと動かす。少しでも指が滑らかに動かなければ、音は転ぶ。
時折、夏希と目が合う。
その瞬きよりも短い時間で、お互いに考えることがわかる。
拍子の表を合わせろ。
拍子の裏も合わせろ。
わかってる。少しのズレが曲の崩壊を招く。テンポの早いこの曲で、一度ずれてしまえば立て直すのは容易ではない。その末は——空中分解だ。
だから、警告する。睨みつけるような視線で。
くそっ。
他人が聴いても気づかないような小さなズレ——僅かに私が遅れている。
無理に早くしても空中分解。
遅いままでも空中分解。
キタ!
休符。そこで立て直す。
だが、休符は〝音がない〟だけでも、〝休む〟だけでもない。音楽は続いてる。音がなくても、そこに音楽はある。
最後の休符で、一気に息を吸い、フルートを少し上げる——ファの音と共に楽器を下げた。夏希、私に合わせろ!
フルートとピアノの八分音符をピタッと合わせる。スタッカートを硬めの音で吹く。そのメロディは前のフレーズでピアノが弾いているので、それを壊さないように、むしろ活かしてやらねば。
フレーズごとに段々音域が高くなる。少しずつ盛り上げていく。息を込めて、でも、音程が上がらないように。ピアノとズレてしまうから。
それをわかっているのか、夏希は首を下にクイクイと振る。
まだ音程を下げろって?
これでも下げてるつもりだっつーの!
音程に気が向きすぎて、一番の盛り上がる場所が疎かになってはいけない。
クレッシェンドをかける。段々と音を大きく。テンションも上げていく。
額にじんわりと汗をかく。
暑い。暑い暑い暑いッ。
フォルテのフレーズを吹き切った瞬間のピアノのフレーズ。音域も下がっている為、音程が下がりやすい、夏希に睨まれながら音程を上げる。
終わりが見えてきた。
それに合わせてテンションも落ち着いてくる。比例して、冷静に対処するものも増える。音程とピアニッシモ。
夏希と目を合わせながら、八分音符で曲を締める。一つ一つ音の頭を、形を合わせる。二つの音を合わせた。最後の音まで。
私は楽器を下ろす。
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