表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風のフルーティスト  作者: 蒼乃悠生
第一章 いろんな人に出会ったり
3/42

1-2


   ■ ■ ■



 カバンと長細いハードケースを肩から掛けて、慣れた夜道を歩いていた。少しずつ夏は近づいている。まだ夜は涼しい風が吹くが、日中は蒸すことが増えてきた。

 残業後、喫茶店には行かずに、〝練習〟をし終え、帰宅する頃には、二十三時。

 一人暮らしをする私は、アパートに向かって帰っていた。最初、夜に帰宅するのは怖かった。でも、街灯が多く、道が明るかったことと、この生活に慣れてしまったこともあって、いまは怖いと感じない。そして、もう一つ理由がある。

「はー! 今日も疲れたなぁ。書類を整理すればするほど仕事が増える無限増殖……もういっそのこと整理なんてしない方がいいような気がする」

 独り言である。例え自分だろうと、人の声ほど落ち着く音はない。それにしても随分と独り言が増えた。本日も絶好調。歳かな。

 鼻歌を歌っていると、不意に思い出す。

「そういえば、お母さんから連絡が来てないなぁ。珍しい」

 あんなふうに電話を切ったのに、スマートフォンから、母の着信やメールの受信音が鳴っていない。流石にもう呆れたのかな。言い過ぎたかもしれないと思いながらも、母の小言を聞かずに済むのは、なんて気分が良いのだろう。

 軽快に、コツコツとヒールの音を鳴らしながら夜道を歩く。そんな私を生温い風が追い抜いていった。

「?」

 普段から人通りの少ない道。でも、なにかおかしい。背後から足音がする。いや、きっと気にしすぎだ。住宅地に誰かいても、全くおかしいことではない。

「……」

 踵を引きずるような音——男だろうか。

 そう思った瞬間、ぞっと背中に悪寒が走る。いまは六月。太陽のない深夜は涼しいが、寒いと感じることは少ない。それなのにいまは、体中の血が凍るような寒気に襲われていた。

 私は、目に見えない恐怖心を振り払うかのように首を横に振った。

 違う。違う。あの足音は違う。誰でもない。ただの通行人の一人。

 そう思い込む私を嘲笑うかのように、少しずつその足音は近づいてくる。音が大きくなっていた。

 怖い——

 そう感じた後すぐに走り出していた。無我夢中で走っていた。すると、後ろの足音も速くなり、付いて来るではないか。

 おかしい。私が走ったら、後ろの人も走るってやっぱりおかしい。

 ストーカー?

 通り魔?

 わからない。でも、全部怖い。

「ちょ……なんでっ……付いて、来るの……⁉︎」

 走る。走る。もっと走る。

 でも、後ろの人は私より速かった。突き放すことは叶わない。高いヒールを履いていたのが、そもそも間違いだ。早く走ること自体が、まず不可能。謎の気配が背後まで迫ってきていた。

「もう、ヤダ!……ヤダアア!」

 ガシッと掴まれる腕。

「きゃああああああああああああ‼︎」

 怖い怖い怖い。

 ガッシリと掴む手は大きくて、いくら振り払っても、それは離してくれない。

 今度は渾身の力で腕を振った。その反動で体はぐらりと傾く。

「あ……!」

 倒れる——そう思った時、背中に腕を添えられた。一体なにが起きているのかわからず、瞬きを繰り返す。

「大丈夫?」

 抱えられるように体を支えてくれるのは、若い男性。街灯に照らされた髪は茶色で、まだ幼さが残った顔。格好いいというより、可愛らしい人。しかし、そんなことを冷静に考えられるわけもなく。私にとって、彼は犯罪者だ。

「イヤアアアア!」

「ちょちょちょ、待って待って。落ち着いて」

 ジタバタする私に苦笑する彼。

 私、笑われてる?

 様子が明らかにおかしいと気づき始めた私は、動かす手足を徐々に大人しくさせていく。それを見計らって、彼は制服のポケットからなにかを取り出した。

「はい、これ。落としましたよ」

 一台のスマートフォン。

 よく見ると、白と黄色をベースにした色合いに大きな向日葵のオブジェが付いたケースカバー——私のスマートフォンだ。あれ、おかしいなと思い、カバンやポケットの中身を確認するが、どこにもない。

「あれ」

 練習が終わってから、スマートフォンで着信やメールの確認をして、カバンに入れたつもりが、実は入っていなかったのかもしれない。そりゃあ、母からの連絡が来てないと思うはずだ。手元にはないのだもの。

「あ、ありがとう」

 そんな親切な人を犯罪者と思い込み、逃げていた。更に、勝手に転けそうになったところを助けてもらっていながら、尚も逃げようと暴れた。なんと失礼な人間なんだろう、私は。そんな反省の意を込めて「いろいろごめんなさい」と謝罪し、頭を深々と下げた。

 そして、彼が制服姿なのを今一度思い出し、顔を上げる。

「学生、さん?」

「はい、賀翔(がしょう)高校です」

 まだ混乱しているのか、頭の中では「合唱?」「ガチョーン?」「ガチョウ?」と辻褄の合わない単語が流れる。しかし、ピンと思いつき、いままで出てきた言葉を払い捨てた。

「えっと、あの頭の良い進学校の?」

「俺はみんなほど頭良くないですけどね」

 彼はそう照れ臭そうにして立ち上がると、右手を差し出す。なかなか手を出そうとしない私の手を握り、立ち上がらせてくれた。紳士だ。

「大丈夫ですか? 痛いところはあります?」

「いや、ないです。心配してくれてありがとう」

 恥ずかしい。異性にこんなふうに優しくされたことがなくて、免疫がない。俯き加減でいると、彼は「少し付き合ってもらえますか?」と言うと、私の手を取ったまま歩き出した。

 訳がわからず、そのまま彼について行く。私が住むアパートから遠ざかって行くのに気づき、思わず声を掛けた。

「あの、ちょっと」

「まあまあ」

「『まあまあ』って……私の家はそ——」

 私の家はそっちじゃないと言い掛けた時、彼は唇に人差し指を添えた。「シー」

 そして、後ろを気にするように視線を向けていた。

「厄介な人に目をつけられたようですね」

 その言葉が示すように、私達を尾行するように付いて来る影。その気配に、私はようやく気づいた。

「誰……?」

 格段美人なわけでもなく、モテる要素は持ち合わせていない。誰かに恨みを買った覚えも、売った覚えもない。もしかして、意識しないまま誰かを傷つけていたのか。

 いくら思い返してみても、記憶がない。奥底からじわじわと滲み出て来る恐怖心が私を襲った。指先が震える。思わず、彼の手を離し、立ち止まってしまった。足がガクガクと震える。

「ごめ、ごめんなさい」

 無意識に、彼に謝っていた。

 すると、彼も足を止めて、私に歩み寄る。目に見えない敵を睨みつけながら。

「お姉さんが謝る必要はありませんよ」

 優しい声。私を落ち着かせるように、その眼差しも柔らかかった。

「失礼します」

 そう言って、柔らかな手つきで、私の後頭部を支えて、もう一方の手で輪郭を撫でるように添えた。近づいて来る顔——ああ、知ってる。これって、キスだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