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最後を飾るのは、ビゼー作曲『カルメン幻想曲』
昨日湊くんが突然楽譜を書き換えた、あれだ。
ラストに入る前に着替えをする。
私はカルメンをイメージした、赤いドレスに身を包み、湊くんはネクタイの色を赤に変えただけで、基本的に変わらない。だが、スーツの胸元のポケットには黄色い花が挿さっていた。
恐らくオペラのカルメンの第一幕にある、カルメンがドン・ホセにアカシアの花を投げつけて去るシーンを意識しているのだと思う。彼は管に温かい息を送っていた。
「花……?」
そっと指先で触れてみると柔らかい。カサカサとしておらず、肌触りが良かった。顔を近づけると独特の生臭さもある——それは造花ではなく、本物だ。
「ホセをイメージしてるんでしょ?」
「はい」
「いつの間に準備したんだか」
笑みが溢れる。
そして、ふっと顔を引き締めた。
細部まで手を抜かない彼だからこそ、最後の演奏をする前に言いたいことがある。
「湊くん、お願いがあるの」
「なんでしょう?」
「すぐに終わっちゃうけど……いまから演奏が終わるまで、敬語はなしでお願い」
「敬語を?」
「〝同じ舞台〟に立ってほしいから」
同じ舞台へ。
それは目の前にあるステージという意味ではない。同じ場所に立つ演奏者にしか感じられない魂のいる場所——精神的な舞台のようなもの。
どれだけ一緒に音を出して、ぴったり揃っていたとしても、〝感覚〟が違う人はいる。それを熱量というのか、心構え、それとも雰囲気と説明したら良いのか。全てをひっくるめてそう呼ぶのかもしれない。
一緒に音を出していても、一緒に演奏をしている気がしないのは嫌だった。
最後の曲はお客さんにとって、この演奏会の印象、評価になるといっても過言ではない。だから、絶対に嫌だった。
「湊くんは徹底して伴奏……縁の下の力持ちをしてくれてる。凄く吹きやすい。『さくら』ですっごく実感したの。でも」
力強い眼差しで湊くんを見遣る。
「それじゃあダメなんだってわかってる。この曲は〝同じ舞台〟に立っていなきゃって」
彼は悪戯っ子のような目元にするが、すぐに一転した。
「わかった。じゃあ、名前も〝しほり〟って呼んでいい?」
あまりにも素直に応えてくれたから、少し心臓がドキリとする。いや、急に下の名前で呼ばれたからかもしれない。聴き慣れていないから。
私は首を縦に振った。
「でも、〝同じ舞台〟に立つかどうかは、しほりがどれだけ魅せてくれるか、かな」
向けられたものは、挑戦的な眼差しだった。
「ドン・ホセも最初はカルメンに興味がなかった。だから、惚れさせるくらい俺に魅せてくれないと〝同じ舞台〟には上がれない」
そう言うと、右手を差し出してきた。
「エスコートして。しほり」
ドクン
心臓が大量の血液を運ぶ。
その口ぶりに、その視線。完全に挑発されている。だからこそ、私は——
「任せて」
その手を握る。
「湊、私の本気を魅せるから。必ず〝同じ舞台〟に立たせてみせる」
自然と目つきも鋭く、声が低くする。それを見ても嫌な顔をせずに、彼は楽しそうに笑い、そして顔の筋肉を引き締めた。
アナウンスが入った。観客席の灯りは反転し、ステージは一気に明るくなる。
本物のカルメンを、魅せてあげる——
■ ■ ■
ステージに上がると、光が二人を照らす。
衣装が変わった私達を見て、会場が少し騒ついた。
薔薇のような真っ赤なドレスの女と、黄色い花をポケットに挿した男——カルメンとドン・ホセだと、クラシック好きならわかる人もいるだろう。先に入った私は観客の前に出た。
舞台でも始めるかのように、大袈裟に右手を差し出し、湊くんにこの手を取れと言葉なく、促す。だが、彼は首を横に振った。口元で薄笑いをすると、一人先に譜面台より後ろに立つ。
見事にふられたなと視線を低くしてから、私も楽譜を前に立った。だが、そこに悲しみはない。あるのは、諦めない感情だけ。自由の象徴ともいえるカルメンなら、きっとメソメソ泣いて、全てを受け入れるわけがない。
これら全て即興の演技。スタッフにも打ち合わせはしていない。大変驚いたと思う。合わせてくれた湊くんには感謝だ。
彼はゆっくりと楽器を構える。それに合わせて私も構えた。
Allegro moderato、アレグロとモデラートの中間の速さから始まる。
最初の旋律は湊くんが奏でる。まだカルメンに惚れていなくても、魅力に気づいているドン・ホセのように。
その心を更に掻き乱すように、私は途中から同じメロディを低い音で添えた。
さあ、私と一緒に踊ってよ。歌ってよ。きっと楽しくなるわ。
まだこの手を取らないの?
それなら——
メロディの音域が低く、不穏な空気へと一転。
私のソロだ。彼は長休符に入り、一度楽器を下ろす。
その間、歌劇をするように、私は彼を見つめる。熱く、溶けてしまいそうなほど熱く!
私は何度も目で語りかけると、彼はそれに応えるかのようにニッと笑い、楽器を構えた。
私のメロディを支えるように彼は伴奏を演奏する。そして、テンポがModeratoになり、一気に明るい雰囲気に変わった。
軽く、優美にという指示に合わせ、長く続く連符、十六分音符に指がもつれそうにならないように、ぐっと堪える。
意識に意識を重ね、テンポが速くなりそうになる前に湊くんを見遣る。彼の指、彼の体の動きを見て、伴奏に合わせた。次第に強く音を鳴らし、なかなか答えを出さない彼を急かすように追い立てていく。
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湊はしほりのことを呼び捨てにすることにしました。
しかし、しほりは湊くんと呼んでます。心の中でですが。それは恥ずかしいからです。
じゃあ、湊は恥ずかしくないのか? 答えは……違います。




