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それは低いメロディから始まる。ゆっくりな分重くならないように、そして遅くなりすぎないように、一人の時を楽しむ。美しいのに、どこか寂しい。心が苦しくなる。
湊くんも照明に照らされて輝く楽器を構えた。私と目が合う。
おいで。共に歩もう。
そう言わんばかりに体で合図を送り、湊くんは私のブレスに合わせる。
メロディは次第に音域が上っていき、音楽は広がっていく。
広大な旋律は、樹齢千年を超えるような大きな桜を思い起こさせる。どっしりと構える桜を眺めると、それは壮観な光景で胸を突き上げてくるものがあった。
日本人の魂を刺激する目には見えないもの。普段自覚しないその魂が震えるように。
ダイナミックに吹く箇所——桜吹雪が舞う。数えきれない、無数の花弁が風に吹かれて舞う。
太陽の光が心地よいのか、それはゆったりと流れていく。
二人の音は重なり、小さなうねりもない、澄んだハーモニー。呼応し合う音の響きに胸が熱くなる。ゾワッと、恐ろしいと感じるくらいに。
この曲を湊くんと一緒に吹けてよかった——体の底から湧き立つ、そんな歓喜があった。
息が合う。
音が共鳴する。
そこには何人たりとも入ることはできない。
私達の音楽——二人で織りなす桜の世界が。
私達は歌う——さくらのうたを。
響け、この歌よ。
響け、生きて感動を得た喜びよ、誰よりも別れを見た憂いよ、未来の幸せを願う幾万の想いよ。
桜はいまも花弁の風を見つめている。
湊くんの低音が会場を響かせるその上に、私は高い音の旋律を乗せる。
二つの音が交わるたびに、心が苦しくなる儚さが生まれた。手に届きそうで届かない。桜の花びらは手をすり抜けていく。
彼の目は切なそうに私を見て、私も悲しみを抱いて彼を見つめ返した。
どんな曲にも終わりがあり、この曲にも最後が見えてくる。
最後の音をヴィブラートをかけながら伸ばし、合図で一緒に終わる。ぶつりと切れないように、歌を壊さないように、十分すぎるほどの余韻を残して。
私達は見つめ合ったまま、暫く楽器を構えたままだった。そして、会場もまた静かなままだった。
会場に作られた〝世界〟を壊したくないかのように、音は何一つしない。
躊躇うようにゆっくりと楽器を下ろす。恋人達が離れたくないのに離れなければならないような、そんな心苦しい気持ちで。
息を止める。
音はない。
でも、堪らなくその無音の時間が好きだった。曲を全力で吹き切り、息が上がっているにも関わらず、その乱れた呼吸を押し殺す、その時間が。
静かな会場に、ぽつりと手を叩く音がする。それからどっと数えきれない拍手がどこからともなく湧いた。
その大きさに驚いていると、「しほりさん」と小声で促されて、一礼する。
本番で、こんなに曲に没頭したのは初めてだった。曲そのものが綺麗で、こんなに感情移入したのも初めてで。更に、夏希よりも私にリズムも表現も細部まで合わせてくれた湊くんだったからこそ。
心臓がドキドキする。高鳴りが止まらない。
楽しい。楽しくてたまらない。顔がにやける。まずいと思っていても、顔が勝手ににやけていた。
「ソロ、頑張ってください」
湊くんはそっと言って、譜面台を持って舞台袖にはけた。
■ ■ ■
次は、私のソロ——『フラウト・トラヴェルソのためのソロ・ソナタ』
元よりピアノ伴奏がない無伴奏の曲。その曲はどうやって吹くのか。正直なところ、無伴奏だからといってあまり大差はない。伴奏がなくても、まるであるかのように演奏するだけ。難しく考える必要はない。
リズムさえ崩れすぎていなければ、自由に吹けばいいと思っている。
無伴奏だからこそできる表現もある。自分の描く音楽を、あらゆるものを使って表現すればいいのだ。
空間に自分の音だけで響かせることが、どれだけ至福なことか。失敗も誤魔化しもできない緊張感の中、全ての人が自分の出す音だけを聴く。考えるだけでも、堪らなく血が滾る。
低いラの音符の上に、逆の黒三角形——スタッカティッシモがあるので、四分の一の長さで鳴らすと指示が書かれているわけだ。更にそこの音量はf。次にあるオクターブ上のラからはp。
そのフレーズをどう歌うか。このメロディは、小節の始めからではなく、途中から始まる。そこを間違えたら、全く異なる曲に変わる。
何故そんな指示の記号があるのか。
他の曲に比べて、強弱記号が多い。だから吹き分けに意味がある。
八分音符のメロディは物悲しく小川が流れるように。
十六分音符の下がるメロディは落ち着くように、上がるメロディは盛り上がるように。
感情が昂ぶるように吹いてみせる。だが、その裏には哀愁がある。
曲名にある、フラウト・トラヴェルソとは何なのだろう。調べたところ、人名かと思ったが、いま吹いているフルートの前身となった横笛のようだ。銀などの金属製の楽器ではなく、木製の楽器。小学校で使うリコーダーを横笛にした感じで、音色もそれに近い。
だから、私は音色を少し変える。だが、show先生のように変えられないので、気持ち程度だ。
アナウンサーが楽曲を紹介し終えたところで、もう一度楽器に息を吹き込む。
ここからは私だけの世界。
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