未来を紡ぐ音
恋の音とは、どんなものかわからない。
恋に落ちた音も、私は知らない。
でも、私が恋した音は知ってる。
show先生の音は初恋。
いま、恋してる音は、優しい音。
水色に澄んだ秋の空。
昨日まで鳴いていた蝉の声が消えた。街路樹の葉が少しずつ赤や黄に色を変えていく。柔らかな日差しが秋の到来を思わせる。
九月二十三日。
湊くんは学校を休んだ。元から休む予定だったらしく、その理由を訊いても答えてはくれなかった。
私達は、夏希が入院している病室に来た。
彼女は思った以上に元気で驚いた。
本人は当分ピアノは弾けないと笑う。広範囲の火傷は治ってきているが、完治には時間がかかるらしい。指も滑らかに動かないので、長いリハビリを覚悟しているとのこと。
だから、これからも湊くんとデュオを組んでくれとお願いされた。彼なら信用できるからと。私を任せられるからと。
それから夏希に頼まれて、一旦一人で病室から出た。
売店で買った小説。それを持って病室に入ろうとドアに手を掛けた時、室内の会話が訊こえて、思わず手が止まった。
「福岡」
「なんです?」
夏希と湊くんの声。
「しほりのこと、頼んだよ」
「……」
「しほりさぁ、心が子供のまま止まってんだよね」
「え?」
「しほりの音楽のことがきっかけで両親が離婚したの、知ってる?」
「いや」
「その原因が自分のせいだって思い込んでてね。親権は母親になって、大好きな父親とは別々になってさ。たまに外で父親に会ってたみたい。そこで壊してしまった楽器の話をしたら、二本目の楽器を買ってくれたらしいの」
「それが、会社の先輩に壊されたフルートですか」
「そう。ただでさえ両親の喧嘩の原因になったのは一本目の楽器なのに、更に二本目の楽器だもん。すぐに母親にバレちゃって大変だったみたいよ。でも、あの子、なにも言い返さなかった。自分のせいで喧嘩して、離婚するしかなかったんだって……我慢して我慢して。お父さんに甘えたら、また迷惑をかけるかもしれないって、更に我慢してさ。結局、癌で亡くなったんだけど、それも苦労かけた自分のせいだと思ってるみたい。大人になってから、甘える相手を恋人に求めるようになってしまった」
私の過去。湊くんに話してない、黒い過去。
「甘えすぎて、呆れられて、別れて」
言わないでよ。最低な女だって、思われたくないのに。
「心が成長できずに時間だけが過ぎて。でも」
「『でも』?」
「演奏してる間だけは、年相応の顔してさ。この子から音楽だけは取り上げたら駄目だなぁ、て」
優しい声。ずっと心配してくれてたんだ。
ドア一枚隔ていても、夏希の優しさがわかるよ。
「こんなこと、生徒の君に頼むのは間違ってると思うんだけど」
それは真剣な声だった。
「君さえ良ければ、あの子を守ってあげてよ。すぐに悪い虫がつくんだよね」
ははは! と陽気に笑う夏希。
「君なら任せられる。あたしは頑張ってもこのザマだから。女のあたしでは限界がある。だから——」
「無理ですよ」
その一言が、心にグサリと突き刺さった。
なんとなくわかってた。いままで言われてきた男性の言葉。見えていた態度。
それが高校生である彼が〝そんなわけがない〟わけがない。
だから涙も出ない。悲しみもない。ああ、そうだよね。て、思うだけ。
脚がその場から遠く。少しずつ、少しずつ。訊いていられないと、心が悲鳴をあげているから。
ドアに背を向けた時だった。
ピィィ……ィィ……
僅かな隙間が開いていたドア。
そこに風が通った。風が鳴いた。
鳥の鳴き声のような音が、霞がかかったような頭の中を晴れ晴れする。
「あ……」
風が待ってと呼んでいる。そう訊こえた。
脚が自然止まった。逃げようとしていた醜い感情を風が攫ったかのように。
ドアが開く音がした。
「しほりさん?」
背中で湊くんの声を受け止める。
「……」
どんな顔をすればいいのかわからなくて、振り返ることができなかった。
「そんなところにいないで、中に入りませんか?」
優しい言葉が針のように、柔らかい心に突き刺さる。
「私……一人で、大丈夫だよ!」
そう言ってからニッコリと笑顔を作って、くるりと身を翻した。明るく振る舞う。
「だからっ」
「嘘」
静かな声だった。そして、真剣な眼差しだった。それに圧倒されて、笑顔が消える。口も、すぐに動かなかった。
「……嘘じゃないよ」
「しほりさん、嘘をつく時は絶対に人の目を見ないですよね」
そう言われて、初めて私の癖を認識する。
「もしかして……俺が『無理ですよ』て言ったの、訊いてたんですか?」
