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頭に浮かぶキスの二文字。
あまりにも急な出来事に、息が止まる。
頭の中の思考が動き出したのは、遠ざかって行く足音が聞こえた時。そして——
「あ、やっぱりストーカーだったみたいですね」
冷静に言う彼の言葉。
そりゃそうだ。寸止めでキスもなにもしていないのだから。そう、なにも。本当になにも。
「そ、そないですか……」
関西弁のような言葉を吐くのが限界だった。
私の顔は赤く染まり、お湯を沸かせそうなくらいに熱い。あんなに顔を近くにして、恥ずかしいという感情が湧かないのだろうか。私はこんなにも異性を意識しているというのに。
そもそも私だけってこと?
一回りも年下にドキドキする私がおかしいのか。そうか、向こうからしたら、私なんておばさん。異性を意識する対象外っていうわけですね。
そう思うと楽。
……楽か?
いや、なんか無性に腹立つ気もする。しかし、そんなことよりも、得体の知れない恐怖が遠かったのだと実感すると、ズルズルとその場に崩れるように座り込んだ。
「腰が抜けて……立てない……」
「え?」
彼は非常に驚いた表情を浮かべた。そりゃそうだ。悪しき敵は消え失せたというのに、後になって座り込んだまま、立てないのだもの。困ってしまうだろう。
だが、どうしようもない。何度も立ち上がろうとするが、脚に力が入らず、尻が浮かない。——それに、
「こ、怖かった」
まさか自分の身にこんなことが起きるなんて想像もしていなかった。もっと美人さんを狙えよと声を大にして言いたい。なんで私なんだよ、本当。
「家まで送りますよ」
彼はそう言った。ニッコリと微笑む彼は「ほら、立って」と優しく立ち上がらせてくれた。
「ありが——」言葉を止める。
脳裏に浮かぶ呪いの言葉。
『甘えるなよ』
それを言った元彼とは何年前に別れただろう。いや、それ以上なにも思い出したくもない。でも、昔の言葉が、いまの私に呪いをかけてくる。
「こんなおばさんを助けてくれて、ありがとう。ここでもう大丈夫だから!」
「『おばさん』……?」
彼の目を見られないまま、また一歩、また一歩と歩みを進めて行く。もう大丈夫。自分の足で歩けるから。
本当はこのまま一人で帰りたくない。またさっきの人が来たらどうしよう。私、力が無いから、振り解くことも、逃げ切る自信もない。予測不可能な未来に不安が溢れてきた。
「…………」
私はいままで付き合って別れた原因が自分にあるのを知っている。年齢にそぐわないほど子供のように甘えん坊で。
『もっとしっかりしろよ。もう大人だろ』
とか、
『甘え過ぎ、ウザい』
とか言われたっけ。
甘えたがりの私が年下とうまくいくはずもない。
彼の優しさだって、いまだけのもの。絶対に距離を縮めたらダメだ。
ちょっと人に優しくされただけで、すぐ甘えたくなってしまう自分が恨めしい。こんな自分なんていなくなってしまえばいいのに。
涙が溢れそうになる。そして、漏れそうになる嗚咽を、強く下唇を噛んで止めた。
「大丈夫、きっと、大丈夫」
強く目を瞑る。何一つ溢してはならない。言葉も、気持ちも。
「帰りましょう、一緒に」
「え——」
突然すぐ傍から聞こえた声に、目を開けた。
そして、右手をそっと握る、彼。私の顔を見ても嫌な顔をせずに、
「怖かったですね。こんな時は甘えていいんですよ」
欲しかった言葉。求めてた言葉。
「あ、俺が年下だから、嫌ですか?」
困ったかのように彼の表情は陰る。
「こんなおばさんに甘えられて、そっちこそ嫌じゃないの?」
目頭から溢れた一筋の涙を指で拭っていると、彼は微笑んだ。
「『おばさん』じゃないですよ」
私は彼の手に引かれて、歩き出した。男性らしい大きな手。いまの私には、握り返す勇気がなかった。
もし好きな人ができた時、いつまでもこの手を離さずにいられる方法を、誰か知りませんか。
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