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カバンと長細いハードケースを肩から掛けて、慣れた夜道を歩いていた。少しずつ夏は近づいている。まだ夜は涼しい風が吹くが、日中は蒸すことが増えてきた。
残業後、喫茶店には行かずに、〝練習〟をし終え、帰宅する頃には、二十三時。
一人暮らしをする私は、アパートに向かって帰っていた。最初、夜に帰宅するのは怖かった。でも、街灯が多く、道が明るかったことと、この生活に慣れてしまったこともあって、いまは怖いと感じない。そして、もう一つ理由がある。
「はー! 今日も疲れたなぁ。書類を整理すればするほど仕事が増える無限増殖……もういっそのこと整理なんてしない方がいいような気がする」
独り言である。例え自分だろうと、人の声ほど落ち着く音はない。それにしても随分と独り言が増えた。本日も絶好調。歳かな。
鼻歌を歌っていると、不意に思い出す。
「そういえば、お母さんから連絡が来てないなぁ。珍しい」
あんなふうに電話を切ったのに、スマートフォンから、母の着信やメールの受信音が鳴っていない。流石にもう呆れたのかな。言い過ぎたかもしれないと思いながらも、母の小言を聞かずに済むのは、なんて気分が良いのだろう。
軽快に、コツコツとヒールの音を鳴らしながら夜道を歩く。そんな私を生温い風が追い抜いていった。
「?」
普段から人通りの少ない道。でも、なにかおかしい。背後から足音がする。いや、きっと気にしすぎだ。住宅地に誰かいても、全くおかしいことではない。
「……」
踵を引きずるような音——男だろうか。
そう思った瞬間、ぞっと背中に悪寒が走る。いまは六月。太陽のない深夜は涼しいが、寒いと感じることは少ない。それなのにいまは、体中の血が凍るような寒気に襲われていた。
私は、目に見えない恐怖心を振り払うかのように首を横に振った。
違う。違う。あの足音は違う。誰でもない。ただの通行人の一人。
そう思い込む私を嘲笑うかのように、少しずつその足音は近づいてくる。音が大きくなっていた。
怖い——
そう感じた後すぐに走り出していた。無我夢中で走っていた。すると、後ろの足音も速くなり、付いて来るではないか。
おかしい。私が走ったら、後ろの人も走るってやっぱりおかしい。
ストーカー?
通り魔?
わからない。でも、全部怖い。
「ちょ……なんでっ……付いて、来るの……⁉︎」
走る。走る。もっと走る。
でも、後ろの人は私より速かった。突き放すことは叶わない。高いヒールを履いていたのが、そもそも間違いだ。早く走ること自体が、まず不可能。謎の気配が背後まで迫ってきていた。
「もう、ヤダ!……ヤダアア!」
ガシッと掴まれる腕。
「きゃああああああああああああ‼︎」
怖い怖い怖い。
ガッシリと掴む手は大きくて、いくら振り払っても、それは離してくれない。
今度は渾身の力で腕を振った。その反動で体はぐらりと傾く。
「あ……!」
倒れる——そう思った時、背中に腕を添えられた。一体なにが起きているのかわからず、瞬きを繰り返す。
「大丈夫?」
抱えられるように体を支えてくれるのは、若い男性。街灯に照らされた髪は茶色で、まだ幼さが残った顔。格好いいというより、可愛らしい人。しかし、そんなことを冷静に考えられるわけもなく。私にとって、彼は犯罪者だ。
「イヤアアアア!」
「ちょちょちょ、待って待って。落ち着いて」
ジタバタする私に苦笑する彼。
私、笑われてる?
様子が明らかにおかしいと気づき始めた私は、動かす手足を徐々に大人しくさせていく。それを見計らって、彼は制服のポケットからなにかを取り出した。
「はい、これ。落としましたよ」
一台のスマートフォン。
よく見ると、白と黄色をベースにした色合いに大きな向日葵のオブジェが付いたケースカバー——私のスマートフォンだ。あれ、おかしいなと思い、カバンやポケットの中身を確認するが、どこにもない。
「あれ」
練習が終わってから、スマートフォンで着信やメールの確認をして、カバンに入れたつもりが、実は入っていなかったのかもしれない。そりゃあ、母からの連絡が来てないと思うはずだ。手元にはないのだもの。
「あ、ありがとう」
そんな親切な人を犯罪者と思い込み、逃げていた。更に、勝手に転けそうになったところを助けてもらっていながら、尚も逃げようと暴れた。なんと失礼な人間なんだろう、私は。そんな反省の意を込めて「いろいろごめんなさい」と謝罪し、頭を深々と下げた。
そして、彼が制服姿なのを今一度思い出し、顔を上げる。
「学生、さん?」
「はい、賀翔高校です」
まだ混乱しているのか、頭の中では「合唱?」「ガチョーン?」「ガチョウ?」と辻褄の合わない単語が流れる。しかし、ピンと思いつき、いままで出てきた言葉を払い捨てた。
「えっと、あの頭の良い進学校の?」
「俺はみんなほど頭良くないですけどね」
彼はそう照れ臭そうにして立ち上がると、右手を差し出す。なかなか手を出そうとしない私の手を握り、立ち上がらせてくれた。紳士だ。
「大丈夫ですか? 痛いところはあります?」
「いや、ないです。心配してくれてありがとう」
恥ずかしい。異性にこんなふうに優しくされたことがなくて、免疫がない。俯き加減でいると、彼は「少し付き合ってもらえますか?」と言うと、私の手を取ったまま歩き出した。
訳がわからず、そのまま彼について行く。私が住むアパートから遠ざかって行くのに気づき、思わず声を掛けた。
「あの、ちょっと」
「まあまあ」
「『まあまあ』って……私の家はそ——」
私の家はそっちじゃないと言い掛けた時、彼は唇に人差し指を添えた。「シー」
そして、後ろを気にするように視線を向けていた。
「厄介な人に目をつけられたようですね」
その言葉が示すように、私達を尾行するように付いて来る影。その気配に、私はようやく気づいた。
「誰……?」
格段美人なわけでもなく、モテる要素は持ち合わせていない。誰かに恨みを買った覚えも、売った覚えもない。もしかして、意識しないまま誰かを傷つけていたのか。
いくら思い返してみても、記憶がない。奥底からじわじわと滲み出て来る恐怖心が私を襲った。指先が震える。思わず、彼の手を離し、立ち止まってしまった。足がガクガクと震える。
「ごめ、ごめんなさい」
無意識に、彼に謝っていた。
すると、彼も足を止めて、私に歩み寄る。目に見えない敵を睨みつけながら。
「お姉さんが謝る必要はありませんよ」
優しい声。私を落ち着かせるように、その眼差しも柔らかかった。
「失礼します」
そう言って、柔らかな手つきで、私の後頭部を支えて、もう一方の手で輪郭を撫でるように添えた。近づいて来る顔——ああ、知ってる。これって、キスだ。