心臓が反応する。これ以上誤魔化せない。誤魔化そうとすればするほど、心臓が破裂してしまいそうな気がした。
「……ごめん、訊いた」
すると、訊こえてくる溜息の音。そして、息を最後まで吐ききると、病室に向かって口を開いた。
「先生、そろそろ俺達帰ります」
「え? ちょっと湊くん?」
急に思ってもいなかった発言に慌てる。自分ができる世話は全て終わったが、もう少し夏希の様子を見てから帰るつもりだったから。
だが、病室にいる彼女は元気そうな声で返事をした。
「はーいよー。気をつけて帰りなねー」
私は慌ててドアに駆け寄る。
「夏希!」
ドアに手を掛け、中を覗くと、ベッドに横たわる夏希。肌にガーゼを当てているが、ほとんどガーゼは外されている。その赤い跡が、私の罪を見ているようで目を背けたくなる。
「ほんとに」
「ストーップ! 真面目だなぁ、相変わらず。もう何回も何百回も『ごめんなさい』は訊いたから。お腹いっぱい」
「……でも」
「それよりもさ、しほりはもっと素直になれば?」
「素直……?」
「福岡も苦労するよね」
突然ふられた彼は苦笑する。
「『一生そばにいて』とか言えば良いのに。シラフでも」
「ゴフッ」
最後の一言に、咳き込む私。
「酒が入れば素直。入らなければ天邪鬼。大丈夫じゃないくせに。どーせ一人になった途端に、すぐ泣くんでしょ?」
「……」
図星すぎてぐうの音も出ない。
「まあ、あたしの知ったこっちゃないわね」
「わた、私はッ——」
「ほら。背中を押してやるから」
穏やかな目。彼女の眼差しを受けて、ちらりと彼を見遣る。
「湊くん」
「本当に無理ですよ」
「え……」
「今更離れろって言われたって、無理な話ですから」
むしろ、すぐ悪い男に捕まるから、目が離せないですよね。
彼はそう言って笑った。
「……そ、そっち?」
「はい」
「…………もう帰る!」
恥ずかしい。変に勘違いした自分が。そして、本当の言葉の意味を訊いて、顔を赤くせずにはいられなかった。
病室に置いたカバンを手に取った時、彼女は笑った。
あまり大声をあげて笑うと皮膚が痛いらしく、かなり抑えているようだが、それでも「痛い痛い」と漏らしながら、体を震わせていた。
「夏希! そこ笑うところ⁉︎」
「随分仲が良くなったもんだなって思ってさ」
「はい?」
「福岡が——」
「余計なことを言わないでくださいね」
湊くんの笑顔の圧に、夏希が負けてる。そんなことがあるんだなぁと目を半眼にして眺めた。
「じゃあ、帰りましょうか」
彼は私の荷物の入った紙袋を持つ。
「先生、お元気で。しぶとく頑張ってください」
「嫌味を含ませんな」
彼女の言葉を背中で受け止め、湊くんは病室を出て行く。私は彼を追いかけながら、ドアで立ち止まると振り返った。
「じゃあね。また退院の日に来るから」
「アンタも無理しないでね。福岡とお幸せに!」
ニヤニヤと笑う夏希に、赤面しながらも反論する。
「変なふうに言わないで! じゃあね!」
急ぎ足で病室を出る。彼は遠くまで行ってしまっただろうか。
慌てて廊下を見回すと、すぐそこで待っていた。
彼は私の歩くスピードに合わせて歩いてくれる。いつもそうだ。待っていてくれるし、なにも言わずに荷物を持ってくれる。
「湊くん」
「はい」
普段と変わらない返事。
「今度は『魔弾』を吹きたいと思うんだけど」
「『魔弾』? しほりさんが言ってるのは『魔笛』じゃないですか?」
「あれ? 違ったっけ?」
「違いますよ。魔弾は誰かが歌ってる曲ですよ」
そんな他愛もない言葉を交わせるようになって、やっと湊くんの隣に立てた気がする。
「じゃあ、『魔笛』を吹こうよ。『マリアージュ』のマスターが演奏してほしいって、前に言ってたから」
「いやいや、あの喫茶店で演奏するような曲じゃないですから。ジャズとかよくないですか?」
「ジャズとはどうやって吹くのでしょう……」
「しほりさん……」
呆れ顔で私の顔を見つめる湊くん。
私は、この人と、この人の音と共に歩みたい。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。
これにて完結でございます。
本当に長い間お付き合いいただき、感謝感激です。
音楽というジャンルは難しいなぁと昔から思っていました。その頃は短編を書くので精一杯でしたが、今回は何とか長編を書き終わることができたので、少し進歩したのかなぁ。
次回の長編に向けて頑張りたいと思います。




